日本の敗戦を阻止せよ!
1945年8月15日、陸軍将校たちのクーデター

終戦の詔勅を聞く国民
「玉音放送(終戦の詔勅)」を聞く人々



 大蔵官僚だった迫水久常は、1945年(昭和20年)春、鈴木貫太郎内閣の書記官長に任ぜられ、ポツダム宣言を受諾する過程をつぶさに見ることになりました。傍観者というより、むしろ終戦に向け、積極的に動き回った人物のひとりです。

 戦後、二・二六事件や終戦当時を回想し、メディアの取材や講演で数多くの核心証言を重ねています。そこで、1955年、千葉県で開催された講演録「終戦の真相」をもとに、終戦までの1週間を振り返ります(以下、原文そのままではなく、読みやすく一部改変しています)。

 ポツダム宣言の受諾が決まったのは、1945年8月9日の御前会議です。会議は夜11時から開かれました。参加者は総理・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長・枢密院議長の7名が正規の構成員で、陪席員が迫水、陸・海軍の軍務局長・内閣総合計画局長官の4名。合計11名でした。

 会議場は宮中にある防空壕内の一室で、地下10メートルにある15坪ほどの部屋です。

■8月9日の御前会議

《一同、席について陛下をお待ちしました。陛下は足取りも重く、上気したようなお顔で入って来られました。今も深く印象に残っておりますのは、髪の毛が数本、額に垂れておられたことです。

 会議は、鈴木貫太郎総理が司会しまして、まず私がポツダム宣言を読み上げました。耐えがたい条件を読むのでありますから、たまらないことでした。

 次に東郷茂徳・外相が指名されて発言しました。ポツダム宣言を受諾して戦争を終えるべきであるということを、言葉は静かながら断乎と申されました。

 次に阿南惟幾・陸軍大臣は「外相の意見には反対であります」として、荘重に涙とともに軍の敗退をお詫びし、「必勝は期しがたしとするも必敗とは決まっていない。本土を最後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中に活を求めるべく、もし事態が志と違うときは、日本民族は一億玉砕し、その民族の名を歴史にとどめることこそ本懐」と言われました。

 次の米内光政・海軍大臣はたった一言、「外務大臣の意見に全面的に同意であります」と言われました。

 平沼騏一郎・枢密院議長は、列席の大臣、総長にいろいろ質問されたのち、「外相の意見に同意である」と言われました。参謀総長・軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。

 この間、約2時間半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、私は本当に至近の距離で陛下のご心配気なお顔を拝して、涙のにじみ出るのを禁じ得ませんでした。

 一同の発言が終わったとき、私はかねての打ち合わせに従って、総理に合図いたしました。

 総理が立ちまして、おもむろに「本日は列席者一同、熱心に意見を開陳いたしましたが、ただいままで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遅延を許しません。まことにおそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の御思召をお伺いして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います」と述べられ、静かに歩を移して陛下の御前に進まれました》

■聖断

《天皇陛下は少し体を前にお乗り出しになるような形でお言葉がございました。緊張と申して、これ以上の緊張はございません。陛下は「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて、「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。

 場所は地下10メートルの地下室、しかも陛下の御前。静寂と申してこれ以上の静寂なところはございません。

 陛下のお言葉の終わった瞬間、私は胸がつまって、涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣りは梅津美治郎大将でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。私は、一瞬、各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。

 次の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。

 涙の中に陛下を拝しますと、はじめは白い手袋をはめられたまま親指をもってしきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、ついに両方の頬をしきりにお手をもってお拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。建国2600余年、日本のはじめて敗れた日であります。日本の天皇陛下がはじめてお泣きになった日であります》

 天皇の言葉はそれで終わりかと思いきや、その後、しぼり出すような声で、受諾の理由が語られます。

《大東亜戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。

 いま陸軍、海軍では先ほども大臣、総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、自分はその点について心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後、侍従武官が実地に見てきての話では、総長の話と非常に違っていて、防備はほとんど出来ていないようである。

 先日編成を終わったある師団の装備については、参謀総長から完了の旨を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡っていない有様であることがわかった。このような状態で本土決戦に突入したらどらなるか、自分は非常に心配である。

 あるいは日本民族は、みな死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来再び立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。

 それに、このまま戦いを続けることは世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉のときのお心持ちも考え、自分のことはどうなっても構わない。堪えがたきこと忍びがたきことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である》

 天皇は、国民や軍人、戦死者、遺族、さらに引揚者などに仁慈の言葉を語り、足取りも重く部屋を退出しました。部屋に残った一同は、協議のうえ、天皇の意向に沿うようポツダム宣言の受諾を決定します。ただ一つだけ、連合国側に対し、「天皇の国家統治の大権を変更しない(国体護持)」という条件をつけることにしました。そして、中立国を通して受諾を通告しました。

■8月13日の閣議

《こちらから10日の早朝打ちました電報に対する返事は、なかなか参りません。しかもこのことは公表いたしておりませんので、東京市内の各所では家屋の強制疎開のため、家を引き倒しております。私は身を切られるような気がいたしました。

 さすがに米軍の空襲も10日、11日にはございませんでした。12日朝サンフランシスコの放送によって先方の回答の内容を知り得たのでありますが、正式の回答は13日朝に到着いたしました。天皇陛下は皇族・重臣・元師・軍事参議官などを次々にお召しになってお考えをおさとしになりました。この際、東條英機大将は、陛下にもう一度お考え直しを願ったというふうに聞いております》

 13日、先方からの回答を議題として閣議が開かれました。回答の要点は次の2つです。

○日本国天皇および政府の統治権は、ある場合には連合軍司令官の制限下におかれることがある
○日本国最終の政治形態は、日本国民の自由なる意思によって決定せられる(国体は日本人が決めるに任せる)

■ニセの大本営発表

 実はこの日、重大な事件が起こります。

《それは13日でありましたが、朝日新聞の柴田という記者がやって参りまして「いま大本営発表がありまして。午後4時に放送および号外を出せということです」と言って持ってきたのは「皇軍は新たに勅命を拝し、米・英・ソ・支4カ国連合国に対し、新たなる作戦行動を開始したり」というのでありました。
 
 私はびっくりしました。現に進行中の日本国家の方針とまったく反対のものでありまして、もしこれが公表されたら、それこそあとでいかに間違いであったと言っても、とても間に合わない、とんでもない結果になったと思いました。

 私は直に陸軍大臣・参謀総長に問い合わせましたが、2人ともこれを知らないのであります。結局、陸軍情報部の一大佐が勝手に作って新聞社に渡したものであることがわかり、公表予定時の本当に2、3分前に取り消して事なきを得たのであります。この一新聞記者の小さな働きが、実は日本を救ったのであります》

■8月14日の御前会議

 8月14日午前10時、再び御前会議が開かれます。今回の出席者は全部で23人でした。

 総理が経過概要を説明したあと、陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長からそれぞれ「先方の回答では国体護持について心配である。しかし先方にもう一度たしかめても満足な回答は得られないだろうから、このまま戦争を継続すべきである」という意見が出されます。

《陛下は総理の方に向かって、ほかに発言するものはないかという意味の御合図があって、「みなのものに意見がなければ自分が意見を言おう」とのお言葉がありました。「自分の意見は先日申したのと変わりはない。先方の回答もあれで満足してよいと思う」と仰せられました。号泣の声が起こりました。

 そして陛下は「玉砕をもって君国に殉ぜんとする国民の心持ちはよくわかるが、ここで戦争をやめるほか日本を維持するの道はない」ということを、先日の御前会議と同じように懇々とおさとしになり、再び皇軍・将兵・戦死者・戦傷者、遺族、さらに国民全般に御仁愛のお言葉がありました。

 しばしば御頬を純白の手袋をはめたお手にて拭われました。一同の感激はその極みであります。椅子に腰かけているのに堪えず、床にひざまづいて泣いている人もありました。

 陛下は「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなければならない。それは難しいことであり、時間も長くかかるであろうが、それには国民がみな “ひとつの家” の心持ちになって努力すれば必ず出来るであろう。自分も国民とともに努力する」と仰せられました》

 こうして、「終戦の詔勅」の草案が書かれます。責任者は迫水で、9日夜の御前会議でのお言葉をそのまま文語体に改めたものでした。通常の詔勅よりやさしい文章となりましたが、文法の誤りがないよう、国学者の安岡正篤らにチェックしてもらっています。完成したのは、8月14日午後11時です。これが大東亜戦争終了の公式時間であると迫水は発言しています。

 終戦の詔勅は、情報局の下村宏総裁らが中心となり、宮内省でレコードに録音されました。ラジオを通じての公表は、15日正午と決まりました。首相官邸にいた迫水は、ようやく仮眠につくことが出来ました。

マイクの前に立つ昭和天皇
マイクの前に立つ昭和天皇(1946年1月)



■首相官邸への襲撃

《何時頃でしたか、4時頃であったと思います。白々あけだした頃、機関銃の音にはっと我に返りました。私は飛行機からする機関銃の掃射と思い、「米軍もけしからんな、もう戦争はすんだのに」と思いました。

 そのときちょうど、前晩から来ておりました私の実弟が「兄さん、軍隊が正門前から官邸を射撃しているのです」と申します。これは横浜のある部隊の一部のものが、終戦の噂を聞いて、総理邸を襲ってきたものでした。そのうちに、私の部屋の窓枠にも弾丸があたります。

 幸い総理は前夜11時半頃、私邸の方に帰られておりましたので、私はさっそく電話にて、総理にその旨を報告し、至急避難されるよう申し上げたのでありますが、そのうちに襲撃部隊も首相の不在を知って、玄関に石油をまき放火して退散しました。

 直ちに火を消すとともに、私は大事をとって地下道から脱け出して警視庁に参り、町村金五警視総監と会して、市中の状況を調べてみました。この軍隊はその足にて総理の私邸を襲ってこれを焼き払い、さらに平沼枢密院議長の私邸を襲ってこれを焼きました。総理は一足違いにて退避されて無事でありました》

首相官邸
首相官邸


■レコード盤を奪取せよ

 ところが、これよりはるかに大きい事件が起きていました。それがいわゆる「宮城事件」と呼ばれるもので、詔勅が録音されたレコード盤を奪取し、日本の敗戦を阻止するというクーデターです。迫水が警視総監に聞くと、前夜2時頃から宮内省の電話が不通になっているとのことです。

《陛下が録音を終わられてから間もなく、陸軍省に勤務していた3人の中・少佐が近衛師団長、森赳・中将のところに参り、「陛下が終戦の御決意を遊ばされたのは、まったく側近にあやつられておられるのであるから、これから側近を除き、陛下にお考え直しを願わなければならない。ついては、近衛師団の兵隊を宮中守護の名の下に、宮城内に入れるようにしていただきたい」と申しました。

 森師団長がその不心得を懇々と諭されましたところ、彼らはピストルを発射し、また白刀をふるってこれを殺し、師団長室において偽の師団命令を作って、近衛師団の全員を宮城内に出動せしめたのであります。

 そしてこれら青年将校はその一部分をほしいままに指揮し、退出しようとした下村情報局総裁以下を監禁し、宮内省中を探して陛下の録音盤を奪取し、翌日の放送を不可能ならしめようとしていたのです。
 
 さすがに彼らも陛下の御居間の方はおかしませんでしたが、宮内大臣も内大臣もみな一室に監禁されたのであります。

 この事件は、当時の東部軍司令官・田中静壱大将がただ一人宮中に入って、よく事態を説明し、午前6時頃に兵隊はすべて退去し、事なきを得たのであります》

 クーデターを起こした将校たちは、その後、放送局を占拠し、放送を妨害しようとしましたが、それも失敗に終わり、二重橋前で割腹自殺しました。田中大将も、責任をとって自刃しています。


内幸町のNHK
内幸町のNHK



 阿南陸軍大臣は、最初から最後まで終戦に反対していました。もし終戦に賛成したら、青年将校に襲われた可能性が高く、そうなったら内閣は陸軍大臣を補充しなければなりません。しかし、その補充には軍の承認が必要です。もし陸軍が承認しなければ内閣は総辞職となり、終戦は延期となります。

 そのため、阿南大臣は終戦を確実にするため、ずっと腹芸を続けていたのではないかと迫水は推測しています。

 阿南大臣は、8月15日午前4時頃、自刃しました。壁には「一死万罪を謝し奉る」と書いたものが貼られていました。辞世の句は「大君の 深きめぐみに 浴みし身は 言ひ残すべき 片言もなし」でした。


制作:2021年8月15日

<おまけ>

『昭和天皇実録』によれば、8月15日、朝6時40分に起床した昭和天皇は、クーデターを知ると「嘆かれ」たと記録されています。正午、昨夜録音した戦争終結に関する詔書のラジオ放送を聞きました。

《放送は、放送員によるアナウンスに引き続き、君が代吹奏、情報局総裁によるアナウンス、詔書の御朗読、君が代吹奏、再び情報局総裁によるアナウンスの順序にて行われる。
 その後放送員による詔書の奉読、内閣告諭の朗読、さらに関連ニュースが報じられ、午後0時38分頃終了する》
 
 戦争終了を告げる放送は、実に38分もかかったのでした。
   
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