竹島問題の秘密
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竹島・幻の海驢を追う!
竹島(北緯37度14分30秒、東経131度52分)
1954年(昭和29年)の夏ごろから、韓国が武力によって不法占拠している竹島ですが、どうも日本人は領土に対して淡泊というか、あんまり気にもとめていません。本サイトは狭量な国粋主義には反対なんですが、まぁ竹島は日本のものだとは思いますよ。
実は、1954年と1962年、そして2012年と政府はこの問題を国際司法裁判所で審議するよう、韓国側に提案していますが、韓国側はあっさり拒否しています。国際司法裁判所への提訴は両国の同意が必要なんですが、これを了承しなかったということは、間違いなく占拠している根拠がないからなんです。
それはまぁともかく。
今回は、この竹島問題を、まったく別な視点で読み解いてみることにします。
まず前提として、竹島はどこにあるのか?
下の図は海上保安庁の内部資料ですが、ここにもある通り、島根県隠岐諸島の北西85海里(157km)です。境港からは130海里(約240km)になってますな。ちなみに韓国の鬱陵島からは48海里。
まさに微妙な位置
なんで韓国が自国領だと主張してるかというと、1952年1月に韓国の李承晩大統領が勝手に日本漁船立入禁止線(李承晩ライン=下図の実線)を設定したことによります。竹島はこのラインの内側だったのです。
国粋系の方々はこの李承晩ラインを批判しますが、実は、敗戦後、GHQが決定した日本漁船の活動可能領域線(マッカーサーライン=下図の点線)でも、竹島は日本領に含まれていません。
海上保安庁の内部資料より
このマッカーサーラインは日本領の最終決定ではないと書かれていますし、アメリカも竹島を日本から提供された爆撃訓練場とすることで、間違いだと認めています。
しかし、日本政府の抗議が甘かった可能性が高く、それが竹島の帰属問題を引き起こしているのです。もちろん、敗戦で米軍支配下にあった日本にまともな抗議なんて出来なかったとは思いますが。
さて、島根県は2005年3月、条例で「竹島の日」を制定しました。これは1905年(明治38年)2月22日に竹島の所属所管を告示したことが根拠になっています。制定は唐突でしたが、実は島根県は、昔から政府に竹島問題を善処するよう、意見書を出しています。
昭和38年の「竹島の領土権の確保についての要望書」
こうした要望書を眺めていけば、竹島の何が重要かが分かるはずです。そのもっともわかりやすいものが、「竹島の領土権確保の意義について」という内部文書です。残念ながら発行年は不明(昭和30年代初頭?)ですが、いろいろおもしろいことが書いてあります。
この文書によれば、領土権確保の意義は
(1)漁業上の価値(2)鉱業上の価値(3)心理的な価値
の3つ。
(3)は、李承晩ラインによって多くの
漁業関係者が拿捕
されていて、家族や関係者は憤りを感じている……という内容。
(2)は、竹島には多くの燐(リン)が埋蔵されている。その推定埋蔵量は40万トンで、約1億円の価値があるというもの。
参考までに書いておくと、島根県は竹島の燐鉱採掘権(2586アール)に、昭和29年度から34年度まで2万8560円の鉱区税を課税しています(35年度以降は免税。自治省内部資料による)。
で、最も重要なのが(1)の漁業価値です。
《日本海の沖合漁場としては、大和堆、隠岐堆、神藤堆等の好漁場が存在しているが、竹島を中心とする附近一帯の漁場は、これらの漁場を凌駕するものとして期待できる。戦後、朝鮮近海の好漁場を失った我国としては、竹島の近海こそ日本海における最大の漁場として将来開発しなければならない》
その具体的な漁獲は
・イワシ、サバ等……年間1億円
・アワビ、サザエ、ワカメ等の魚介藻類……年間300万円
・アシカ……年間200頭(約500万円)
となっています。
というか、アシカ(「海驢」と書きます)って何??
実は竹島は、すでに絶滅したと考えられるニホンアシカの大繁殖地でした。ニホンアシカは明治時代初期、日本近海に3〜5万頭以上生息していたと言われます。それが、竹島だけで1904年から1907年までに約1万1000頭捕獲されており、以後乱獲でほとんど姿を消してしまいました。
和漢三才図会によればアシカの肉はまずいそうですが、皮はカバンになるし、肉は油や肥料になるしで、重宝されたのでした。
和漢三才図会「海鹿(アシカ)」
先に触れた「竹島の領土権確保の意義について」では、保護を考慮しても年間200頭は捕獲できるとありますが、実際のところ、この文書が書かれたときには、ほとんど絶滅寸前だったはずです。
まぁ、韓国が要塞を作ったから絶滅が早まったという見方も出来ますが、いずれにせよ、ニホンアシカは、1975年、韓国の自然保護団体が竹島で目撃したのを最後に、存在が確認されていません。
さて、前述したように、「竹島の日」は1905年(明治38年)2月22日に竹島の所属所管を告示したことによります。これは1904年9月に、隠岐島の中井養三郎という人が、アシカ猟のため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出たからだとされています。
まぁ、これは事実でしょうが、ここでもう少し違う見方をしてみましょう。
1904〜05年というのは、日露戦争の真っ最中ということです。しかも1904年8月には、第1次日韓協約が締結され、まさに朝鮮が併合される直前でした。こうした微妙な時期にあえて領土宣言するわけで、ここには単なる漁業問題以上の深〜い思惑が見え隠れします。
ちなみに竹島は、この日露戦争で、日本人なら誰でも知るような有名な場所となります。それはなぜか? まず次の記事を読んでください。
《(5月28日黎明)主戦艦隊、装甲巡洋艦隊は、既に鬱陵島の南方約20海里に達し……巡洋艦は、早くも敵影を発見して、東方に当り艦隊の煤煙数条あるを警報す。……これ問わずして、残敵の主力たるや瞭(あき)らかなり。……午前10時30分の頃、竹島の南方約18海里の地点に於いて、全くこの敵を包囲せり。敵はすなわち戦艦ニコライ1世、アリヨール……》(東京朝日新聞1905年6月15日)
舞台は日本が圧勝した日本海海戦。
連合艦隊が竹島沖で発見した敵は、バルチック艦隊第3戦艦群の旗艦ニコライ1世でした。
降伏した軍艦・ニコライ1世
この日午前10時53分、ニコライ1世からの降伏を受理し、日本海海戦は終結します。予想以上の圧勝で、当時の日本人にとって、竹島は国威を発揚させる最高のスポットとなりました。
このように、竹島は、昔からナショナリズムを刺激する場所だったのです。
<竹島と東海問題>
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日本人は竹島(独島)に行けるのか、挑戦してみた
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独島体験館と独島博物館(竹島)
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制作:2005年7月4日