世界遺産「長崎造船所」
三菱の誕生と近代産業の成立

三菱重工業長崎造船所
1927年(昭和2年)の長崎造船所(飽の浦の艤装岸壁)



《長崎の町は狭い入江の海岸に近接している。大通りは海辺に沿っている。町は300メートルをこえる丘にかこまれており、庭と森が多い。港は、海の巨人、喫水の深い船にも適している。6万人が住むこの町は小さく見え、大きな村のようでもある》

 1893年(明治26年)、長崎を訪れたボヘミア人のヨゼフ・コジェンスキーは、旅行記『ジャポンスコ』にこう書いています。水深が深く港に適しているということで、長崎には古くから造船所がありました。
 コジェンスキーもおそらく見たであろう三菱長崎造船所。その歴史は、まさに日本の近代産業の歴史そのものでした。


三菱重工業長崎造船所
1885年の長崎造船所


 1804年、ロシアのレザノフが長崎の出島に来航。それから半世紀後の1853年(嘉永6年)、ペリーが黒船で来航します。外国船の脅威が現実のものとなると、幕府は国防のために大船の建造許可令を発布しました。


長崎にロシア使節レザノフ来航
1804年の長崎港(「ロシア使節レザノフ来航絵巻」より)


 1855年には、西洋の海軍技術を導入するため、長崎に海軍伝習所を設立。オランダ国王から提供されたスームビング号を観光丸と名付け、練習艦とします。まさにこれが日本海軍への第1歩というわけです。ちなみに生徒には勝海舟や榎本武揚などがいました。

 この「観光」の出典は『易経』の「国の光を観(観国之光)、用て王の賓となるに利し(利用賓于王)」で、国の威光を内外に知らしめるという意図がありました。これが、日本で「観光」という言葉が使われた最初です。

観光丸
長さ53m、大砲6門を備えた日本初の蒸気軍艦「観光丸」(右は汽罐)


 海軍伝習所は、軍事技術以外にも数学、物理、工学などさまざまな西洋近代技術を教える日本初の組織でした。教官のオランダ軍医ポンペは、長崎奉行所に医学伝習所を設立、これが日本の西洋医学の基礎となりました(長崎大学医学部の源流)。

 1857年、海軍伝習所は江戸に移され、長崎は閉鎖されます。しかし、船の修理用の製鉄所が建設されることになり、1861年、長崎鎔鉄所が完成します。


三菱重工業長崎造船所
1863年の長崎造船所


 このとき製鉄の技術者がオランダから乗ってきた船が「咸臨丸」。同船に乗って来日したカッテンディーケは、工場の場所を長崎の飽の浦に決めます。

《港の西側番所寄りの方に、飽ノ浦の村がある。この付近はかなり広い平坦な土地で、湾の深い入江に接している。この入江では、大きな船も岸に密着して着けることができる。
 蒸気工場に適した敷地を探していた私と機関士たちは、この平地こそ誂え向きの場所であると思った。
 とりわけ、将来の工場拡張をも考慮に入れるならば、この地こそ最も適当であると考えた。そこで、この地に轆轤(ろくろ)盤や鋳物の工場を建て、蒸気鎚(スチームハンマー)を据え付け、また石の突堤を築いて、20フィートの吃水の船を横付けにすることに決めた》(『長崎海軍伝習所の日々』)


 カッテンディーケは、造船所の工事が遅くてイライラしていますが、1859年に来日したオールコックによれば、

《各種の作業場を見てみると、なにからなにまではじめからつくりださねばならなかったことがわかる。必要な建て物やドッグを設計したり、掘ったりするためには、レンガや瓦をつくらねばならず、それを焼く窯すらつくらねばならなかった。……だが、それから一年もたたないうちに、大きな旋盤工場は完全に活動するにいたり、良家の子弟もふくむ日本人労働者たちが、蒸気機関用の全部品を製造している》(『大君の都』)

 という状況でした。

三菱重工業長崎造船所
1863年頃の長崎造船所


 明治になると官営長崎製鉄所となり、1871年(明治4年)、長崎造船所と改称、1887(明治20年)に三菱に払い下げられます。しかし、この段階でも、造船ではなく、あくまで船舶修理しかできませんでした。


三菱重工業長崎造船所
1930年頃の造船所内の様子


 土佐藩の下級武士だった岩崎弥太郎は、1866年、長崎に出向し、藩の交易を担当していました。このとき、イギリス人の武器商人トマス・グラバーや、日本初の商社「亀山社中」を創業した坂本龍馬に出会っています。

 その後、弥太郎は藩が設立した「土佐開成館」の事業を継承し、1870年、「九十九(つくも)商会」を創業。土佐藩からイギリス製の汽船3隻を払い下げられ、大阪〜東京、神戸〜高知の航路を開設し、社名を「三菱商会」と改称します。

 三菱商会は、台湾出兵(1874年)に際し、物資輸送を独占。半官半民の「日本国郵便蒸気船会社」が嫌がったためで、これにより、明治政府の信頼を得ます。続いて西南戦争(1877年)でも輸送を大量受注し、海運王となりました。

 弥太郎は1881年、グラバーが開発に失敗した高島炭鉱を買収。事業拡大のため大量の船舶が必要になり、1884年、長崎造船局を借りうけ、造船事業に参入します。


小菅ドック
政府がグラバーから買収した小菅に作った日本初の近代的洋式ドック
(1887年に三菱の所有に)


 実は、三菱(土佐藩)の躍進に対抗すべく、長州藩閥や三井系が出資して、1882年(明治15年)、「共同運輸会社」という海運会社ができていました。両者の競合はすさまじく、価格競争で横浜〜神戸間の運賃は10分の1に下がりました。
 共倒れを防ぐため、1885年、両者が合併、「日本郵船会社」が誕生します。こうして、三菱は造船と海運の両輪で業務を拡大していきます。

 長崎の造船所では、1885年、第1号の木造船「鴛鴦(おしどり)丸」が完成しますが、同年、弥太郎は急死(享年52)。


三菱重工業長崎造船所の夕顔丸
1887年に完成した日本初の鉄製船「夕顔丸」の進水式


 弥太郎の死後、第2代社長に就任した弟の弥之助は、三菱の事業を一気に拡大します。広大な荒れ地だった東京・丸の内の広大な土地を買い、不動産業にも参入。それでも、三菱の柱は長崎の造船です。

 1899年、三菱は海軍から初めて軍艦建造を受注。以後、造船は本格化、名実ともに「東洋一」といわれるようになります。


三菱重工業長崎造船所
1902年の長崎造船所


 1909年、造船所はイギリスから高さ61mの大型クレーンを購入し、世界最高レベルの造船が可能になりました。
 以後、豪華客船の草分けとされる「天洋丸」、「太平洋の女王」と呼ばれた「浅間丸」、軍艦では、戦艦「霧島」「日向」「土佐」が建造されました。そして、1942年、巨大戦艦「武蔵」が完成するのです。


日本初の豪華客船「天洋丸」
日本初の1万トン超え豪華客船「天洋丸」

戦艦「霧島」
川崎造船所の「榛名」と並び、日本で初めて民間で建造した戦艦「霧島」


 1945年、敗戦。かつて武蔵を作ったドックでは、小型の漁船や輸送船しか作れなくなりました。


戦艦「武蔵」を作ったドックで漁船建造
「武蔵」を作ったドックで漁船を建造


 1950年、財閥解体により三菱重工は3分割されますが、1956年には長崎造船所が世界最大となる建造量24万総トンを記録。1964年には、分割された3重工が合併し、現在の三菱重工業になりました。その後、長く日本の造船世界一時代が続きますが、1993年、新造船受注で初めて韓国に抜かれます。

 その後、造船は低迷し、2015年、三菱重工業は造船事業を分社化するのでした。


三菱重工業長崎造船所
廃止が決まった長崎造船所の幸町工場


制作:2016年8月1日


<おまけ1>

 明治8年、三菱会社に入社した荘田平五郎は、すぐに岩崎弥太郎から「三菱会社社則」の制定を命じられます。
 その冒頭は「立社体裁」で、第1条が「三菱はほかから資金を集めたわけではなく、岩崎家だけのものなので、どんなことでも社長が決める」、第2条が「会社の利益も損失も、すべて責任は社長に帰する」と「社長専制」になっています。
 荘田平五郎は、独自の簿記システム「三菱会社簿記法」も創案し、丸の内開発や長崎造船所の経営に手腕を発揮しました。また、海運の保険から、後の東京海上火災保険の設立を主導するなど、三菱の発展を支えました。


<おまけ2>

 日本の海運企業の雄は日本郵船と商船三井です。商船三井は、住友系と三井系が合併してできた会社。

 海運が盛んだった瀬戸内海は零細業者ばかりで、事故が多発。そのため、住友家が中心となって船主を合同させ、1884年(明治17年)、「大阪商船」が発足。
 一方、三池炭鉱の石炭の積み出し港だった長崎県・島原半島の口之津を中心に、三井物産が1878年、海運業に乗り出します。これが1942年(昭和17年)に独立して「三井船舶」となりました。戦後、不況が続くなかで、両社が合併し、「大阪商船三井船舶」となりました。

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