低線量被曝安全説
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ABCCの誕生
「低線量被曝」安全説はこうして生まれた
ABCCの消毒室
かつて広島の海は浅瀬が続いていて、港もなく、海運には向かない場所でした。それが明治22年(1889)、宇品港ができたことで、大量の物資や人を大陸に運ぶ玄関口になりました。
昭和14年(1939)、この宇品港に「凱旋館」と呼ばれる鉄筋3階建ての重厚な建物が完成しました。なかには陸軍の船舶司令部が入り、また出征兵士を歓送迎するためにも使われました。
宇品港(1934年)……凱旋館の写真は見つからず
昭和20年8月6日の朝、原爆が炸裂すると、難を逃れたこの建物に被災者が次々に集まってきます。1階は将兵や勤労学生、けが人などで大混雑しました。やがて船舶司令部の中将が戒厳司令官に任命され、本格的な救難作業が始まりました。とはいえ、広島市内の医師の4分の3が犠牲になっていて、治療はなかなか進みませんでした。
被爆後の広島の空撮写真
(右下が宇品で、ほとんど破壊されてないことがわかる)
このとき被爆した女優の仲みどりは、現地の病院が壊滅したことに危機感を覚え、東京に急遽戻りました。ところが極端な体調不良で、そのまま東京帝国大学の付属病院に入院します。
病院には放射線医学の権威・都築正男博士がいたため、仲は手厚い看護を受けることができましたが、治療も空しく、8月24日に死亡します。
都築は仲の死因を急性放射能症と診断し、カルテに「原子爆弾症」と記載しました。これが医学的に認定された世界初の原爆症患者です。
9月になると、原爆の影響を調査するため、日米合同調査団が発足します。日本側は都築正男を中心に、陸軍医務局や東京帝大医学部が、アメリカ側は陸・海軍の軍医団が中心となり、宇品の被爆者たちを徹底的に調査します。
東京帝大医学部による第1回調査は1945年10月15、16日に行われ、5120人のデータが収集されました。続いて11月に898人、翌年5月に1031人の大規模な調査が実施されました。ただし、収集した資料はすべてアメリカ陸軍病理学研究所に保管され、日本人はいっさいデータ解析に加われませんでした。
1946年11月、アメリカは被爆者の調査を軍から全米研究評議会(NRC)に移管します。そして、おそらくはNRCの指示で、12月に東京帝大による最後の被爆者調査が行われました。このとき初めて個人個人の調査ではなく、学校の集団被爆の調査が行われました。年齢や被爆状況が類似していて、性別も明確な母集団なので、被爆の影響を調査するには好都合だったからです。
1947年3月、アメリカは原爆傷害調査委員会(ABCC、Atomic Bomb Casualty Commission)を広島赤十字病院内に設置します。そして翌年1月、ABCCが宇品の旧凱旋館に移転するのです。
ABCCは広島、長崎、呉の妊婦に「原子爆弾以後の出生調査表」を交付し、データの収集に務めました。
組織片の脱水から標本の染色まで自動で出来るオートテクニコン
原爆が落ちてちょうど1年後、広島市は市内8カ所に原爆症の無料相談所を開設しますが、まだまだ医療施設は不足していました。そこでABCCにも診療が期待されましたが、ABCCは治療行為は一切せず、ひたすら調査だけを繰り返しました。
ある被爆者は「家族の死をいたみ、肉親と最後の別れを惜しんでいるとき、死臭をかぎつけるハゲタカのように解剖連絡員が遺体の解剖をせがんできて、きわめて不快な思いをさせられた」と憤激しています。
また別な被爆者は、被爆から2年後、突然、ABCCから出頭を命じられました。「私の血はあげたくない」と言うと、迎えの男性は片言の日本語で「軍法会議にかけますよ」と脅してきたといいます。採血され、やけどの場所をスケッチされたものの、治療は一切ありませんでした。
その後、アメリカは、もっといい場所にABCCを移転させたいと広島市に要求してきました。広島市は市内にあった火薬庫跡を考えていましたが、GHQは眺めのいい比治山への移転を厳命します。
かつて比治山には陸軍基地がありましたが、明治天皇が休憩した場所が残っていて、墓地もあり、平和公園として維持することが人々の望みでした。いわば広島のなかの聖地のような場所だったのです。
比治山にあった旧御便殿
こうした市民感情を無視して、1949年7月にABCCの巨大施設が着工します。最終的に完成したのは1956年1月ですが、頂上には無粋で巨大なカマボコ型の建物がいくつも並びました。
住民の反感は増すばかりでした。
ABCCの建築模型
1:管理事務所 2:診察用設備、記録室 3:生化学研究室 4:診断用入院施設、浴室 5:ボイラー、洗濯場 6:貯水池 7:正門 8:通用門
住民の怒りが爆発したのは、1947年から1959年までの調査結果を総括した発表で、「広島も長崎も原爆が空高くで爆発したため、死の灰はきわめて少なく、影響は無視していい。さらに爆心地から2km以上離れていれば、ほとんど放射線の障害はない」という報告をしたときでした。
さらに1967年、米国科学院の機関紙2月号に、20年間の研究成果として、広島・長崎での原爆後遺症はそれほど深刻ではないとの発表があり、被爆者たちは「実際の被害と違う」と憤り、ABCCに対し、きわめて強い反感を持つようになるのです。
それでは、いったいどうして原爆後遺症が実際の被害より低く見積もられたのか?
まず政治的な理由として、原爆の被害を高く見積もれば、反米感情も強くなることがあげられます。また、1953年12月8日にアイゼンハワー米大統領が「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」の演説を行っており、放射能被害を強調すると、この流れに逆らってしまうこともありました。
また、広島では原爆投下から42日後、枕崎台風で地表の放射性降下物はほぼ洗い流されたとの指摘もあります。これでは正確な被害は算出できません。
さらに別な理由として、当時、きっちりした住民のデータがなかったこともあげられます。
たとえば白血病に関する調査では、ABCCの調査は被爆後5年たった1950年以降しかありません。その理由は、この年の国勢調査まできっちりした住民台帳がなかったからです。ABCCはこの台帳を元に、被爆者と非被爆者を分けて調査し、これを統計の基礎として扱ってきました。
その結果、「被爆していない日本人の白血病の生涯発病リスクは1000人に7人だが、被爆者の生涯リスクは10人なので、だいたい1.5倍のリスクだ」と結論を出しています。ですが、そもそもこの非被爆者も放射能の二次被害を受けている可能性が高く、統計的に有意かどうか疑問も持たれています。
また、胎内被曝の調査にしても、実際に調査が始まったのは1951年からでした。このように、ABCCの調査は基本的に被害が少なめに出やすいと言えるでしょう。これがチェルノブイリまで、ほぼ唯一の被曝資料として活用されてきたわけです。
ABCCのIBM製パンチカード整理機
(おそらくですが、これが日本に初めて輸入された実用的なコンピュータ)
もうひとつ、日本における「低線量被曝は安全」という言説の根拠となっているのが、「放射線ホルミシス効果」です。簡単に言えば、高線量の放射線は人体に有害だが、低線量なら有益である、というものです。
これは、宇宙飛行士が宇宙で受ける放射線の影響を調べるために始まった研究で、1970年代、ミズーリ大学のトーマス・D・ラッキー教授が提唱した学説です。
その後、日本では1993年に電力中央研究所が、東大、京大、東北大、広島大、長崎大など14の大学や研究機関に予算を提供して研究が始まりました。
研究の結果、たとえばガンに低線量照射を1回行うことで、転移率が約40%下がることなどがわかりました。
1975年、ABCCは日米の共同研究機関として、放射線影響研究所になりました。また、ホルミシス効果は放射線安全研究センターが中心となって研究が続いています。
日本では、こうした研究の成果として、低線量被曝は安全だと結論づけられたのです。
ABCC(『科学朝日』1967年9月号より)
ABCCが行ったのは、被爆者の死亡調査や遺伝的な研究で、生物学的なものだけです。社会学的な調査はいっさい行われていません(その理由は日本人が劣等民族だと思われていたからとの説もあります)。
その後の研究で、新たな知見が生まれてもいるので、放射能影響研究所のサイトなどを参考に最新の情報をざっとまとめておきます。
●急性死亡(被爆から2カ月以内の死)
ある集団の50%が急性死亡した地域を調査したところ、爆心地からの距離は、広島で1000〜1200m、長崎で1000〜1300mでした。遮蔽状況がよくわからないため、これを放射線量に換算することはできませんでした。
なお、爆心地に近いほど爆風による家屋の倒壊や火災の影響が強いため、放射線による影響なのか外傷やヤケドによる影響なのかは区別できませんでした。
●加齢現象
放射線によって加齢現象が増加するかどうかは判明しませんでした。
●ガンの増加
ガンは被爆の10年後から増加。2500m以内で被爆した人のガンリスクは標準より約10%高くなっています。
ちなみに10歳で爆心から1700m離れた屋外で被爆した男性100人の生涯を追跡すると、最終的に29人はガンで亡くなり、そのうち3人は被爆が原因のガンと推定されるそうです(つまり被爆のガンは3%の発症率)。
●白血病
1950〜59年において、1400m未満での被爆者はすべての年齢で白血病死亡率が高くなっています。とはいえ、白血病は珍しい病気なので、症例数は非常に少ないんですけどね。
●胎内被曝
知的障害は受胎後8〜15週で被爆した人に特に顕著で、受胎後0〜7週、あるいは26〜40週で被爆した人ではまったく見られませんでした。
●遺伝学的な影響
ABCCがいち早く取り組んだもので、1948年から1954年まで資料を収集しました。
調査の結果、594例、0.91%に出生時障害がありましたが、実はこれは被爆してなくてもほぼ同じ数字です。よって、統計的に、被爆者の子供が重い障害を持って生まれるとはいえません。また、出生時の体重や生後の体重、死亡率などにも差はありません。
意外に放射能被害って小さいんだなと、思いますね。
ちなみに、現在は被爆者一人ひとりの放射線量を推定するのに、1986年に作られた「DS86」という方式が使われています。爆心地からの距離、屋根や壁などの遮蔽物の状況を考慮して算出しますが、被爆者認定基準が甘ければ甘いほど政府にとってはありがたい、というのも否定できない話だと思います。内部被曝を否定するのは、経済的な要素も強いのですな。
制作:2011年8月5日
<付記>
こうした歴史的な背景を絶対的に信じて、「やっぱり日本の放射能研究はいかがわしい」とか「低線量被曝は危険だ」などと思い込むのも科学的ではないと思います。
どうしてかというと、ABCCの本来の目的は、将来、アメリカが核攻撃された場合、治療の優先順位を確立するためのデータ集めだったからです。
全米のABCC関連文書を探し集めたペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授が次のように語っています。
「(ABCCの)研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がない。ニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人間がどうなるか、というモデルでもあった」(朝日新聞、1998年7月29日)
つまり、民間人の防衛計画を立てるために集められたデータなので、あえて「低線量被曝が安全」と嘘をつく必要もないのです。実際、このデータを見たことのある医師によれば、データの信憑性はかなり高いと判断できるそうです。少なくとも僕は、12万の被爆者を選び、被爆状況を数年かけて各人にインタビューし、亡くなった7500人を解剖した膨大な医療データを簡単に否定するのは傲慢だとも思っています。
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