あの時から20日乃至(ないし)1ケ月経った頃には、被服廠から、厩橋、吾妻橋の川に添ったあたり、サッポロビイルの横、枕橋附近、すべてあのトタン板を上に蔽(おお)って、プスプスと死屍を焼く煙があたりに漲(みなぎ)って、何とも形容の出来ない悪臭がそこを通る人に鼻を蔽わせたが、49日経った頃には、それがすっかり骨になって、被服廠では大きな礼拝所が出来、花を売る人達が集り、一種東京の新名所というような形になった。

 一度は行って見なければ話の種にならないと言って、後には誰も彼も出かけた。初めはお前達が焼跡になんかに行ったらそれこそどんな眼に逢わされるか知れないと言われた女子供まで出かけた。お詣りに行くとか、お線香を上げに行くとか言うのは、表面(おもて)の理由で、皆なそれを見物に出かけたのであった。

 とにかく、あの白骨を積み上げた形は大したものだった。私は何とも言われない感動を受けた。それは炭団(たどん)の重ったようなあの最初の一瞥も私の魂を揺がさずには置かなかったけれども、あの山と積んだ形もすさまじい感じを与えた。私も心ばかりの花を買って手向けた。

 しかし、その頃にはまだ半分しか本当のことはわからず、死んだと思っても、いつまた何処からかひょっくり出て来はしないかと思われるようなところもあって、泣くにも本当に泣けなかったが、100ケ日あたりには、もう大抵あきらめもつき、避難していた遺族ももとのところへと戻って来て、互いに死者の後生(ごしょう)を弔うというような形になった。

『お袋も女房も妹も子も皆な死んで、私ひとり残ったんですよ』

 こう中年の主人公が言うと、『まア、あのお子さんも……何ということでしょうね? 私のとこでも母が死にましてね』
 その隣の荒物屋の上(かみ)さんはこう言って涙を流した。

 ある中年の主婦は言った。

『あの川も、あんなに沢山に死屍を呑んだと思うと、恐ろしい気がしますよ。もう昔のようになつかしいという気はしなくなりましたよ』

 実際、それもその筈であった。被服廠のように、ああいう風に一(ひと)ところにかたまって死んでいないので、それで問題にならないけれども、そこの角、かしこの角で、50人、60人という風に沢山に沢山に死んでいるのであった。私はそのところどころに、100ケ日の川施餓鬼の立派に執行われているのを見た。

『T、Oさんッていう方の御夫婦の亡くなったのは此処らあたりで御座いましょうか?』

 サッポロビイルの横になっている、ちょっと公園でもあるかと思われるような感じのする、震災前には向うにあの八百松の大きな二階屋が見えていたところに、人が祭壇を設けて、大勢集っているので、そこにある女は入って行ってこう言ってきいた。

『T、Oさん、さようで御座います。この向うのところあたりでお亡くなりになったそうです!』
『そこあたりですね?』
『さようです。そこのところあたりだそうです?』

 袴をはいた男は、そう言ってそっちの方を指した。女はそこに行って立留って、じっと祈念して合掌した。
 そういう光景は到るところにあった。それは午後から曇って何となく佗(わび)しい感じのする日であった。疎(まば)らに立っているバラック中にも、家に由っては、大勢人が寄り集って鉦(かね)などを鳴しているものなどもあった。

『何しろ、あそこはひどかった。サッポロビイルの火と八百松の火が両方から吹きつけたから……。川の中に浸ったものでは沢山死にましたよ。枕橋がわたれないし、吾妻橋には無論行けないと言うんですからな!』

 その時のことを知っている人達がこんな話をした。
 しかしそうしたことは夢にもなかったというように、深い水脈を立てて川は徐かに徐かに流れて行っていた。それに、5日目に来た時とは違って、舟も沢山に通っていれば、汽船も白い青いペンキ塗をあたりに際立たせて、頻りに行ったり来たりしていた。