国立産業安全博物館
驚異の画像ワールドへようこそ!
「産業戦士」を守れ!
労働災害を減らす安全思想
安全の象徴「緑十字」(住友大阪セメント)
昭和になって日中戦争など戦線が拡大するとともに、国内では地方の少年たちが「産業戦士」として集められ、各地の工場で働くようになりました。しかし、それまで外で元気に遊んでいた少年たちのなかから、何人もが体調を崩し、帰郷させられていきました。
その理由は当初よくわかりませんでした。過重労働や工場内の劣悪な空気などが原因とされましたが、そのうち、太陽光を十分に浴びなくなったからではないかと考えられるようになりました。紫外線にあたらず、ビタミンDが欠乏したのです。
紫外線のうち、近紫外線といわれるものがビタミンDを生成させるとし、これをドルノ線(保健紫外線)と呼ぶようになりました。後に東芝となるマツダランプは、この対策として紫外線を発する超高圧水銀ランプを発売しています。
ランプ(照明)には、同じような知見がたくさんあります。
排気ガスの影響を受けにくいナトリウムランプ
(宇津ノ谷トンネル)
たとえば、トンネル内ではオレンジ色の低圧ナトリウムランプが使われていますが、これを工場で使うと、細かい作業でも目が疲れないと言われています。また、60ワットの白熱電灯より、20ワットの蛍光ランプのほうが、同じような明るさなのに、色の識別がしやすいとも言われます。
このように、昭和初期、工場での労働環境の改善、安全活動の取り組みが大きく進みました。今回は、そんな産業安全意識の誕生についてまとめます。
日本の安全運動の始まりは、1912年(大正元年)、足尾銅山で始まった「安全専一」(あんぜんせんいち)の掲示だとされます。しかし、全国的な安全運動にまではなかなか広がりません。
足尾銅山の「安全専一」
日中戦争は1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件をきっかけとして始まりますが、この年を境にどれほど労働災害が増えたのか、という統計データがあります。毎年10月1日、土木建築労働者40万人を調査した結果、1933年〜36年の1000人あたりの死亡率は平均で1.92。ところが、1937年〜40年は2.23に激増するのです(1941年以降は公表不可)。
【土木工事における1000人あたり死亡者】
1933年 1.44
1934年 2.08
1935年 2.16
1936年 1.98(以上の平均1.92)
1937年 2.33
1938年 2.93
1939年 1.90
1940年 1.74(以上の平均2.23)
また、死傷者のうち、およそ60人に1人が死亡することもわかりました。
工具の災害例
(『科学大観』第10号、1957年)
労働災害について、厚生省(当時)は、28の原因に分けて統計をとっていましたが、主なものは以下のとおりです。
(1)地盤または土砂の崩落
(2)物体の落下
(3)つまずき、すべり、転倒
(4)足場からの転落
(5)運搬車両の脱線、転覆、追突
(6)起重機、巻上機、昇降機などの機械がらみ(誤動作含む)
(7)溶接作業によるやけど
(8)火薬やガスの爆発
(9)感電などの電気関係
(10)高圧下作業による潜函病
ケガではありませんが、粉塵による健康被害などもあります。これは1970年代後半から禁止された石綿なども含まれます。
アライヘルメットの宣伝(1932年)
では、具体的にどのような対策が始まるのか。
たとえば、落下物に対して有効なのはヘルメットですが、ヘルメットの制式が決まるのは1923年で、官報には、司法省による訓令が掲載されています(関東大震災の半月前なので、震災時にまともなヘルメットはなかったということです)。
ヘルメットの制式(官報1923年8月15日)
溶接作業において、火傷を防ぐには、火の粉を防ぐ革手袋や眼鏡が有効です。
この眼鏡の開発は、理化学研究所が率先しておこない、ルミナスという特殊ガラスを開発。傘下の理研光器を通じて軍用メガネ、安全メガネとして普及に努めました。現在も理研化学や理研オプテックといった保護具のメーカーとして残っています。
ヘルメット、頭巾、ゴーグルの一例
(『建築世界』1943年10月号)
木材を加工するとき、よく使われるのが「丸のこ盤」です。作業台についた円形の刃物が高速回転することで、木材を切断できます。しかし、かたい木材を手押しするとき、刃の回転で木材が勢いよくはねあがることがあるのです。このとき、割刃(スプリッター)と呼ばれる、刃への接触を防ぐ金具を設置しておけば、安全が確保できます。こうした反発防止器具は、寺西工業などが開発しました。
また、機械式のカンナで刃への接触を防ぐカバー、重いものを吊るすとき、急激な負荷がかかってチェーンが切れないようにする「チェーンブロック」なども開発されていきます。
チェーンブロック
このほか、足場の緊結はどのような素材と結び方が効果的かなど、さまざまな研究が進むのです。
大林組の「足場の緊結」研究
さて、上に掲載した画像は、かつて存在した厚生省の「産業安全参考館」の展示資料です。
この展示館、いったいどのように誕生したのか。
1926年(大正15年)、第1回危害予防衛生講習会が開かれました。この講習会に参加していたのが、当時、染工場を経営していた伊藤一郎です。伊藤は、工場の安全管理意識の乏しさを問題だと考えており、以後、内務省社会局に安全資料の展覧会を開くよう要請するなど、安全に関する啓蒙運動を始めます。
1932年(昭和7年)に開かれた第1回全国産業安全大会では、安全資料の移動式博物館を作ることが提唱され、1939年には、工場災害予防の国立研究機関の設置が提案されました。こうした機運に乗じ、伊藤は1940年に50万円(現在の2億円)の寄付をおこないます。
これを契機に政府も動き出し、ついに1942年、厚生省産業安全研究所が発足、翌年には「産業安全参考館」が開設されました。
産業安全参考館
初代所長・武田晴爾は、産業安全参考館の使命についてこう語っています。
《寝ても醒めても「戦争だ」「戦争だ」と何物かが腹の底から叫び続けている。この国家唯一の施設が、少しでも戦争のお役に立つために活用せられなければならぬ。戦力増強の面を担当して活動しなければならぬとの強い衝動が脳細胞をかけ巡る》(『建築世界』1943年10月号)
戦後の1947年、労働省ができると研究所は移管され、参考館は「国立産業安全博物館」となりました。
研究所では多くの安全技術が開発されました。たとえば、常に100ボルトの電流が流れて感電死の危険があった電気熔接機は、熔接していないときは自動的に25ボルト以下に下がるようになりました。この結果、造船関係の感電死は、1958年度の20名が翌年度は3名に減りました(『週刊労働ニュース』1960年6月27日号)。
1960年、大阪にも安全博物館が開設されました。これは日立造船の創立80周年記念事業の一環として労働省に寄贈されたものです。そして1971年、東京・芝5丁目の産業安全会館内に、改装なった「産業安全技術館」がオープンしています。
歯車に巻き込まれないためのカバー
(産業安全技術館の展示)
東京オリンピックが開催された1964年、労働災害は全国で1日平均20人の死者と2000人の負傷者を生んでいました。この年の第37回全国安全週間で、大橋武夫労働大臣がメッセージを発表しています。
「最近の労働災害は毎年のように減少しているが、安全についてもっとも進んでいるアメリカに比べると2.5倍もの高率になっている。1963年には死亡者6430人を含む約75万人の人びとが労働災害を受けた。このことは労働者および家族にとってこの上ない不幸だが、経済的損失も2230億円におよぶものと推計されている。これは一般会計予算の1割にもおよぶ巨額の数字であり、人道的見地はもとより経済的見地からも、安全が図られなければならない」
ボール盤(穴あけ機)の安全装置と、削りカス飛散防止
政府は労働災害の半減を目指し、新産業防止5カ年計画を策定。この計画に基づいて「労働災害防止団体等に関する法律」が制定され、安全管理士などの資格が制定されました。1966年には東京・清瀬市に屋外実験場が設置され、実地的な研究がさらに進みます。戦争から始まった安全管理は、こうして完成していくのです。
しかし、それから半世紀ほどたった2011年、産業安全技術館は民主党の事業仕分けを受けて廃止となりました。個人の強い思いから始まった安全思想は、平成の世の中ではもはや当たり前となり、展示館はその役目を終えたのでした。
産業安全参考館の塑像
制作:2020年2月3日
<おまけ>
日本で、労働災害を減らすことに尽力した人物は数多くいますが、いちばん有名なのは蒲生俊文だと思われます。
東京帝大卒業後、東京電気(現在の東芝)に就職した蒲生は、悲惨な感電事故を目撃して安全運動に目覚めます。1917年に「安全第一協会」を設立し、1919年から「安全週間」運動を開始。
全国安全週間の切手
蒲生は安全運動についてこう書いています。
《同胞が平和の戦場に出場して、あるいは手や足を失い、あるいは失明し、あるいは廃者となり、はなはだしきは血なまぐさい現場に痛ましい残骸を横たえる者あるにいたっては、誰がこれに接して胸を打たない者はあるまい。工場における同胞がある意味において物体視され、災害の如きは事業固有の危険であれば、やむをえざる事情であると顧みなかった時代はすでに過ぎ去った》(『官報』1926年2月24日より改変引用)
安全運動は内務省社会局により全国で開催されるようになり、1928年、第1回全国安全週間がスタート。これが、現在まで続く7月の「全国安全週間」につながるのです。
なお、冒頭の「緑十字」も蒲生が考案したものです。
『全国安全週間報告 第2回』より(国会図書館所蔵、1929年)