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私刑類纂 牢獄の私刑



 我が国にては、太古の「蛇の室屋」以後、牢獄の制は上古以来、奈良朝、平安朝時代にも在(あ)りしなれど、その記録の存する物なく、単に牢獄の図として、鎌倉時代のもの2、3あるに過ぎず、多衆雑居の牢制時代となりし後は、同囚間に私刑もまた行われしならんと察せらるれども、何ら徴すべき典籍なく、ただわずかに江戸時代中期以後の数書あるのみ。
 小説・講談などに載れるは付会・虚妄多くして、信ずるに足らず。
 
 江戸時代の牢獄には、同囚中に牢頭(牢名主ともいう)、添え役、角役、二番役、三番役、四番役、五番役、本役、帳代、隠居などの階級ありて、これらを牢役人と総称せり。同囚に加うる私刑は、この牢役人が行いしなり。

▲大便をたべさす


「新入の入牢人、これあり候えば、衣類ならびに下帯まで剥ぎ取り、改めの上、入牢いたさせ候儀に候ところ、右裸体の囚人を土間へ下ろし、牢内に積み置き候「糠味噌(ぬかみそ)」の上水(うわみず)を全身へ塗り付け、夜中衣類を着せ申さず差し置き候ゆえ、寒中など一夜に病気なるものは半死半生になり候由。

 翌日になり衣類を着せ候えば、直(ただち)に吹出ものいたし、腫れ物になり候旨。
 さて大便たべさせ候儀これあり候由、これをたべ候もの、大方は「はれ病」出であい果て候由。生塩を多分たべさせ、その後、水を呑ませざる儀もこれあり。これらは病人にはあいならず候えども、甚(はなはだ)難儀いたし候由。そのほか脊を割ると唱え、囚人ども大勢にて打擲いたし候由」(南撰要集、『古事類苑』による)

「汁留め」と申し、数日汁そのほか塩気の物をたべさせ申さず、飯ばかりたべさせ候儀もござ候由」(同)

「落間へ差し置き、昼夜立たせ候(そうらい)て、あるいは冬向きは四斗樽へ水を入れ、右中へ入れ置き候などもこれある由にござ候」(同)

▲密告者および付き人といえる偽囚


 現今の語にて「警察の密告者」と呼ばるる者に同じき、江戸時代における与力同心方の「目明かし」または「岡ッ引き」が、ほかに犯罪あって入牢せしときは、同囚の者に殴打虐待さるるなり。

『牢獄秘録』にいわく、
「新入りのうちに岡ッ引きと唱え候者ござ候えば、牢内の者、存知(ぞんじ)まかりあり候ゆえ、その者を夜中痛め候。右、岡ッ引きと申す者、一体(いったい)悪党者どもにて、牢内にて痛められ候ても、声立て候義は恥のようにも存じ候や、声立て候義もござなく候」

 また獄吏のひとつたる加役方(=火付け盗賊改め役)といえるが、付き人と唱えて、悪事なき者を罪人同様に牢に入れて、多くの囚人と雑談せしめ、その雑談によって、犯罪事実の真相を探らせることもあり(このことは現今も未決囚檻に行わると聞く)。
 この付き人(偽囚)たることが発覚せしときには、同囚の者に殴打さるること甚(はなは)だしという。
『南撰要集』所載、寛政9年(1797年)の文書中にも「以前差口(さしくち、密告)いたされ吟味に逢い候者、牢内にて役人などいたしまかりあり候えば、右の意趣をもって厳しき打擲いたし候義もこれある由」と見ゆ。

 明治大正の代になりても、判検事、警部巡査、看守などが犯罪のため入獄せしときは、同囚がその者をイジメルがゆえに、右などの前官吏はすべて独房におらしむるを例とせり。

▲衣類を剥ぎ取る


▲板にて打ち、柱に縛す



 前記のほか、板にて打ち、あるいは柱に縛し置くなどのこともあり。その板はキメ板と称するもの、「桐の四分板にて長さ2尺(=約60センチ)ほど、幅5寸(15センチ)これあり。右は総囚人名前ならびに牢内より買物など、きめ棒と申す錐(きり)の太く先のこれなき2、3分出でし物へ柄をつけ、右板へきめ出し候」といえる板、または詰め板と称する雪隠(=便所)の穴を蔽(おお)う蓋を用うるなり。
  
 却説(=さて)、何がゆえにかく同囚の者を苦しむるかと言うに、これにはその態度が横柄にて、牢役人に敬意を表することが充分ならずとか、あるいは喧嘩口論して強情なりとか、あるいは牢法に背きし廉(かど)を叱責されて抗弁せしとか言えるごとき、些事(さじ)に過ぎざるなれども、新入りの囚徒に対して行う場合は、ツルといえる金銀を牢役人に贈らざるによること多きなり。

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▲地獄の沙汰も金次第の現実


 新入り囚が牢頭に金銀を贈れば、その金銀を貯え置きて、3両、5両の高(たか)にまとまれば、牢役人どもが分配するなり。その金銀にて牢法の許せる食物日用品などを購入し得らるるをもって、永年繋(つな)がれおる身、明日の生命も計られざる境遇の牢役人どもには、その金銀を貰(もら)うことが、唯一の慰籍(=なぐさめ)満足なるに、些少の寄与もなき新入り囚が来れば、それに対して憎悪の感を起こすは、弊習的の横暴とはいえ、彼らとしては当然のことと見るべきか。

「牢内ツルとて、金子(きんす)持ち行き名主へ出すとき、名主これを請け取りてすみの隠居または一番役にあい渡す。この者、預りおり、その金高よほど集まりしとき、役人中五番役までにて割り取る由」(『牢獄秘録』)

「金銀銭一切(いっさい)法度のところ、内々(うちうち)ツルと称し、持ち来たり候を、名主取り候て、衣類の襟袖に縫い入れ置き候由」(『諸例類聚』)

 かかる状態なるをもって、ツルを持参せし者は、客分と称して優遇され(通常畳1枚に7、8人坐すべきを、ツル持参の者は1畳に3、4人坐せしむなどの特待あり)、ツルを持参せず、また入牢後自宅よりツルの差し入れもなき者は、種々の難癖をつけて虐待さるるのみならず、少しく牢役人の意に反することあれば、ただちに牢法を守らざる者として、種々なる苛酷の私刑をも加えらるるなり。地獄の沙汰も金次第といえる狸諺は、この牢内のことより起こりしならんか。

▲憎まれ者は殺さる


「牢内は夜中一点の灯火なく、真の暗黒なり。昔より入獄のことを暗きところに入れらるると言うは、夜中暗黒のところに起臥せざるを得ざるによる。牢内において囚人病気に臥し、他の囚人の邪魔になりし者、または囚人仲間に悪(にく)まれしなどの者は、夜中、暗(やみ)に乗じてこれを殺せしこと多し。
 
 すなわち、図のごとく落ち間に押し伏せ、口に手拭いまたは衣類などを突っ込みて呼吸のならざる様(よう)になし、一人その上に跨(また)がり、胸落のところに向けて尻餅をつくなり。あるいは蒲団に包み、夜中倒(さか)さに立て置きて殺すことあり」(『徳川幕府刑事図譜』)

 かくのごとく、牢頭などに憎まれし者は夜中暗殺さるるなるが、彼らがこれを殴打または暗殺せんと決意せしときは、10日ほど前に牢頭より、何某儀は不快の由につき、御薬頂戴(ちょうだい)いたしたしと請求し置き、殴打の際、気絶して蘇生せざるとき、または暗殺せしときの翌朝「何某は、かねて病気のところ、昨夜ついに死去いたしました」と申し立つるなりという。 
 囚人の病死は毎日のことなるをもって、係り役人どもは委細の検死もせず、そのいうがままに病死と見てこと済みしなり。

 右のごとき悪習の多かりしこと発覚して、後には医師が診察せし上ならでは投薬せざることとし、また病死囚の死体は委細に検分することとせり。

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▲京都牢内の奇刑



 文久3年(1863年)、武蔵の人、落合直言といえる19歳の志士が、政治犯にて京都の牢獄に数ケ月間囚(とら)われしことあり。その出獄後、牢内のことを記述せる自筆本1冊、現に東京帝国大学法学部の書庫に存す。その中に「獄中罪科」と題せる私刑のことあり。

▲背割り 臂(ひじ)にて骨をうつ
▲梅鉢 椀を5つ並べ置きて、その上に裸にて令坐(すわら)するなり
▲不動 片手に椀に水を十分入れ令持(もたしむ)。片手に箒(ほうき)を令持(もたしめ)、裸にて立たするなり
▲半ビラ 50杖撃つなり
▲鉄砲 これは厳科なり。片手を肩より後ろに回し、片手を脇より後ろに回し、背中にて大指と大指と合わせ、その間に椀を挟むなり
▲鶴の餌拾い(このこと不明) 頭(牢名主)の指揮に従わず、意に背き、あるいは牢法を犯し、禁詞を唱えたる者、罪の軽重によりてこれを行う

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 右の内(うち)、禁詞といえるは、牢内にて「きる、とぶ、はねる、おつる」などの語は、首を切る、首が飛ぶ、首を刎る、首が落ちるというに通ずるがゆえ、縁起悪しとして絶対の禁詞とせるなり。
 これらの語を言いし者は、背割り以下の刑に処せられしならん。
  
 以上のほか、各地の牢獄において行われたる私刑もまた多かるべけれど、要するに大同小異ならんか。

 昔時の罪人が牢舎に繋(つな)がるるを畏れしは、獄吏の威喝よりも牢頭などの専恣(せんし、わがまま)暴虐にありしがごとし。彼らは牢内の無聊(=退屈)を慰めんがため、面白半分に同囚を呵責して服従を強い、愚弄の果てに曲芸を命じ、酷使の上に按摩をとらせ、剰(あまつ)さえ生殺与奪の特権を有せしなり。
 
 しかれども、この私刑は特権階級を重んぜし圧制幕府の産物と見るべく、明治維新の後は旧弊打破のひとつとして厳禁され、あわせて牢頭または牢名主といえるがごとき特権者をも廃して平等たらしめしが、随(したが)って、この私刑も絶滅に帰せり。
 
 徳川時代における獄吏は、非違不謹慎の囚徒を柵外に引き出して殴打せしが、その余習は維新後の監獄にも失せず、明治20、30年(1887〜1897年)頃までは、獄則による処罰のほか、私刑の殴打が各地の監獄にて頻々(=頻繁に)行われたり。