梅毒の歴史
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本邦「梅毒」500年史
梅毒患者
まずは上の画像を見てほしいわけですが。
東京裁判の被告席に並ぶ東條英機(手前)と思想家・大川周明。大川は民間人として唯一「A級戦犯」で起訴されるんですが、1947年4月9日、正式に裁判から除外されました。
なぜかというと、裁判中、大川は東條英機の頭をはたいたり、奇声を発するなどして常識を逸した行動をとっていたからです。大川は梅毒による精神障害と診断されました。(頭をはたく映像は
こちら
)
梅毒は、戦後にペニシリンが出回るまで、ほとんど完治できない性病として恐れられてきました。いったいどれくらい日本で蔓延していたのか? まずは『解体新書』を出した杉田玄白に聞いてみたいと思います。
梅毒の症状
杉田玄白は、1757年、25歳の若さで江戸・日本橋に開業し、町医者になりました。それから隠居するまでの50年、江戸のさまざまな病気を診たわけですが。
玄白が70歳の頃に書いた回想録『形影夜話』(1802年)には、次のような記述があります。
《已に痘瘡・黴毒、古書になくして後世盛に行はるる事あるの類なり》
どういう意味かというと、「昔は医学書に天然痘や梅毒が書かれていなかったのに、今はずいぶん増えた」ということです。玄白が年を取るにつれ、梅毒患者は激増していきました。その一方で有効な治療法は見つからず、あらゆる医学書を読みあさったけれど、結局いまだにいい治療法がない。そして、これまで数万人の梅毒患者を診たという玄白は、次のような衝撃的なコメントを残すのです。
「毎年1000人あまり治療するうち、実に700〜800人が梅毒である」
一方、幕府医学所頭取の松本良順が書いた『養生法』(1864)には、
《下賎の人間100人のうち95人は梅毒にかかっている。その原因は花街・売色に規制がないからだ》
とあります。梅毒が花柳病と呼ばれるのは、このあたりに理由があるんですね。
いずれにせよ、18世紀中旬にほとんど見られなかった梅毒は、19世紀中旬にはかなりの感染者がいた……つまり、わずか100年ほどで、日本に梅毒が異常に蔓延したことがわかります。
恐るべき梅毒。今回は、わが国を襲った梅毒500年の歴史をまとめます!
梅毒の症状
日本で梅毒が初めて記録されたのは、1512年のことで、歌人・三条西実隆の『再昌草』に記されています。
《4月24日「道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戯に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ」》
上の「唐瘡」が梅毒のことで、この年、京都では梅毒が大流行したのです。
(竹田秀慶の『月海録』にも同じような記録があるようです。なお、これ以前から「横根」という言葉が使われており、これは一般に性病によるリンパ節腫脹を指しています)
梅毒の起源ははっきりわかっていませんが、コロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち込んだというのが通説。
第1回航海でイスパニオラ島(ハイチ島)からもち帰り、1493年、まずバルセロナ全市で流行。1495年、フランスがイタリアに進駐したとき、傭兵にいたスペイン人からイタリア人に感染。ナポリで大流行したため、フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びあいました。
梅毒はヨーロッパ全域に広がったあと、大航海時代の波に乗ります。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ一行がインド航路を発見すると同時に梅毒もインドに上陸。その後、マレー半島経由で、16世紀の初めには中国の広東に達しました。
やがて日明貿易や和冦経由で日本にも梅毒が伝来。関西で大流行を起こしたあと、江戸にもやってきて
吉原
などで一気に広まりました。中国や琉球経由だったため、日本では「唐瘡(とうそう)」や「琉球瘡」などと呼ばれました。
前述したとおり、日本で梅毒が初めて記録されたのは1512年。ちなみに鉄砲伝来は1543年。ということは、梅毒は弾丸より速く日本にやってきたわけですな。恐るべし下半身パワー(笑)。
(余談ながら、後に吉原の隠語では最下級の遊女のことを「鉄砲」と呼びました。そういう遊女を買うと、梅毒に当てられるから)
梅毒の症状
さて、梅毒は日本人にとって脅威でした。それは有効な治療法がなかったからです。江戸時代まで、日本では「五宝丹」などの血液浄化の煎じ薬を飲む以外、何の対策もありませんでした。
1775年、スウェーデン生まれのツュンベリーがオランダ東インド会社の外科医として長崎にやって来ます。そこで、梅毒の惨状を見て、ヨーロッパで普及していた特効薬を紹介します。この薬は1754年にオランダのファン・スウィーテンが発明したもので、0.104%の昇汞(しょうこう)液を服用するものでした。この薬の効果は劇的で、1776年までに長崎を中心に多くの患者が完治し、みな奇跡だと絶賛しました。
ちなみに昇汞というのは塩化第2水銀のこと。服用量を間違えると水銀中毒になるため、おそらく、かなりの数の日本人が“水俣病”に苦しんだはずです。
(というか、特にヨーロッパでは水銀中毒になってよだれを流せば流すほど治癒すると信じられていました)
江戸時代にはこんな川柳がはやりました。
親の目を 盗んだ息子 鼻が落ち
これがまさに梅毒の症状ですな。
梅毒というのは4期に分かれていて、
(1)感染後3カ月以内、陰部にしこり、潰瘍
(2)3カ月以降、全身の皮膚に紅斑(ばら疹)や膿疱
(3)3年以降、臓器、筋肉、骨に結節やゴム腫が生じる
(4)10年以降、中枢神経系と循環器系を中心に全身が冒され、麻痺や痴呆、精神障害
(3)のゴム腫が崩れると瘢痕(傷)となるため、これを「鼻が落ちる」と表現したわけですな。
ちなみに徳川家康の第2子、結城秀康は梅毒のため鼻が落ちて死にました。ほかには加藤清正あたりが有名人。
鼻が落ちてる写真は残念ながら見つからず
さて、日本初の梅毒検査(検梅)は長崎の稲佐遊郭において、ロシア海軍の要請で行われました。万延元年(1860)のこと。一方、イギリス海軍の軍医だったニュートンが慶応4年(1868)、横浜に日本最初の横浜梅毒病院を開設しています。
明治になると、状況が変化してきます。明治5年に「遊女解放令」が出ると、売春行為が地下に潜り、梅毒が世の中に蔓延してしまったからです。
この流れを受けて、明治7年、政府は梅毒検査(検梅)を柱とする「医制」を発布します。これが近代衛生行政の第一歩となりました。
で、この年に行われた吉原の検査では、120人のうち60名が梅毒と判明しました。実際には検査対象の半分以上が逃亡してしまったので、感染率ははるかに高かったはずです(『郵便報知新聞』明治7年6月8日)。
ちなみに日清戦争直前には、
「兵隊さんの間に梅毒が盛に蔓るとて種々八釜(やまか)しく」(『都新聞』明治26年)
などと書かれるようになり、軍隊でも梅毒が大きな問題となってきたことがわかります。『坂の上の雲』あたりを読むと日本兵の活躍に心躍らされるわけですが、実際は性病に悩む軍隊だったわけです。
治療法は水銀以外にヨウ素が使われましたが、ともに危険で、1910年、秦佐八郎らによってサルバルサン(有機ヒ素剤)が開発されたものの、効果は不十分でした。
結局、怪しい民間治療薬が幅をきかせることになります。
秘密の粋薬「ダム」(1917年の『面白倶楽部』より)
※左端の「いもりの黒焼き」は精力剤です
余談ながら、芥川龍之介の『南京の基督』では、悪性の楊梅瘡(梅毒)を病んだ少女に、友人が次のように言っています。
「あなたの病気は御客から移ったのだから、早く誰かに移し返しておしまいなさいよ。そうすればきっと2〜3日中に、よくなってしまうのに違いないわ」
…あぶねぇ、あぶねぇ。
こちらがコンドームの広告(30個で1円。ルーデサックはオランダ語)
昭和2年(1927)、梅毒の画期的な治療法が発明されます。ウィーンの精神科医ユリウス・ワグナー・ヤウレッグが創案したもので、梅毒患者をマラリアに感染させることで、病原体である梅毒トレポネーマを熱で殺すというものです。マラリアにはキニーネという特効薬があるため、梅毒を治したあと、マラリアも治せばいいだろうというめちゃくちゃな療法。とはいえこれで痴呆が減ったのは事実で、ノーベル生理学・医学賞を受賞することになりました。
ペニシリンの広告(1948年)
そして1940 年代以降(日本では戦後)、ペニシリンを中心とする抗生物質による治療が行われるようになり、梅毒はほぼ完治する病気となったのです。
ちなみに、国立感染症研究所の調べによると、梅毒の患者は2003年から増加傾向となり、2007年は737人だったそうです。
制作:2009年12月25日
<おまけ>
ヨーロッパではサポニンを含んだ中南米のユソウボク(癒瘡木)が梅毒の薬として重宝されてきました。ドイツのフッガー家は、新世界からのユソウボクの輸入を独占したことで富を築いたと言われています。
それにしても、江戸時代、実際に梅毒患者はどれくらいいたのでしょうか? 杉田玄白の「1000人のうち700〜800人」というのは病人の話で、実際の感染率はよくわかりません。ところが、これを人骨から病気の痕跡を読み取る「古病理学」の手法で解析した人がいます。それによると、骨梅毒の罹患率は男女ともに約3%。ただし、骨にまで症状が出るのは重篤患者なので、実際にはこの数倍、つまり江戸市民の約1割が感染していたと見られるそうです。
(谷畑美帆『江戸八百八町に骨が舞う』による。ネット上には同じく古病理学の調査で感染率54.5%だったと書いてあるサイトがありますが、この出典は不明)