アスファルトとコンクリート
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ニッポン「道路舗装」史
皇居前広場のアスファルト道路舗装(1930年頃)
もしエジプトでミイラが発掘されたとして、棺の蓋をあけて、最初にすることは何か。
実は、棺の中には黒い防腐剤が大量に入っているので、まずはこれを取り除かないといけないんですね。この防腐剤がアスファルトです。
有名な「ノアの箱舟」は、『旧約聖書』にこう書かれています。
《いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、瀝青(れきせい)で内外を塗りなさい》(創世記6章14節)
この瀝青こそ天然アスファルトのことで、防水剤として有効だったことがわかります。
バベルの塔を作るときにはレンガを固定する接着剤として使われ、ピラミッドを建造するときは、道路をアスファルトで固めました。バビロンの空中庭園では、庭にアスファルトが敷き詰められたといわれています。
このように、天然アスファルトは、紀元前3200年頃からメソポタミアなどで建築材料として使われてきました。
中東では、天然アスファルトは死海で産出します。巨大な塊がしばしば湖面に浮かんでくるので、古代人でも便利に使えました。遊牧民ナバテア人が交易を独占し、ここから運ばれたアスファルトがエジプトのミイラを作ったのです。
エジプトのミイラ棺を開けると、大量のアスファルトが
日本の街道は、参勤交代のおかげで早い時期から整備されていましたが、路面のひどさは有名でした。雨が降ればドロドロになり、風が吹けば砂埃が舞いました。
1604年、江戸幕府が一里塚を設置し、道路は小石で固められていきます。1680年、箱根の道路が石畳で舗装され、これが日本初の舗装道路となりました。
以下、年表風に書けば、
1738年 大津街道(京都―大津間の日岡峠)で白川石による石舗装完成
1863年 長崎グラバー邸内でコールタール舗装
1870年 横浜でマカダム式(砕石を敷き詰め、おし固める)舗装
1873年
銀座で煉瓦
舗装
といった具合です。
甲州街道と青梅街道の分岐・新宿追分も未舗装(1930年頃)
では、アスファルトはいつ日本に導入されたのか。
1878年(明治10年)頃、銀座2丁目にアスファルトを扱う岡本商店があり、また1888年頃には、日本橋に西座真治の会社がありましたが、いずれも商売はうまくいかなかったようです。
アスファルトの優位性を最初に見抜いたのは、東京府知事の由利公正(ゆりきみまさ)です。
1878年、東京で開催された第1回内国勧業博覧会で、園芸館の床を舗装しようとしたのです。しかし、工事中に火災が起き、このときは使用が中止されました。
同年、東京神田の昌平橋で、日本初のアスファルトによる道路舗装が行われます。以後、観音崎・猿島砲台の火薬庫の防湿剤などに使われていきます。
猿島の火薬庫。煉瓦とアスファルトで作った
このアスファルトはどこから来たのかというと、秋田県の豊川油田です。豊川の土瀝青は、江戸時 代後期から、防水・防腐剤として利用されてきました。天然アスファルトは湿気を吸い、断熱効果が高いので、寒い地域では防寒材としても有効でした。
豊川油田を開発したのは、地元の黒澤利八です。明治初年、インク・墨などの原料になる油煙製造を開始、その後、中外アスファルトとして成長していきます。
中外アスファルトは、1907年(明治40年)、日本橋通りを天然アスファルトを用い、日本で初めて本格的な道路舗装(車道2寸厚、歩道8分厚)を行います。
豊川油田
1902年、アメリカで蒸気精製によるアスファルトの工業生産が始まります。
大正時代になると、国内のアスファルト企業は中外アスファルトと日本アスファルト工業の2社に集約されますが、両社とも豊川の天然アスファルトを使い、また工場生産も開始します。
中外アスファルトは、1918年(大正7年)、宝田石油に吸収され、1921年、宝田石油と日本石油が合併し、事実上、アスファルト製造は
日本石油
の独占となります。
日本石油のアスファルト製造工場(蒸留釜)
続いて、コンクリートについて。
ローマ帝国では、火山灰を使ったローマン・コンクリートが大量に使われています。ローマのコロッセオもコンクリ製です。
ローマ帝国の支配下にあったヨルダンのアンマンには、6000人収容できるローマ劇場がいまも残っています。
ヨルダンのローマ劇場
日本では、1875年、官営・深川セメント製造所(後の浅野セメント)で
セメントの製造
が始まりました。
日本初のコンクリート橋は、1903年に竣功した
琵琶湖疏水
の橋で、1909年には仙台で広瀬橋も作られました。
さらに、日本初のコンクリートによる道路舗装は、1912年、名古屋の大須観音入口で行われています。
1919年には、「道路法」が施行され、ようやく道路の体系的な管理が始まります。
浅野セメント深川工場(手前はコンクリート橋の清洲橋)
1923年(大正12年)、
関東大震災
が起こり、ここから東京の道路は一気に舗装が始まります。
震災後すぐに政府に復興局ができ、これは1930年まで存続します。つまり、震災復興は1930年に片がついたわけですが、この時点で復興局は約70万坪の道路を舗装しました。東京市が施行した60万坪と合わせ、東京は130万坪の舗装が実施されたわけです。
木のかたまりを使った舗装(上野)
復興局の70万坪の内訳をざっくりとした数字で見てみます。
<車道(約49万坪)>
アスファルト27万坪 膠石11万坪 木塊6万坪 小舗石3万坪 煉瓦1.4万坪 アスファルトブロック0.8万坪
<歩道(約22万坪)>
コンクリートブロック12万坪 アスファルトブロック6万坪 アスファルト3.5万坪
膠石というのは石とセメントを混ぜたものですが、車道では、圧倒的にアスファルトが使われました。
膠石舗装のためのロード・フィニッシャー
アスファルトの利点は、(1)工事費が安く、(2)施工後、数時間で使える点でした。
コンクリは(1)寿命が長く、(2)轍ができない、さらに(3)原料の石灰石は国産可能というメリットもありましたが、震災の復旧を急ぐ状況では、アスファルトの方が便利でした。
九段坂のレンガ舗装
1926年、明治神宮外苑の道路工事の責任者となったのが、藤井真透です。神宮外苑は、周回道路と放射状に延びる道路で構成され、当時としては極めて大規模な街路計画でした。
藤井真透は「日本の道路の父」とも呼べる人物ですが、このとき、日本初のワービット工法が採用されました。
これはアスファルトの上にモルタルを敷いて2層を同時に押し固める工法で、現在のアスファルト舗装の元祖のようなものです。
施行したのは日本石油で、この工法で阪神国道なども舗装され、全国的に普及していきます。
理想的な街路計画と呼ばれた神宮外苑の舗装
戦後の1948年11月、GHQは「道路の維持修繕」を目的としたマッカーサー覚書を発表。この年、コンクリートの混和剤(AE剤)が開発され、セメントの扱いが楽になりました。そのため、日本ではアメリカ流のコンクリート舗装が当然のように採用されました。
戦後最初のコンクリート舗装(京浜国道・大森付近、1946〜1947年)
1952年、「道路法」が全面改正されます。1953年には
自動車
保有数が100万台を超え、1954年に「第1次道路整備5カ年」が始まります。この時点で、日本の道路は10%が通行不能だったといわれています。
1956年、来日したワトキンス調査団が「日本に道路はない。道路予定地があるだけだ」と酷評し、高速道路の普及を促します。この流れが、田中角栄の
「日本列島改造論」
につながっていきます。
1950年代、建設省の直轄事業では8割がコンクリ舗装でした。
しかし、いつのまにかアスファルト舗装が主流になっています。これは、前述の安い、早いといったメリット以外に、車のゴム車輪だとアスファルトの方が静かで乗り心地がいい点、また修繕がしやすい点も大きな理由です。
その後、コンクリートは引っ張りに強い「プレストレストコンクリート」が実用化され、セメントは特に橋梁や枕木で使われるようになりました。
また、アスファルトも、今ではコンポジット舗装といって、下部にコンクリを使う技術が開発されました。
国交省の『道路統計年報2013』によれば、現在の日本の道路総延長は1200万キロ。
そのうち未舗装が19%で、コンクリート舗装はわずか4.5%。残りはすべてアスファルト舗装になっています。
コンクリートの専用道路を走る名古屋のバス「ゆとりーとライン」
制作:2014年6月16日
<おまけ>
1934年(昭和9年)、アスファルトが主力の日本石油道路部と、セメントが主力の浅野物産道路部が合併し、日本鋪道株式会社が設立されます。これが現在のニッポ(NIPPO)です。
NIPPOは
F1レース
のサーキット舗装も担当しています。富士スピードウェイは、富士川上流の硬質砂岩を使っており、凹凸差は3mで平均0.7mm以下、最大でも2mm未満となっています。
また、鈴鹿サーキットは、世界的に珍しいアスファルト舗装になっています。
鈴鹿サーキットのパドックの舗装