最暗黒の東京
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100年前の貧民窟を行く
荒川区・日暮里のバタ長屋(写真はすべて1930年頃)
「どこに住んでいるのだね」
「四谷の鮫河橋という貧民窟です。今はメクラの男と夫婦になって、小さい子供がゴチャゴチャ5人もいるのです。アンマで暮らしを立てているのです」
「お前に姉さんがいると言ったが、その人はどうしているのかね」
「鮫河橋に一緒にいます。お母さんの手をひくために。そして、今のお父さんの子供と夫婦になっています。車夫ですが、酒のみで、バクチ打ちで、悪党なのね」
(坂口安吾『明治開化安吾捕物 時計館の秘密』)
その昔、東京には数多くの貧民窟がありました。代表的なものが3カ所あって、それは下谷万年町(上野駅のそば)、芝新網町(浜松町駅のそば)、四谷鮫ケ橋(赤坂離宮のそば)です。この3カ所は江戸時代から続く大スラムで、明治30年(1897)の調査では、下谷万年町が875戸、芝新網町で532戸、四谷鮫河橋谷町で1370戸の細民長屋がありました。
台東区三ノ輪の細民街全景
貧民街に住む人たちはどういう生活をしていたんでしょうか?
明治19年(1886)、「朝野新聞」に掲載された「東京府下貧民の真況」には、次のような例が出ています。
●50過ぎの人力車の車夫。不景気と駅への立ち入り制限で、朝から夜の12時まで働くも、収入は1日2銭のみ。1日5銭の借車代も払えない。妻は刷毛作りを内職にしていて、1日5〜6銭の手間賃収入。これではお粥もすすれない。
●左官の手伝いで1日15〜16銭。雨の日は無収入。妻は団扇(うちわ)の骨割りを1日50本やって2銭。ただし子供の世話でなかなかこなせない。
当時のスラムの家賃はだいたい月20〜40銭ですが、一括払いはできないので、通常は日割り払い(40銭の場合、日割り払いだと1日2銭)。これに米代、薪・炭代、肴代、布団代などを加えると、1日20銭程度は必要で、多くの人はまともに暮らすことができませんでした。ホントに「人を殺すに手間ヒマいらぬ、雨の10日もふればよい」という状況でした。
家の前にトイレ(『最暗黒の東京』より)
その13年後はどうか。明治32年の『日本の下層社会』(横山源之助)に、新網町の大道芸人一家(妻1、子1)の家計が出ています。それによると1日あたり、
米代(1升2合)17銭/酒代3銭/薪・炭代2銭/タバコ代7厘/肴代4銭/石油代5厘/子供の小遣い1銭/布団(2枚)2銭6厘/家賃2銭5厘の合計33銭3厘
で、まさにカツカツの生活。しかしこの大道芸人は、米が食え酒が飲めるだけ幸せでした。収入が少ない貧民窟の人々は、たいてい残飯を食べていたからです。
やはり『日本の下層社会』によれば、残飯は上等120匁(=もんめ、1匁は3.75g)1銭、お焦(こげ)170匁1銭、残菜1人1度分1厘、残汁2厘でした。
日暮里の残飯屋
ではこうした残飯はどうやって調達したんでしょうか?
実は、日本軍が捨てた残飯を回収し、格安で転売する残飯屋という職業がありました。四谷には陸軍士官学校があり、芝には海軍大学校があったので、食にありつくには最適だったのです。
(ちなみに下谷万年町の近くには
軍部の施設
はありませんが、こちらは上野駅にも浅草にも近いという地理上の理由でした。貧民窟でもっともメジャーな仕事は車夫で、ここには多くの車夫が住んでいました)
さて、明治25年、「国民新聞」記者の松原岩五郎がスラムに入り込み、残飯屋の様子などを『最暗黒の東京』にまとめています。松原は1日3回、士官学校に行って、ひとザル(およそ15貫目)50銭で残飯を引き取り、これを1貫目およそ5〜6銭ほどで販売しました。タクアンの切れ端から食パンの屑、魚の骸(あら)や焦げ飯など、膨大な量を荷車で運びました。以下、貧民窟での様子です。
残飯屋の外観
残飯屋に殺到する客
《この残物を買う者如何(いかん)と見渡せば、皆その界隈貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌鳳髄(ゆうしょうほうずい=珍味中の珍味)もただならずというべく。
我らが荷車をひきて往来を通れば、彼らは実に乗輿(じょうよ)を拝するが如く、老幼男女の貧人ら皆々手ごとに笊(ざる)、面桶(めんつう=1人盛りの食器)、重箱、飯櫃(めしびつ)、小桶(こおけ)、あるいは丼、岡持(おかもち)などいえる手頃(てごろ)の器什(うつわ)を用意しつつ路(みち)の両側に待設けて、今退(ひけ)たり、今日は沢山にあるべし、早く往(ゆ)かばやなどと銘々にささやきつつ荷車の後を尾(おい)て来るかと思えば、店前(みせさき)には黒山の如く待構えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて、さながら福島中佐(シベリア単独横断した英雄)の歓迎とも言うべく颯(さっ)と道を拓(ひら)きて通すや否や、我れ先(さ)きにと笊、岡持を差し出し、2銭下さい、3銭おくれ、これに1貫目、ここへも500目(1目は1匁)と肩越に面桶(めんつう)を出し腋下より銭を投ぐる様は何に譬(たと)えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、残物屋に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。
そのお菜(かず)の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等は皆手攫(てつか)みにて売り、汁は濁醪(どぶろく)の如く桶より汲みて与え、飯は秤量(はかり)に掛くるなれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以てす》
ある日、士官学校からの出物が止まり、「飢饉」状態が3日続きました。松原は厨房に頼み込んで、豚エサの餡殻、肥料用のジャガイモ、洗った釜底のご飯などを持って帰ると、人々は大喜びで我先にカネを出し始めました。
松原は、豚のエサに値段をつけて売る自分の姿を見て、「世の中で語られる道徳や、行われる慈善は、必ずしも本当の道徳や慈善ではない」と痛恨の叫びをあげるのでした。
不衛生な下層社会の食堂
不衛生で悪臭に満ち、目も当てられないほど大破した家ばかりの貧民窟は、犯罪と病気の巣窟でもありました。桜田文吾の『貧天地饑寒窟探検記』には、大阪の貧民窟である名護町周辺(日本橋、難波地区)で明治19年に調査したところ、窃盗と
コレラ
の発生件数に明確な相関関係が見られたとあります。
この図は今では滅多に見られないので、参考までに公開しておきます。上が窃盗の発生、下がコレラの発生(「、」が発生箇所)。同じ地図かと思うくらい一致してますね。
右下・日本橋筋4〜5丁目あたりが最悪の貧民街
なんだかあまりにも悲惨な貧民窟ですが、最後にいいエピソードを1つ。
『最暗黒の東京』で、著者松原は、大破した家の中にあるものを見つけます。それは、
《縄もて仏壇をつるし、または古葛籠(つづら)を掃めて神体を安置し、以て祖神、祖仏を奉祀するの崇敬心を壊(やぶ)らず》
祖先と神に守られて、貧民窟では庶民が仲良く元気に暮らしていたのでした。
制作:2007年10月9日
<おまけ>
明治の3大貧民窟は、その後どうなったのでしょうか?
日露戦争後、都市の拡大とともに、貧民窟には様々な圧力が加わります。
下谷万年町や芝新網町では、地価の高騰で家賃が上がり、多くの人々は場末の細民街に移動しました。特に屑物屋は営業規則の施行で、荒川区の日暮里や三河島へと移転していきました。四谷鮫ケ橋では、新宿南町の長屋へ移動していく人が多かったようです。
そして、いずれも大正12年の
関東大震災
で跡形もなく消滅してしまいました。震災後は、浅草や深川・本所あたりに貧民窟が再興するも、多くは市外(現在の板橋区、豊島区、新宿区、墨田区あたり)にひっそりと移動していくのでした。
さて、ここで考えてほしいことがあります。
現在、世の中では格差問題が議論されていますが、格差が劇的に進行するとどうなるか。家賃の払えない貧乏人はまずはホームレスになってバラバラに暮らしますが、さらに貧困が進めば、次第にまとまって住むことになります(その方が食糧確保の効率が高まるから。行政による強制移住もあるかもね)。それはつまり「現代の貧民窟」の誕生です。
おそらく経済格差の流れは止まることがないので、負け組である僕らは、貧民窟でひっそり生きていくことになるんでしょう。時代は繰り返すのです。
浅草の木賃宿