新聞紙面で見る真珠湾攻撃

ウェストバージニアからの生存者救助
ウェストバージニアからの生存者救助



 アメリカは1941年11月27日、「ハル・ノート」(正式には “Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan”)を日本へ提出、これを日本側は「最後通牒」と受け取り、12月1日の御前会議でアメリカとの開戦を決定します。

 ハル・ノートの内容は、仏印の領土保全、海外租界の放棄などですが、日本がとうてい受け入れられなかったのが、次の3点。

●中国からの撤兵
●南京政府(汪兆銘政権)の否認
●日独伊同盟からの脱退

 こうして、日本は12月8日午前3時25分(現地時間7日午前7時55分)、真珠湾攻撃をおこなうのです。択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)を出港した海軍機動部隊は、空母6隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻など合計30隻の大艦隊でした。

真珠湾に向かう巡洋艦
真珠湾に向かう巡洋艦



 アメリカ太平洋艦隊を戦闘不能にするための攻撃目標は、戦艦と空母です。こうした大型艦を潰すには、爆弾より火薬量がはるかに多い魚雷の方が有効となります。
 しかし、魚雷を射つには、大きな問題が2つありました。

(1)真珠湾は狭くて浅い
(2)湾内に魚雷網が張ってある可能性が高い

(1)への対策としては、魚雷に特殊な自動安定装置をつけ、超低空から発射しても魚雷が深く潜らないようにしました。
(2)への対策としては、水平爆撃や、特殊潜航艇による潜水爆弾が考えられました。

 また、アメリカは戦闘機を飛ばしてくるはずなので、攻撃の最初からオアフ島の上空に戦闘機を配置し、飛んでくる戦闘機を撃ち落とす計画でした。

特殊潜航艇
特殊潜航艇



 海軍の一部の航空隊は、1941年8月から鹿児島湾などで攻撃訓練を始めています。訓練の重点は、浅深度魚雷発射、水平爆撃、急降下爆撃、機銃掃射などです。別の部隊は燃料補給訓練を繰り返し、だいたい11月の終わりごろには、十分な訓練ができていたとされます。

真珠湾攻撃を伝える朝日新聞
フォード島周辺
中央の白いものは命中した魚雷による水柱。右端の黒いものは火災による煙
左下に並ぶ4隻の船の、左から3番目が傾きつつある「戦艦ユタ」


 
 12月1日の御前会議で攻撃日が12月8日と決定しましたが、このときの暗号電文が有名な「新高山(にいたかやま)登れ一二〇八」です。

 日本時間8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、第1次攻撃隊183機が真珠湾を攻撃。この成功を伝えたのが、暗号「トラ・トラ・トラ」です。

 そのときの様子を、当日の現地新聞より紹介しましょう。

 引用は「Honolulu Star-Bulletin」の号外第1刷です。

真珠湾攻撃/現地の号外
真珠湾攻撃/現地の号外



WAR!
OAHU BOMBED BY JAPANESE PLANES
SIX KNOWN DEAD, 21 INJURED, AT EMERGENCY HOSPITAL
Attack Made On Island's Defense Areas


(以下日本語訳)

 オアフ島は本日午前7時55分、日本軍機により攻撃を受けた。翼の先には日本の象徴である日の丸が見えた。曇り空のなか、南西方面から次々に攻撃機が飛んできて、平和で静かな休日の町にミサイルを撃った。政府筋に入った不確定情報によれば、オアフ島を襲った日本軍は、小さな2隻の軍艦で海域に入ったという。また空母レキシントンを攻撃予定あるいは攻撃済みとも伝えられた。

(中略)

 軍はすべての市民に対し、道路および高速道路から離れ、電話を使用しないように要請した。真珠湾及び周辺部で猛烈な煙が3本立っていることから、日本軍の攻撃が成功したことがわかる。すべての軍関係者、ならびに女性を除く民間国防関係者に、真珠湾での軍務が与えられた。

 高速道路はたちまち車であふれた。市内の病院には、爆撃開始からすぐに負傷者が運び込まれ始めた。電話会社は交換手を増やしたものの、あまりに多くの電話に対処しきれていない。本紙でもたった1人の交換手に電話が殺到し、一時は新聞編集もお手上げ状態であった。そしてやはり緊急の交換手が呼ばれたのである。

真珠湾攻撃/魚雷命中の水柱
魚雷による水柱



 同じ新聞の号外第2刷の見出しも書いておくと……

DEATH OVER 400 ON OAHU, LATEST REPORT
TOKYO ANNOUNCES “STATE OF WAR” WITH U.S.
Japanese Raids On Guam, Panama Are Reported
Oahu Blackout Tonight ; Fleet Here Moves Out to Sea


 これを超訳すると……

 400人以上も殺された! 日本は今頃になって宣戦布告しやがった! グアムもパナマもやられたぜチクショー! 今晩の停電は絶対忘れねーぞ! ジャップなんて攻めちまえ!

 という感じでしょうか。
 同じ日、日本ではこんな記事が出ました。

真珠湾攻撃(朝日新聞夕刊)
真珠湾攻撃(朝日新聞夕刊)



 ちなみにこのときは各社からの号外が一斉に出ました。「東京日日新聞」12月8日づけ号外の記事は以下の通り。

我が陸海軍今暁遂に
米英軍と戦闘状態に入る
西太平洋に決戦の火蓋
(大本営陸海軍部発表)(十二月八日午前六時)
帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり


 国内では新聞統制のため、この日を最後に各社別の号外が出せなくなり、以後は「共同号外」の形を取るようになりました。彼我の物資の差はこんなところにも出ているんですね。

真珠湾攻撃
わが必殺猛襲下の敵主力艦(朝日新聞の見出し)

真珠湾攻撃
上の写真の図解



 さて、真珠湾攻撃を指揮したのは山本五十六ですが、第1次空中攻撃の総指揮を執ったのは淵田美津夫海軍中佐。圧倒的な勝利を受け、淵田は帰還後、永野修身(軍令部総長)や南雲忠一(第1航空艦隊司令長官)とともに、皇居に報告に行きました。

 真珠湾攻撃の様子を写真を添えて天皇に説明すると、天皇はいたく感心したといいます。このときの様子を、淵田は自叙伝『夏は近い』にこう書いています。

《永野総長が、「ほかになにか御下問は御座いませんか」と、伺うと、「べつに」と、おっしゃったが、暫らくして永野総長に、「これらの写真は、持って帰るのか」とお問(たず)ねになった。永野総長は、「あとで表装いたしまして、御座右に備えます」とお答えすると、「ああ、それなら表装はあとでよいから、いますぐわたしが持っていく、皇后にお見せしたいから……」といったわけで、陛下が御自身、十数枚の写真を持って御退出されたのであった》

真珠湾攻撃
空母を飛び立つ攻撃機


わが「真珠湾攻撃」の記録/戦艦アリゾナに魚雷を命中させた男
●真珠湾攻撃・プロパガンダアニメ映画(1942)
●真珠湾攻撃・プロパガンダ特撮映画(1942)
戦艦ミズーリを見に行く(1942)

更新:2021年12月7日

<おまけ1>

 日本軍は空母6隻(飛行機353機)で攻撃、戦艦4隻を撃沈するなど太平洋艦隊を壊滅させました。このとき使った特殊潜行艇の乗員(2人乗りで5隻)9人がいわゆる九軍神(1人は初の捕虜)。軍部は「蔭に母の感化、尊し大和魂」とし、新聞やラジオを総動員して、軍国美談を作り上げました。以後、軍神(戦没者)は増える一方でした。

九軍神の海軍合同葬
九軍神の海軍合同葬(日比谷公園、1942年4月8日)

<おまけ2>

 ハル・ノートの試案はコーデル・ハル国務長官ではなく、ハリー・ホワイト財務次官補が中心となって作成したものです。この人物、実は後年にソ連のスパイだったことが判明しており、外交の奥深さを感じます。
 
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