幻の万世橋停車場へ行く


これが東京の大ターミナルだった万世橋駅だ!


 2006年5月14日に閉館する東京の交通博物館ですが、この場所には、かつて万世橋駅がありました。
 東京駅が開通するのが大正3年(1914)12月18日。万世橋駅は、その2年半前、明治45年(1912)4月1日に、中央線のターミナルとして開業したのです。博物館のある須田町交差点近辺は、当時交通の要衝で、大いににぎわっていたのです。

 まずはその当時の風景を、万世橋駅の2階に上って眺めてみましょう。


(左)外神田遠望。左は神田郵便局、線路の奥は昌平橋停車場、はるか後方に神田明神
(右)内神田遠望。中央に日露戦争の軍神・広瀬中佐の銅像と、洋食屋の「軍神軒」
   右端にサッポロビールのビヤホール、その下が東京初の電飾広告「清心丹」

 写真で見るとずいぶんガラガラですが、当時このあたりはものすごい雑踏で、「親不知・子不知町」と言われたほどでした。

 万世橋駅は東京駅を設計した辰野金吾が設計したため、昔の東京駅とかなり似ています。実際、東京駅の習作的な意味合いが強く、また一説には東京駅のサブターミナルの機能を与えられたため、非常に豪勢な作りとなっています。
 ですが、この駅の建築資料はほとんど現存していません。詳細な図面はもちろん、内部の写真等も限られているため、その実態がほとんど不明でした。


現存する図面はこのレベル(明治44年の『建築世界』より)



 さて、本サイトでは、この度、明治42年(1909)に作られた万世橋駅の駅舎建築工事の示方書(しほうしょ)を入手しました。示方書とは建築指示書のことで、鉄道院から建築を請け負った安藤組へ出されたものです。
 この発見で、万世橋駅の実態が、ようやくわかりかけてきました。


新発見の「示方書」。この発見のニュースは、共同通信から配信されました


 さて、示方書の正確なタイトルは「市街線高架線鉄道万世橋停車場 本屋建築工事示方書」となっていて、その第1条が次のように書かれています。

《第1章 総則
 第1条 本工事は凡(すべ)て最優等の施行を要するを以て材料の品質及其施行法に専ら注意をなし、示方書及図面に明瞭ならざる処ある場合は総て掛員の指揮に従ふべし》


 いきなり「最優等の施行」ですからね。気合いが入っています。

 その気合いがどれくらいかというと、たとえば絵や彫刻の工事は、すべて原寸大の模型を作ってチェックすること、煉瓦はすべてきれいに洗浄してブラシをかけた上、《筋目通りよく手にて押し固着せしめ継目に少しも間隙を生じざる様》に組めと指示するほどでした。

 工事に使う材料も最上級品を指定しています。石材で言えば、基本はすべて常州(茨城県)稲田産の花崗岩。電信室、出札室、食堂、待合室等の暖炉焚き口は国内産の大理石。事務室そのほかの暖炉は伊豆の沢田石といった具合です。

 また、砂や砂利は玉川(多摩川)のよく洗ったもので、砂利の大きさは《6分以上1寸2分以下のものにして少しも土気付着することなく、貝殻其他の混入せざるもの》という厳しい条件でした。

 面白いのは婦人トイレが洋式の水洗だったことです。しかも防臭用の通気管付き。この当時、なかなか水洗便所なんてありませんからね。かなり力が入っています。

 このように金と時間(工期2年間で30万円)をかけまくった万世橋駅ですが、大正8年(1919)に神田駅ができるなどして、徐々に駅の存在感が落ちていきました。そして大正12年に関東大震災が起きます。


関東大震災で焼失した万世橋駅


 震災後、万世橋駅は、一挙にメイン駅の地位から転落してしまいます。
 それは震災復興計画で中央通りと靖国通りが新設されたことで、須田町近辺が裏通りになってしまったこと、秋葉原駅の新設と御茶ノ水駅の移転により、万世橋駅の存在理由がなくなってしまったことによります。


再建された駅は、往時の栄華が見る影もなく……


 昭和11年(1936)、東京駅の近くにあった鉄道博物館が移転してきて、万世橋駅は非常に小さくなってしまいました。そしてついに昭和18年(1943)10月31日、駅は営業休止となりました。わずか31年あまりの「大ターミナル」でした。



 さて、まもなく埼玉県に移転する交通博物館ですが、お別れイベントとして、万世橋駅の遺構を公開中です。そこで、さっそく見にいってみたよ。


こちら当時の事務棟で、お客の目には触れない場所

 → 
階段を上ると、駅のホームが!


制作:2006年4月16日


<おまけ>
 実は万世橋駅には、地下鉄もありました。東洋初の地下鉄として開通した銀座線の工事が神田川で停滞、そこで暫定的に万世橋駅を開設したのです。実際に使われたのは、昭和5年(1930)1月から昭和6年11月までのわずか2年だけ。
 こちらは10畳ほどの「客扱室」跡が残ってるそうですが、閉鎖後は1度も公開されていません。こちらも「幻の駅」なのでした。

奥に見える「地下鉄のりば」が地下鉄万世橋駅。右が現在の様子

<おまけ2>
 駅前の銅像は広瀬武夫中佐と杉野孫七(兵曹長)なんですが、2人は日露戦争の旅順口閉塞作戦で殉死、広瀬は日本初の軍神となりました。
 この銅像は須田町のシンボルとして長く親しまれ、実は戦後まで残っていました。ところが、GHQに遠慮したのか、1947年頃、日本人の手で破棄されました。その後の消息は不明となっています。