731部隊の跡地を見る
進駐軍にも生物兵器攻撃を企図

731部隊ボイラー跡
731部隊ボイラー跡


 1945年(昭和20年)3月、国民学校高等科を卒業したSさんは、担任の推薦で満州(中国東北部)に渡りました。着いたのはハルビン郊外の「関東軍防疫給水部」で、ここで見習い技術員として働きました。

《ある日、連れていかれた部屋で凍傷実験で肉が剥がれ落ち骨が露出した腕を見た。棚に瓶が数百本。ホルマリンの強い刺激で目を開けていられなかったが、子どもも含めて人のあらゆる部位の標本が見えた。「マルタを解剖して標本にした」と先輩。「マルタ」は中国人やロシア人の捕虜で、その晩はうなされた》(信濃毎日新聞、2019年8月21日)

 関東軍防疫給水部とは、いわゆる731部隊のことで、昭和8年(1933年)、日本陸軍が中国ハルビン市近郊の平房に設立した、細菌戦研究のための特殊部隊です。

 石井四郎軍医中将を中心に、中国人・ロシア人らの捕虜や政治犯に人体実験を繰り返し、多数を殺害したとされます。実験で殺された捕虜(「丸太/マルタ」)は2000人とも3000人とも言われますが、正確な数字はわかりません(中国側によって誇張されている可能性もあります)。

 本サイトの管理人が、現地の資料館で入手した『不能忘記的歴史』日本語版には、以下のような実験記録が書かれています。捏造の可能性もありますが、一部引用しておきます。

【原水攻撃の効果観察】

「287号」
○9月9日 木炭で消毒した原水300ccを飲用(攻撃)させた 
 マスタードガス原水15mg/l 
 ルイサイトガス原水15mg/l
○9月10日 一日中顕著な変化はなし。昼間に活性炭で消毒した9日の原水600ccを飲用(攻撃)させた
 酸化鉄マスタードガス
 ルイサイトガス
 木炭マスタードガス
 ルイサイトガス19.9mg/l
○9月10日 顕著な変化なし
○9月11日 食欲不振、大便1日1回、普通便
○9月12日 軽度の食欲不振有り

「479号」
○9月7日 原水飲用(攻撃)
○9月8日 (攻撃後12時間)嘔吐、下痢、渋り腹、粘血下痢便を排出
○9月9日 下痢食欲不振により、嘔吐、渋り腹、粘血便有り。試験実施では赤痢菌検索時に細菌集落を観察した
○9月10日 20時原水で右目点眼
○9月11日 右目結膜に発赤、充血を見る

飛行場や鉄道引込線もあった731部隊
部隊には飛行場や鉄道引込線もあった


 こうした実験をもとに作られた細菌兵器が、実戦でも使われました。2011年に日本で見つかった内部文書には、

○日本軍が日中戦争で細菌武器を6回にわたり使用し、2次感染者を含む感染者は2万5946人にのぼった
○1940年から1942年までに、中国の吉林・浙江・江西省などでペスト菌に感染したノミを散布した

 などと書かれているようです(東京新聞、2011年10月16日)。

 実際に使われたのは中国だけですが、旧軍幹部の業務日誌によると、サモア、ダッチハーバー(アリューシャン列島)、オーストラリア、ビルマ、インド、ニューギニア、サイパン、グアムなどへの攻撃を検討していたとされます。

 終戦により、部隊は人体実験をおこなっていた証拠を隠滅するため、施設を爆破します。冒頭で触れたS氏の証言です。

《8月、旧ソ連が参戦した。すると、厚さ約40センチのコンクリートの壁に囲われた3階建ての「マルタ小屋」で骨を拾うよう命じられた。20〜30人分は麻袋に入れただろうか。証拠隠滅のため毒ガスで処理し、焼いた骨を川に流すと聞いた。小屋を爆破する爆薬も運び込んだ。施設を離れる日の朝、自決用の拳銃と青酸化合物を渡された》

ハルビンを流れる松花江
ハルピンを流れる松花江


 731部隊は、戦後、東京裁判(極東国際軍事裁判)では裁かれませんでした。これは、アメリカ軍への実験データ提供と引き換えに、幹部が免責されたのが理由です。関係者のなかには、後に医学界の権威となった医師も多いとされます。

 S氏の上官は、いつも「これを使えば人類は滅亡だ」と言っていたそうです。

侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館
侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館


更新:2020年3月30日

<おまけ>

 共同通信の記事(2006年7月23日)によれば、731部隊は、終戦直後、日本に進駐してくる連合国軍を標的に細菌攻撃を検討していたそうです。発見された部隊長直筆のメモには、「(相模湾に)25日米兵上陸 全国にばらまく」「帰帆船ならば人員器材が輸送出来る見込(見込み)」などとあり、進駐を前に要員や器材の搬送を検討していたことが判明しました。しかし、陸軍上層部が「犬死をやめよ」と指示したことで、攻撃は中止になりました。
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