やがて私達は九段の坂の上に行ったが、この時、宇都宮の師団らしい兵士が、陸続と列をつくって、長蛇のように中坂の方から入って来るのを見た。何となしに頼もしいような気がした。
 U氏は言った。

『こういう時は、何と言っても、ああいう人達が頼りですね?』
『本当ですね?』
『何でも大変に入って来たそうですよ。一個師団ではきかないそうですよ』
『高崎からも来たそうですな』
『そうでしょう』

 こんなことを言いながら、その兵士の列のちょっと途切れるを待って、それを突切ってそのまま九段の坂の上へと行った。私はとにかくそこで地震以来焼けた区域の概念をつくることが出来た。私は一面に焼野原で、目の及ぶ限り殆(ほとん)ど灰燼(かいじん)になっていないところのないのを見た。

 ニコライ堂の半ば焼け落ちているのも、駿河台から神保町にかけて処々に建物の残骸の聳(そび)えているのも、神田明神の焼けたあとの台地のガランとしているのも、何も彼もその火災のいかに烈しかったかを語り尽して余りあるのを見た。

 それはそこからでは、宮城の丘陵にかくれて、南の方面は見えていなかったけれども、京橋から銀座、東京駅あたりは見えなかったけれども、概して一面にその惨害のほどを知ることが出来た。

『全く廃墟だ! 都会の廃墟だ!』

 私は思わずこう口に出して言った。
 坂の下の牛が淵公園も避難民で身揺(うご)きも出来ないほどであった。俎橋(まないたばし)は半分焼け落ちてまだぶすぶす燻(くすぶ)っているので、神田の方面に行くものは、その下流に架っている橋をわたってぐるりと廻って歩いて行かなければならなかった。

 その川の岸に、一軒大きな炭屋があったらしく、そこではコオクスや石炭や炭の山が真赤になって燃えているのを私は見た。三崎町は全く原になっていた。そこからは、本郷台の焼け残った家屋がそれとすぐ近くに指さされて見えた。

 たしかそれは昔専修学校のあったあとだと思うが、焼けて原になったのではなく、元から原になっていたところであると思われたが、そこに一つの撒水井があって、その丸(ま)るく曲った口から、綺麗な水が滝津瀬のように乱れ落ちているのを発見して、私達も急いでそこへと入って行った。焼跡に来ては、何よりも欲しいのは清い水の一杯であった。私達は長い間水に渇しつつ歩いていた。

 私はそこに落ちていた一つの欠け茶碗を拾った。そしてそれをその水の口元に持って行って、綺麗に洗って、それに水を満して、2杯3杯とつづけさまに飲んだ。それにしても何という旨さであったろう。また何という冷めたさであったろう。私はその水が渇ききった私の咽喉にぐびぐび沁みるように通って行ったのを今でもはっきりと思い出すことが出来た。

  焼け残った撒水井から、
  滝津瀬のように落ちる清水、
  お前は、
  時の間に潰れて、
  やけた、
  都会の『廃墟』の中から、
  尽きずに流れ出して来る
  新しい生命ではないか。
  お前の周囲には、
  焼けて、
  生死の巷から、
  のがれて来た人達が、
  または、
  あらゆるものを失ってしまった人達が、
  命でも拾ったように、
  皆その管にロを当てているではないか。
  地震を、火を、
  または
  人の叫んで遁(に)げ廻わる中を、
  びくともせずに、
  よくもこうして流れ出しているお前、
  それは、
  『廃墟』の中から芽を出した
  新しい恋と新しい心そのままではないか。

 焼跡の惨めさは、私の眼に沁みるようであった。電柱という電柱は、焼けて落ちて、通りを歩くのにすら、おりおり立留ってそれを払らわなければならなかった。否、街上に不思議な怪物——大きな蟹でも横(よこたわ)っているかと思われる怪物を見た時には、私は思わずそこに立留った。

 暫(しばら)くして、『あ、これは、電車の焼けたんですね。機械だけ残ったわけですね? ははア、何だと思った?』私はこう言ってU氏の方を見た。

『電車も随分焼けたでしょうね。何しろ、あの刹那から動かなくなったんですからな。車掌も運転手もそのまま避難するより他、為方(しかた)がなかったんですからね?』

『そうでしょうな……』

 こう言った私の頭には、東京市の街上に散ばったまま、そのまま電車を捨てて遁げなければならなかった時の凄しさと慌ただしさとが、はっきりそこに映って見えるような気がした。

 5日以後になっては、そこらにも容易に通れないほど人出がしたけれども、その時分はまだそれほど混雑してはいず、チラホラ人が通っているばかりであった。私は少年時代から知っているこのあたりの町——あの古本屋の店も、神習教の本庁も、神保院も、何も彼もすっかり亡くなって、今は唯(ただ)私の頭の中にのみその幻影を残すようになってしまったことなどを繰返しながら歩いた。

 私の知っている本屋が3軒も4軒もそこらにあったが、すべて皆な綺麗に焼けてしまっていた。

『どうなさいます?』
 あの東明館の角のところに来た時にU氏はまた言った。
『今日はまア帰りましょう。何しろ、乗物がないんですからな……行くばかりじゃない、帰ることも考えなければなりませんからな』
『それはそうですな……』

 U氏は立留って、『それではここでお別れしましょうか?』
『そうしましょう……。じゃ左様(さよう)なら』

 こう言って別れて私は駿河台の方へと行った。私は心も魂も圧倒されるような気がした。本所の方のことも頻りに気になったけれども——何か事がなければ好いと思ったけれども、否、少し此方に来たところで、《構うことはない、これから行こうか。帰って出直すよりも、どうせ行かなければならないのなら、今から行く方が好い。その方が好い》

 こう思って余程足を其方に向けかけたけれども、しかも、食うものも持たず、そうかと言って向うに行っても食うものがあるかないか、それすらわからない今に当って、いかにもそれは冒険すぎるような心持がしたので、そのままお茶の水橋をわたって砲兵工廠の方に向うことにした。

 お茶水橋の橋桁(はしげた)はまだところどころ焼けていて、烟(けむり)が半ば橋を蔽(おお)うように靡(なび)いていた。しかしそれにもかかわらず、自動車も車も人もグングン通って行っているのを私は見た。私もあちこちを見廻しながら急いでわたって行った。

 大成殿も高等女子師範も順天堂病院もすべて皆な焼けていた。ことに、驚いたのは、駿河台のあの大きな崖が崩れて、樹木や家屋と一緒にあの省線の電車のレイルが、くねくねと他愛なく曲って、殆ど水を堰きとめるかとばかりにあの濠の中に横って落ちていることであった。私は思わずじっと立尽した。私は昌平黌(しょうへいこう)時代に、その頃の学者達が、ここを小赤壁などと言って、月夜に舟を泛(うか)べたりなどしたことを思出さずにはいられなかった。

 否、そればかりではなかった。そこから少し此方に来ると、遥かに遠山が——多摩秩父の連山が、午前の明るい日影を帯びて、いつもと同じように、首都が『廃墟』になったことなどには少しも頓着しないように、無心に、むしろ無関心に、そこに美しい色彩を展開しているのを眼にした。