日本三景「松島」
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日本三景「松島」の誕生
松島1100年史
現在は陸地化した奥松山の「鷺ノ巣岩」(不老岩)
「松島や ああ松島や 松島や」
の名句で知られる宮城県の松島。この句は松尾芭蕉の作とされたこともありますが、実際は、江戸時代後期に狂歌師・田原坊が作ったものです。『松島図誌』に載った「松嶋や、さてまつしまや、松嶋や」が転化したものといわれています。
ちなみに芭蕉はこの地を訪れたとき、
「松嶋は扶桑第一の好風」
(日本一の景色)と絶賛していますが、俳句は思い浮かばなかったようです。かわりに弟子の曾良が
「松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす」
と詠んでいます(『奥の細道』による)。
『奥の細道』では、松島の何が美しいかを長々と書いてるので、その部分を司馬遼太郎の訳文で引用しときます。
《島々の形の妙はすべてここにある。頂を聳(そびや)かすものは天をゆ びさし、伏せたる形のものは波に腹這っているようである。あるいは両島が二重(ふたえ)にかさなり、三島が三重(みえ)にかさなって、見るうちに両島が左へ別かれたり、三島が右につらなったりする。一島が他の一島を背負っているような形もあり、また大きな島が小さな島を抱いているようでもあって、小さな子供たちをいつくしんでいるようである》(『街道をゆく』26巻)
さすがに美しい文章ですな。松島は、約260の島の個性や重なり具合が美しいというわけです。
かつて腕ヶ崎と呼ばれていた双観山(1910年頃、その後、崩落)。右は同じ場所だと思うんだが自信なし
言うまでもなく松島は日本三景の1つです。これは、林春斎が『日本国事跡考』(1643)に天橋立、厳島とともに「三処奇観」と書いて以来、定着しました。そのため、芭蕉以後も多くの有名人が観光に訪れました。
たとえば正岡子規、夏目漱石、太宰治、宮沢賢治……外国人だとアインシュタインとか魯迅とか。
地元で有名なホテルが松島パークホテルでした。1913年に開業し、東京の精養軒が運営したランドマークで、設計者は原爆ドーム(当時は県物産陳列館)の設計者ヤン・レツルでした。
戦時中は海軍、終戦後は進駐軍に接収され、1969年焼失したパークホテル
(左がホテル、右は観瀾亭、1931年)
かつて存在した松島遊園地
当然ですが、松島は「日本三景」になる前から有名で、清少納言の『枕草子』188段では、名島を8つあげているうち、塩釜沖の「籬(まがき)島」が当選しています。歌枕で有名な島ですね。
余談ながら、清少納言の晩年はほとんど記録がなく詳細は不明なんですが、実は松島で暮らしたという説があります。これは清少納言が書いたとされる『松島日記』という書物があり、このなかに松島の「都嶋」で世を去ったとあるのです。かつて、この説が信じられた時代もありましたが、現在ではこの日記は鎌倉時代に書かれた偽書だと断定されています。
全島マップ。「籬島」と「都嶋」を探してみよう!(
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松島の観光名所としては伊達政宗公ゆかりの瑞巌寺、円通院、五大堂、観瀾亭などがあります。伊達家の菩提寺・瑞巌寺は国宝で、左甚五郎が彫ったとされる欄間の「葡萄に木鼠」の彫刻が有名です。
島崎藤村は明治29年にこの彫刻を見て、その感動を処女詩集「若菜集」に残しました。以下、一部引用です。
ほられて薄き葡萄(ぶどう)葉の
影にかくるゝ栗鼠(きねずみ)よ
姿ばかりは隠すとも
かくすよしなし鑿(のみ)の香(か)は
左が瑞巌寺の欄間の彫刻(1910年頃)。右は雪の五大堂(1934年頃)
それにしても、これだけ多くの人たちから愛された松島の特異な風景はどうやって生まれたのか?
一説によれば、平安時代、今の暦でいうと869年7月9日に起きた貞観地震で地盤沈下が起きたからだとされています。
この地震は『日本三代実録』(901年)に次のように記録されています。
《陸奥国、地大震動、流光如昼陰映》
「流光が昼のように陰映する」の部分が、地震で起きる発光現象に関する最初の記録だとされているんですが、以下、現代語訳で引用しておくと、
《人々は叫び声をあげ、身を伏せて立つこともできない。崩れた家に押しつぶされる人間もいれば、地割れに飲まれる人間もいる。牛馬は驚いて走り出し、お互いに踏みつけることもした。城(多賀城)や倉庫、門櫓や壁の多くが崩れ去った。
雷鳴のような海鳴りが聞こえて波が湧き上がり、川が逆流し、津波が長く連なって押し寄せ、あっという間に城下に押し寄せた。果てどもなく水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難できずに1000人ほどが溺れ死んだ。
田畑も人々の財産もほとんど何も残らなかった》
まさに3月11日の東日本大震災とかぶりますね。
では、松島は震災でどれくらいの被害を受けたのでしょうか? 瑞巌寺では国宝の庫裏にひびが入ったものの、海に面した五大堂の本堂は倒壊を免れました。道路沿いのみやげ物店はすべて浸水しましたが、建物自体は残っています。
島の被害も少なく、通り抜けると3年長生きできるという小藻根島の「長命穴」や材木島の一部が崩落したそうですが、大半は形が変わらずに残りました。
日露戦争で
凱旋門
として人気があった材木島
(左が1910年頃、その後に崩落し、右が1950年頃?)
1100年前は大惨事となったのに、どうして今回は被害が少なかったのか? それは、浅瀬で津波の威力が減退したことと、多くの島々が緩衝体になったことがあげられます。もちろん沖合の島では惨憺たる被害が出ましたが、地域全体は奇跡的に救われたのでした。
そんなわけで、松島では東北の復興を牽引すべく、ゴールデンウィークまでに観光船を運航しようと頑張りました。本サイトの管理人は、こうした状況を報道すべく、4月中旬に被災地に入りました。そして、地元の方の協力を得て、震災後、初めてボートで松島の海に出ました。
以下、震災から1カ月すぎの松島の様子です。
兜岩(1950年頃→現在)。岩の上の木が折れている
歌枕で有名な雄島(1935年頃)。本土と橋で結ばれていたものの崩落(ちょうど反対方向からの眺め)
崩落した橋
観光船の航路上に養殖用の牡蠣棚などが散乱。
かつては100mほどの幅で海一面に養殖棚が並んでいました
結局、遊覧船は4月29日から再開し、ゴールデンウィークには多くの観光客でにぎわいました。
とはいえ、松島にがれき処理施設の建設が認可されるなど、復興と自然保護のせめぎ合いは、これからも続くのです。
●鉄道唱歌
「松島船あそび」
制作:2011年5月27日
<おまけ>
清少納言が「素晴らしい島」にあげたのは全部で8つですが、『和漢三才図会』などの記述を参考に推測すれば、おそらく以下の通り(すべてが島ではありません、念のため)。
うき島=多賀城の浮島(宮城)
やそ島=象潟の八十島(秋田)
たはれ島=風流島(熊本)
みづしま=水島(熊本)
まつがうら島=七ヶ浜の御殿崎(宮城)
まがきの島=籬島(宮城)
とよらの島=豊浦(山口)
たと島=多止島(山口)??
山口県の多止島だけ同定できませんが、歌枕として使われた周防大島かもしれません。
なお、象潟の八十島は、入江に多くの島々があり、松島と並び称された景勝地。昔から歌枕の地として有名でしたが、1804年の地震で隆起して陸地となってしまいました。地震ってすごいんですね。
こちらは松島にある最新式の火力発電所。無粋だけど、原発よりはマシかもね