西南戦争が日本にもたらした「官僚制」

西南戦争
日本史上最大の内戦・西南戦争



 明治10年(1877)、西南戦争が勃発します。朝鮮問題で政府と対立した西郷隆盛の下に士族が集結、鹿児島は一時、反政府独立国の様相を呈するのでした。
 政府軍が駐留した熊本城の攻撃に失敗した薩摩軍は、以後、守勢に回り、最後は鹿児島で敗北を喫します。

 後の首相・犬養毅は報道記者として従軍、

《我が軍夜半に襲い、賊の眼覚めざるに乗じ一斉に切り入り、当るを幸い切り伏せ、薙ぎ倒し、累々と積みし死体はそのまま台場の穴へ投げ込み、少しく土を掩いたるのみなれば、日々に腐敗しこの悪臭を生ぜしなり》(「郵便報知新聞」明治10年4月6日)


 などと書いています。戦いは激戦が続き、犬養に拠れば、田原坂では一日40万発の弾が使われた日もあるといいます。


西南戦争  西南戦争
官軍の熊本城(左)と薩摩軍の城山


 でだ、政治的な要素を抜きにして考えれば、これは明治維新で没落した士族が政府に対して起こした抗議行動だったわけです。

《当時、日本中に充満していた反政府気分や野党的勢力(国粋主義や自由民権主義)はことごとく西郷とその麾下(きか)一万数千の薩摩人の決起と成功に熱狂的な期待をよせた。それが、西郷とその麾下の意外な敗北によって一挙に拠りどころをうしない、その敗北は日本国に史上類がないほどに強力な官権政府を成立させるもとになった》(司馬遼太郎「街道をゆく」)


 つまり、士族という抵抗勢力を明治政府が完膚無きまでに叩きつぶしたことで、以後、日本には強大な官僚制が確立するのでした。同時に、士族に頼らない国民徴兵制も成立していきます。

 日本に健全な批判勢力が生まれなかったのはこの戦争のせいかも、とまで司馬遼太郎は書くのですが、“普段はなぁなぁで、いざとなればみんな一緒に突っ走る”という日本の国民性は、なんだかこのときにできたような気もします。


 参考までに、敗北を重ねた薩摩軍の間には、こんな回状がありました(「浪花新聞」明治10年8月26日付)。

《瓦となって全たからんより玉と成りて砕けよとは、各自予(かね)て知る所、今更また何をかいわん、当軍さきに告示せし如く、既に金城湯池を失い、わずかに日陬(にっすう)の一地に拠るのみ、しかりといえども、未だ一人当千の勇士に乏しからず、豈(あ)に汚名汚名(おめおめ)と敵に降り軍門に惨刑せらるるを愧(は)じざらんや、国に報い義を重んずる者、戮力(りくりょく)奮戦以て同日同刻に斃(たお)れんことを期す》


 これって「捕虜になるなら死ね」ということですな。日本人は昔から玉砕が好きだったということでしょうか? なんだかなぁという感じです。


西南戦争
荒れ果てた熊本市内

制作:2002年3月5日


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