国産マッチの歴史
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マッチの文化史
明治8年、初めてマッチを見て驚く人々
1912年(明治45年)1月28日、東京・日比谷公園の近くで「燐票一品会」が開かれました。
燐票、つまりマッチラベルの即売会で、当日1200点もの出品がありました。なかでも珍品として高値がついたのが「大元帥」というデザインで、これは不敬だとして発売禁止になっていました。同じく発売禁止だったのが「膺(う)てや懲(こら)せや」です。戦いで相手を叩くことを「膺懲(ようちょう)」といいますが、この言葉が日清戦争のころ、「膺てや懲らせや清国を」といふ勇壮な軍歌となっていました。しかし、世の中が平和になり、発売禁止となったのです。
今も昔もコレクターはいるもので、こうしたレアものは垂涎の的となります。
1906年(明治39年)の『東京経済雑誌』に、「近頃、タバコ屋で30本くらい入ったマッチ箱がオマケとしてついてくるようになった。100や150くらい種類があるだろう」と書かれていますが、3年前の1903年、すでに「燐枝錦集会(りんしきんしゅうかい)」というマッチラベル同好会が創立されています。
マッチラベルは宣伝効果が抜群でした
では、マッチはいつ誕生したのか。
かつて火をつけるのは時間のかかる作業でした。火打ち石(燧石)と火打ち鎌(燧鎌)を当てて火花を飛ばさないといけないからです。
マッチらしきものが最初に文献に登場するのは、江戸中期の『南蛮寺興廃記』です。これは、織田信長の南蛮寺支援(1575年)から島原の乱(1638年)までのキリシタンの歴史を書いたもので、フルコムという伴天連が「鞍に立ち上がって馬に乗り、自分の爪から火を出して煙草を吸った」とあります。
『南蛮寺興廃記』は伴天連を魔法使いのような気味の悪い人物として描いているので、これは妄想かもしれません。しかし、ロウマッチ(黄燐マッチ)の可能性もあります。黄燐マッチは発火しやすく、靴の裏でも火がつくからです。
ドイツの錬金術師ブラントがリンを発見したのが1669年。イギリスの科学者ボイルが硫黄を軸木につけ、リンの付いた紙とこすり合わせて発火させる世界初のマッチを発明したのが1680年。つまり、信長の時代にマッチは存在していませんが、『南蛮寺興廃記』は1700年以降に書かれたとされるので、もし作者がマッチの存在を知っていたら面白いですね。
硫酸を使った浸酸(しんさん)マッチ
フランスのシャンセルが発明した即席発火箱(1805年)
1860年(万延元年)、幕府は、日米修好通商条約の批准書交換のため、アメリカに使節団を派遣します。同行した柳川兼三郎は、ワシントンで初めてマッチを目にしました。
《此(この)灯火を付(つけ)るにはメツスと云、我国の早付木(はやつけぎ)の類にして又異也、物にこする時は火出る也》
と日記に記しています。つまり、幕末には日本にもマッチらしき物があったことがわかります。当初、マッチは「早付木」のほかに、「摺付木」「擦付木」(すりつけぎ)などと訳されていました。
そのため、明治時代、「マッチ売りの少女」を「擦附木売りの少女」と訳す英語の教科書もありました。冗談のような本当の話です。
国会図書館『英語独修全書』第5編(東京通信学院、1902)より
日本で最初にマッチを作ったのは、高松藩士だった久米通賢です。久米は日本初の実測地図を作り、軍艦を設計し、塩田を開発した発明家。
1838年(天保9年)、高松藩主は徳川斉昭から外国産の「附木」を贈られます。久米はこの製造技術を獲得するよう命じられ、2年後に完成させます(『国防の先覚者物語』による)。
おそらくこの附木は、水で煉った硫黄をヒノキ?につけたもので、まだリンは使われていないと思われます。
本格的なマッチ製造を始めたのは、加賀藩士の子供だった清水誠。
清水は、1870年にフランスに留学、そこで学んだ知識がマッチ開発につながります。1874年、パリに友人の吉井友実(宮内次官)が遊びに来ました。
吉井が「日本はマッチのようなものさえ輸入ばかりだ。学者も危ないからと製造することもない。困ったものだ」と嘆くのを聞き、帰国後、マッチ製造に乗り出します。最初の工場は、東京にある吉井の別邸でした。
マッチを作るには、折れにくく燃えやすい軸木が必要です。清水は白揚樹(はくようじゅ)を採用、日本中に人を派遣し、木を探します。ようやく日光で白揚樹を発見、のちに諏訪湖や富士山でもこの木を発見します。
試作はうまくいき、清水は新燧社(しんすいしゃ)を創業、本所に一大工場を新設します。1875年(明治8年)のことでした。
マッチ製造(1)軸木をつくる
1878年(明治11年)、政府は、甜菜糖の製造技術を調べるよう、清水に要請します。清水は、この機会を利用し、スウェーデンの巨大マッチ工場を視察しました。
マッチは、当初、黄リンで製造されました。しかし、黄リンは有毒の上、発火しやすく、常に火事の危険と隣り合わせでした。後に無害な赤リン、硫化リン(硫黄とリンの化合物)、リンを含まない硫化アンチモニーなどで作られますが、いまひとつ質は向上しませんでした。
発火しやすいマッチは船への持ち込みが長らく禁止された
(船の科学館の青函連絡船の再現)
その後、軸木にはリンを使わず、赤リンをしみこませた紙とこすり合わせることで発火させる、無毒で火事も起こりにくい「安全マッチ」が発明されました(現在のマッチと同じ)。
清水は、スウェーデンで安全マッチの製造技術を学び、一気に量産化します。こうして、日本はスウェーデンとアメリカと並ぶ、世界の3大マッチ生産国になり、一時は日本の総輸出額の25%をマッチが占めました。
1890年(明治22年)に刊行された『技芸百科全書』に、マッチ製造法が紹介されています。
《膠(にかわ)6分に水を加え、弱火で加熱。羊羹のようになったら火からおろし、リン6分を加えかき混ぜ、145度で加熱。次に硝石10分、鉛丹5分、大青2分を順に混ぜ、米糊のようになるまで加熱したら松などの木に付ける》
とまぁ、非常に簡単です。
マッチは、煙草の普及とともに庶民にも広がっていきます。しかし、日本では当初「神仏灯火用」という標語の下で販売されました。
どうしてかというと、「マッチのリンは牛馬の骨から作ったものであり、そんな不浄なものを神仏に使うわけにはいかない」という頑迷な人がたくさんいたからです。そうした人は、硫黄製のマッチ「清浄マッチ」をあえて使いました。しかし、硫黄製はなかなか発火しないため、火がつくまで煙の中でむせかえりながら、ひたすら待ち続けるという苦しみを味わうことになりました。
マッチ製造(2)基軸の頭に薬品を塗る(頭薬浸点)
新燧社のマッチは、1877年(明治10年)と1881年の内国勧業博覧会で賞を取り、質の高さには評判がありました。しかし、製造技術の普及とともに、マッチの粗製濫造が始まります。マッチは日本の主力輸出産業となると同時に、粗悪品も大量輸出され、「日本製マッチは最悪」という評判がついてしまいました。その結果、1888年(明治21年)、新燧社は倒産します。
新燧社のマッチラベル
(第1回内国勧業博覧会で有功一等賞、第2回内国勧業博覧会で進歩一等賞を受賞)
ちなみに、マッチは前述のとおり、「早付木」「摺付木」などと訳されており、ほかに「附木」(『西洋道中膝栗毛』、「洋燧」(『当世書生気質』)、「引火奴」(『米欧回覧実記』)などさまざまな翻訳がありましたが、「燐寸」が登場するのは明治20年代になってからです。1898年(明治31年)に連載が始まった徳富蘆花の『不如帰』では、「燐寸を擦りて」と書かれています。
マッチを日本で初めて作った新燧社は、もしかしたら「燐寸」という表記は知らなかったかもしれません。
マッチ製造(3)マッチ箱の作成
1905年、淡路島にマッチ工場が作られます。雨が少なく、神戸港に近いことなどが選ばれた理由です。1939年、この工場は、「日産農林工業」の傘下に入りました。日産農林工業はスウェーデン資本の大同マッチを吸収してマッチ製造に参入した日本最大のマッチメーカーで、最盛期には国内シェア70%を占めました。
1960年代、マッチ製造は機械化されますが、ライターに押され、製造量は減少の一途をたどります。兼松日産農林は、工場を淡路島に集約します。
しかし、その工場も老朽化が進み、2016年、マッチ製造から撤退することが決まりました。国内シェア4割だった同社のマッチの年間売り上げは、1億8500万円でした(2016年3月期)。
マッチ製造(4)マッチ箱の側面加工(側塗作業)
制作:2016年10月10日
<おまけ>
黄リン時代のマッチ工場は危険きわまりなく、労働環境の劣悪さは有名でした。結果、貧民街の主婦が内職で働くことが多かったようです。
1903年に刊行された『職工事情』に、マッチ工場で働く一家の例が記録されています。
○父親(49歳) 団子細工で1日30銭(胃病にて休業中)
○母親(42歳) 捨て子の養育で1日10銭(市役所から月3円の支給)
○長女(15歳) マッチ工場で1日12〜13銭(月20日労働)マッチ会社が運営する無料学校に通学中
○長男(12歳) マッチ工場で1日7銭(月20日労働)マッチ会社が運営する無料学校に通学中
・家賃 1日4銭(月1円20銭)
・米 1日24銭
・おかずなど 1日2〜3銭
・薪 博覧会のカンナくずをタダで入手
・夜具 所有
父親の休業により、かつかつの生活を余儀なくされていることがわかります。この状態で、マッチ工場で事故など起きようものなら悲惨でした。とはいえ、子供は学校に行ってるし、夜具も揃っているので、まだマシな家庭なんですが。