大陸からの引き揚げ
驚異の画像ワールドへようこそ!
引き揚げ、そして祖国へ
満州からの引き揚げ第一陣(1946年)
『天才バカボン』や『ひみつのアッコちゃん』、『おそ松くん』で有名なマンガ家の赤塚不二夫は、昭和21年(1946)年6月15日、満州から引き揚げてきて佐世保に上陸しました。
初めて見る日本の印象を、後日、次のように語っています。
《日本に帰ってきて、あの佐世保の港を見たとき、ホントきれいだった。箱庭に見えたよ。小さい島があちこちにあって。だって子どものときそういう風景って見たことないんだ》(『ボクの満州』)
箱庭のような祖国ニッポン。どこまで行ってもコーリャン畑が続く大陸の大地とはまったく異質の風景でした。
赤塚不二夫の父親は満州の憲兵で、毛沢東の八路軍を追っかける仕事をしていたため、田舎を転々としていました。母親は元芸者で、異国の地で一旗揚げようと満州へやってきた人物です。
敗戦で父親はシベリアに抑留され、母親と子供4人で引き揚げ基地だった葫蘆(ころ)島に到着します。
赤塚少年は「僕は要領がいいから母親から離れなかった」と語っています。一度でも母親から離れたら、間違いなく残留孤児になっていたはずです。
中国の退去証明書
赤塚一家が葫蘆島を出て日本に到着するまで4日かかりました。船は「上陸用舟艇(しゅうてい)」と呼ばれる平底の軍用船でした。何で底が平らなのかというと、海から直接砂浜に乗り上げて、戦車を揚陸するからです。当然、居心地は悪く、海上ではほとんどの人間がひどい船酔いに悩まされていたそうです。
さて、引き揚げ船には、後に南極観測船として使われる「宗谷」など日本の船舶も使われますが、実は多くがアメリカの軍用船でした。
船の科学館に永久保存されている宗谷
いったいなぜか?
NHKスペシャル『引き揚げはこうして実現した』によれば、当初、旧満州にいた日本人技術者をソ連・中国国民党・共産党それぞれが「留用」したため、帰国は絶望視されていたそうです。
ところが1946年、上海で米中の極秘会議が開かれ、引き揚げが決定します。
イメージ図
どういうことかというと、国民党軍を華南から華北に輸送し、勢力を拡大しつつある共産党軍と対峙させる。同時に100万の日本人を満州から帰国させ、日本からは朝鮮人を帰国させるという一石三鳥の戦略。要は国共内戦でアメリカが国民政府を支援するために編み出された作戦でした。
そして、ソ連との折衝の末、共産党の影響が及ばない葫蘆島が選ばれたのでした。1946年5月14日、島からの引き揚げが始まります。
ところで以下余談ながら。
毎年12月には様々な外交文書が公開されるんですが、2000年に公開された資料で、朝鮮人送還の様子が明らかにされました。
当時、日本には200万人近くの朝鮮人がいて、1945年暮れから大がかりな帰還計画が始まりました。ところが、次第に朝鮮人の帰国希望者が減少していきます。GHQは送還の中止に傾きますが、日本政府はなんとかもっと送還したいと訴えます。
以下は、外交文書に記録されたGHQ帰還担当のハウエル大佐と厚生省関係者の会話です(1946年3月「朝鮮人送還問題に関する連合司令部との会談」、朝日新聞2000年12月20日付より転載)。
大佐「帰る気を起こさせる手段はないか」
日本「持参金の増額を認めては」
大佐「不可能だ」
日本「ならば強制送還を認めてくれるか」
大佐「それも不可能。この際、中止すべきだ」
日本「中止だけは思いとどまってほしい。朝鮮人を可能な限り多く送還することは、日本政府の最も希望するところだ」
結局、帰還は1946年末まで続けられたものの、希望者は増えずじまい。「朝鮮人帰還輸送終了の件」(1946年12月)によれば、帰還したのは98万人で、約60万人が日本残留を選んだそうです。
さて、話をコロ島に戻しましょう。赤塚不二夫によれば、
《葫蘆島の税関でみんな取り上げられるって言うんで、前の晩みんなでたき火をやった。そこで、写真とか時計、万年筆とか全部燃やした。やつらに取られるくらいなら燃やしちゃえって》
こうしてすべてを燃やした一家は帰国船に乗り込んだのでした。
帰国船ではしばしば病気が発生し、その場合、港を前にずっと上陸できないことも多かったのですが、幸い、赤塚一家はすぐ上陸できました。
広東からの引き揚げ船で
コレラ
発生。右は
予防接種
の証明書
「箱庭」のような佐世保に上陸した赤塚不二夫は当時10歳。4日間激しい揺れに耐えて上陸すると、引揚援護局(現在のハウステンボスの場所)まで7キロの道をとぼとぼと歩きました。
下車駅で提出する定着証明書
(葫蘆島は「壷蘆島」とも書きました)
引揚援護局では、帰国者はいくら財産を持っていても、1人1000円以上は持ち込めず没収されてしまいます。1000円持っていない場合は、100円の運賃が支給されたようです。赤塚一家がいくら持ち出せたのかはわかりません。
引揚証明書(上が表、下が裏)
1人あたり外食券3枚とパン100グラム支給。この家族は4人で4000円持ち込めました
赤塚一家は佐世保から汽車に乗って、母親の実家である奈良県の大和郡山に移動します。
家に帰ると、すぐ妹が死んでしまいました。
《(妹は)連れて帰ってきて、寝かせて30分後にフゥーって死んじゃったの。ボクはその時小学校5年生だったけど、「あ、かあちゃん孝行したな」ってそう思った。だって日本に帰ってきて、おやじはシベリアだよ。おふくろ1人で4人をどうやって面倒みるんだよ、っていうのがあったから。しかも、終戦直後の何もない時代。親孝行したんだなって。いま生きてたら50いくつかなあ。あいつ可愛いとき死んでよかったよ》
『ひみつのアッコちゃん』や『おそ松くん』のヒットが出るのは1962年。日本に上陸して16年後のことでした。
制作:2008年12月20日
<おまけ>
引き揚げ者から没収した金銭は、1953年から返還が始まります。
ところが返還はほとんど進まず、財務省関税局によると、預かった保管品約135万件(約44万人)のうち、3分の2は未返還だそうです。
返還を知らせる手紙
【以下参考資料】
旧厚生省によると、海外引き揚げ者の総数は約630万人。地域別に見ると、旧満州が105万人、中国が154万人、旧ソ連が47万人。ついでに韓国60万人、北朝鮮32万人。台湾48万人。
その多くが敗戦から1年半ほどで帰国し、1946年末までに500万人以上が引き揚げたそうです。
参考までに、各引揚援護局への引き揚げ者数をまとめときます。
1945年11月24日設置の援護局
・博多引揚援護局(福岡県)139万2429人
・佐世保引揚援護局(長崎県)139万1646人
・舞鶴引揚援護局(京都府)66万4531人
・仙崎引揚援護局・仙崎出張所(山口県)41万3961人
・鹿児島引揚援護局(鹿児島県)36万924人
・函館引揚援護局(北海道)31万1452人
1945年12月14日設置
・大竹引揚援護局・大竹出張所(広島県)41万783人
・宇品引揚援護局・宇品出張所(広島県)16万9026人
1946年2月21日設置
・田辺引揚援護局(和歌山県)22万332人
1946年3月26日設置
・名古屋引揚援護局(愛知県)25万9589人
1947年5月1日設置
・横浜援護所(神奈川県)4836人
合計 559万9509人(厚生省『援護50年史』より)
ついでに、引き揚げに関する年表を公開しときます。
◆1945年
8月 ソ連、旧満州侵攻。日本が無条件降伏。武装解除された旧日本軍をソ連軍がシベリア移送開始
9月 舞鶴港など10港が引き揚げ上陸港に決定。公式引き揚げ第1船「興安丸」が山口県仙崎港に入港
11月 厚生省、舞鶴などに地方引揚援護局を開設
◆1946年
2月 マッカーサーがソ連占領地域の日本人引き揚げを米政府へ要請
3月 引揚援護院(厚生省の外局)設置
5月 中国国民党と米国間で、在満日本人の送還協定成立。葫蘆島からの引き揚げ開始
6月 復員庁設置
8月 中国国民党、中国共産党、米国間で、共産党支配下の在満日本人の送還協定成立
12月 在ソ連日本人捕虜の引き揚げに関する米ソ協定成立、樺太からの引き揚げ第1船が函館入港
◆1947年
10月 復員庁廃止。この年、ソ連からの帰国がピークに達し、約20万人に
◆1948年
5月 引揚援護庁設置
8月 国共内戦で、中国からの引き揚げ中断
8月15日 大韓民国成立
9月 9日 北朝鮮成立
10月 シベリア抑留兵の間で歌われていた歌謡曲「異国の丘」発売
◆1949年
10月 中国からの引き揚げ最終船が舞鶴入港。政府は引揚者の秩序保持に関する政令を施行
10月1日 中華人民共和国建国
◆1950年
4月 ソ連が「日本人捕虜の送還は完了」と発表
6月 朝鮮戦争勃発
◆1952年
4月 サンフランシスコ講和条約発効(日本の独立)
◆1953年
3月 中国と「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」が成立し、再開第1船が、舞鶴に入港
7月 朝鮮戦争休戦
11月 ソ連と「邦人送還に関する共同コミュニケ」が成立。中国は引き揚げ打ち切りを発表
12月 ソ連引き揚げ再開、第1船が舞鶴入港
◆1954年
4月 引揚援護庁廃止。厚生省内に引揚援護局設置
9月 菊池章子のレコード『岸壁の母』が100万枚以上売れる
◆1956年
10月 日ソ国交回復共同宣言
12月 シベリアからの引き揚げ船、舞鶴入港。ソ連からの引き揚げ終了。日本の国連加盟承認
◆1957年
5月 引揚者給付金等支給法公布
◆1958年
7月 中国からの集団引き揚げ終了
◆1959年
3月 未帰還者特別措置法公布で、生存不明者について戦時死亡宣告
9月 集団引き揚げの最終船、小樽に入港