海図の基礎
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海図の誕生
尖閣諸島と竹島の最古の測量図を公開
尖閣諸島の海図(1915年測量)
まずは下の絵を見てください。
1853年、日本にやってきたペリーの乗組員たちです。場所は浦賀。風光明媚な風景の中で、何となく楽しそうにも見えますが、いったいこの連中は何をしているのか?
『ペリー日本遠征記』所収「浦賀の風景、江戸湾」(米国立公文書館のサイトより)
左手の男は、なにやらロープを海に投げている。この重り(鉛?)を付けたロープで、実は海の深さを測っているんですね。
そして、右手には望遠鏡を覗いた男がいます。もしこれが望遠鏡ではなく、経緯儀(けいいぎ)だとしたら、角度を測ってることになります。目標物との角度を測定することで、現在地が特定できるんですね。
つまり、この絵は、浦賀の海のあちこちで水深を測ってるところ。要は海図の作成です。
こうしてできた海図がこちら。
『ペリー日本遠征記』(米国立公文書館のサイトより)
上の海図の拡大図(海洋情報資料館のサイトより)
ポウハタン号は
黒船
の旗艦です
測量地点を見ると、江戸近辺までは到達してませんが、少なくとも横浜沖はほぼ完全に測定されています。ペリーはこの海図を元に、翌年、巨大な軍艦を横浜沖まで入港させ、幕府との交渉を開始し、日米和親条約の調印に成功するのです。もし海図がなければ、艦隊は湾内に入ってこれなかったので、幕府は開国を引き延ばせたかもしれません。
まさに、海図こそが海軍パワーの要だったわけです(同様に、陸の地図こそ陸軍パワーの源)。
では、日本初の海図はいつ作られたのか?
伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が完成したのは1821年ですが、これは海図ではありません。
日本初の海図は、1859年(安政6年)に刊行された「神奈川港図」で、測量者は、長崎海軍伝習所でオランダ式測量術を学んだ松岡磐吉らです。
続いて1862年頃から、江戸幕府の役人・福岡久右衛門が尾張を中心に測量を始め、1865年に海図を発行しました。その後も幕府は江戸、長崎、横浜、大阪などの海を小規模ながら測量していますが、この段階で明治維新となります。
1870年(明治3年)、イギリスの測量船が来航したことを受け、明治政府も測量の必要を痛感。軍艦「第一丁卯」を測量船とし、志摩の的矢港や讃岐の塩飽諸島を測量します。
翌年は「春日」が北海道から宮古、釜石を測量し、同年秋に兵部省海軍部内に水路局が誕生します。
海軍水路局
日本初の近代的な海図は、このとき測量した釜石で、この地に鉄鉱石があったため、優先的に描かれ、1872年に刊行されました。そして、その後、半世紀で500枚近い海図が作られましたが、残念ながら、初期のほとんどのものが関東大震災で焼失しています。
日本が測量した最古の海図「釜石」(海洋情報資料館)
ところで、海図にはいったいどんな内容が書かれているのか?
まず海図は、方向を知ることが目的なので、ほとんどはメルカトル図法(漸長図)で描かれます。縮尺によって、以下のように名前が付けられています。
●総図(400万分の1)=だいたい日本全図
●航洋図(100万分の1〜400万分の1)=だいたい中部〜東北一円くらい
●航海図(30万分の1〜100万分の1)=だいたい関東地方一円
●海岸図(5万分の1〜30万分の1)=だいたい東京湾全図
●港泊図(〜5万分の1)=埠頭の建物がはっきりわかる感じ
上の絵の海底の高さを地図化すると、下のようになります
↓
注目すべきは羅針盤で、2種類併記されています。
外側が「真方位コンパス」で、北極と南極の正しい方位が示されたもの。高速回転するコマの運動を使ったジャイロコンパス(転輪羅針儀)を使った場合、こちらを見ます。
内側は磁針方位コンパスで、磁気羅針儀を使った場合、こちらを見ます。これは地球の極と地磁気の極がずれてることから起こるんですね。
「尖頭諸嶼(尖閣列島)」最古の海図
(1887年から1915年までに計測したデータを使用)
コンパスの表記は、1922年の磁気コンパスは本当の極より西へ2.0度ずれており、年0.7分ずつずれていく、という意味です。ちなみに海図は、新しいデータをどんどん付け足していくので、いつ測量したのかは正確にわからないことが多いのです。
海図に書かれた数字は、もちろん水深を示します。単位はメートルですが、かつては両手を広げた長さ「ファゾム(尋)」(1.8mちょっと)やフィート(30cmちょっと)も使われていました。冒頭の尖閣海図ではメートルが、下の海図ではファゾムが使われています。
わかりにくいのが底質で、Mは泥(Mud)、Rは岩(Rock)、Sは砂(Sand)、Stは石(Stone)、Shは貝殻(Shells)、Gは礫(Gravel)です。これにc(粗い)やf(細かい)などの形容詞がつく場合もあります。いずれも漁業関係者や投錨に必須の情報です。
あと必要なのは、灯台の数字くらいでしょうか。「Oc G 6s 16m 12M」とあれば、「明暗光(緑)、6秒に1光、灯高16m、光の到達距離12m」という意味です。
さて、地図の測量は、かつて三角測量がメインでした。簡単に言えば、ある2点間の正確な距離がわかっていれば、角度を測定することで、別の地点の位置や高さが判明するということです。
つまり、三角測量を繰り返すことで、海岸線も描けるし、山の高さも測れる。まさに、三角測量こそが地図制作の基本だったわけですな。
左が位置の測定、右が高さの測定
では、陸地から離れた島はどうするのか? 基本的には頑張って三角測量するんですが、孤島の場合は天体の観測による「天測」を行いました。
この場合、緯度の測定は比較的簡単でした。たとえば明治時代にはタルコット法といって、2つの恒星の子午線通過の高度差で求めました。これは天頂儀1つあればOKです。
左が石垣島、右が海南島の天測点
タルコット法による世界最古の竹島地図(「本標経緯度実測原簿」より)
上の拡大図(1908年)
韓国初の測量図(1954年)
さて、緯度の測量は簡単ですが、問題は経度でした。
子午儀を使えば、ある恒星の「位置」と「子午線の通過時間」によって、観測地点の経度が判明します。ところが、恒星の「位置」を確定させるには、その場所の経度が必要なのです。あれ? じゃ、どうすればいいんでしょうか? つまるところ、どこかに経度と緯度の基点を作っておかなければなりません。
言うまでもなく、経度はイギリスのグリニッジ天文台が基点です。ここから日本国内の経緯度原点を正確に決めなければなりません。
日本初の経度は、明治5年に東京の海軍省が基点となりました。しかし、測量としては甘いものでした。当時は知られていませんでしたが、日本は島国なんで、大陸からの強い重力で、測量値に大幅なずれができたりもしたからです。結局、基点の数値は、以後も頻繁に訂正されていきます。
1882年(明治15年)、日本は、ようやく外国の勝手な測量を禁止することができました。しかし、経度の正確な測量は難しく、アメリカ人の測量を受け入れます。アメリカは、正確な経度がわかっていたインドのマドラスから長崎まで測量し、さらに東京まで計測したことで、はじめて比較的正確な経度が判明します。この基準点は麻布の海軍観象台の構内に作られ、「チットマン点」と呼ばれました。当時は角度より時間による経度を優先していたので、東経9時18分58秒02という数字が、1886年以後、日本の標準経度として公認されました。
1915年(大正4年)、海軍省水路部の中野徳郎が、グアム→東京の経度を観測し、翌年、ウラジオストック→長崎を、さらに翌年、長崎→東京を測定したことで、東回りと西回りの双方から東京の経度測量に成功します。こうして、1918年、9時18分58秒727(角度で139度44分40秒9)という標準経度が確定したのです。
この経緯度原点は、2002年に世界測地系に移行するまで使われました。
旧水路部天測室の緯度経度を、1912年に東京天文台から測量したもの(「本標経緯度実測原簿」より)
余談ながら、かつて日本の経度測量は、海軍省水路部、
陸軍省陸地測量部
、文部省測地学委員会、内務省地理局などが担当していました。しかし、結局、経緯度原点は海軍の観象台におかれ、水準原点(高さの基準)は陸軍の陸地測量部の構内に設置されました。海軍の観象台は1888年(明治21年)に
東京天文台
となりましたが、やはり測量は軍事の要だったことがわかりますね。
水準原点(左)と経緯度原点
海軍の水路部は、1872年(明治5年)に潮汐観測を開始し、1900年に航海年表を、1921年に潮汐表を、1922年に水路要法を刊行します。
国土の沿岸測量は、1917年(大正6年)、植民地も含めすべて完成し、以後、修正を続けていきます。
水深の測量も、1925年から音響測深が始まり、データは一気に拡充していきました。
日本の水路調査の基礎を作ったのは、水路部の初代部長・柳楢悦(やなぎならよし)です。「海の伊能忠敬」などと呼ばれる人物ですが、水路部の創業方針についてこう書いています。
「水路事業の一切は海員精神に依り、徹頭徹尾、外国人を雇用せず、自力を以て外国の学術技芸を選択・利用し、改良・進歩を期すべし」
測量技術こそ軍事力だった時代、この自前主義は、技術の育成に大きな役割を果たしたのでした。
なお、海軍省水路部は、現在は海上保安庁海洋情報部になっています。陸軍の陸地測量部は国土地理院ですね。
制作:2012年5月26日
<おまけ1>
中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、1970年代に入ってからです。これは、1968年に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が、尖閣諸島周辺の海底に石油や天然ガスが大量に存在する可能性を指摘したからです。そこで、その原文を見てみると、意外にも非常に短いものでした。国際問題って、実はこんな短い文章から始まるんですね。
<おまけ2>
緯度と経度の原点を設置するのは、GPS時代でも、かなり難しいんだそうです。そんなわけで、韓国では、今でも東京が経緯度原点になっています。というか、いちおう、2002年に水原市の国土地理情報院に独自の経緯度原点が設置されたんですが、2011年の報道で東京と連動していることが明らかになりました。
ついでに、土地の所有を記録する地籍図や各種地図も東京を「地籍原点」として、三角測量法で作っていきました。この「地籍原点」も2006年に鬱陵島へ移転しましたが、きっと独自運用はしていないと思われます。
釜山の緯度・経度は長崎が基本になっています