渥美半島、幻の運河計画
三河湾の水質汚染を解決せよ
掘削予定地は最短で4.5km
1955年8月、中日新聞や名鉄、東海銀行といった愛知県の経済団体でつくる「東海経済懇話会」のメンバー約70人が、渥美半島の先端にある伊良湖岬に視察旅行に訪れました。三河湾を国定公園にするための陳情の一環で、特に伊良湖港など周囲の整備が最大の目的でした。
一行は、地元の漁師が採ったばかりの生カキを、海水で洗っただけで食べ、「これは珍味だ」などといっては笑顔を見せました。そして、家康が陥落させた田原城跡を見学し、渡辺崋山の発案で建設された食料備蓄倉庫「報民倉」の資料などを見て回りました。
田原城跡は現在博物館になっていますが、そこに「田原藩」の昔の地図が展示されています。田原藩は渥美半島の中央にあるため、南北が海。そして中央には中世に作られた広大なため池(芦ヶ池)があります。その池から川に沿って南下すると、やはり古くから存在する赤羽根の港が書かれています。
「田原藩」の地図
渥美半島の太平洋側は、暖流の影響を受け、気候はきわめて良好です。そして、この温暖な気候を利用した園芸産業が発達していました。また、三河湾側はカキやエビなど、魚介類が豊富な日本屈指の豊かな漁場です。しかし、この地には大きな産業がありません。それは、昔からこの地域一帯が、きわめて「水」に乏しかったからです。
農民は、天水をため池に溜め、雨を待ちました。共同井戸もありましたが、十分な量は確保できません。しかも、強酸性土壌でサツマイモでさえ大きくは育ちません。そのため、昔はひんぱんに食料危機に襲われました。江戸時代、庶民向けの食料備蓄倉庫ができたのも当然です。
農業がほぼできず、大型船も寄港できないことで、産業が育ちませんでした。地元ではこのエリアをなんとか観光地化しようと繰り返し努力していました。それが先の視察旅行がおこなわれた理由です。幸いなことに、海の幸に恵まれ、風光明媚で温暖な土地柄なので、観光地としては有望です。その中心が半島の先端である伊良湖岬になるのは必然でした。
伊良湖岬
しかし、伊良湖岬には難がありました。実は、渥美半島は戦前、日本陸軍の射撃試験場など軍用地が多く、終戦から10年経ってもほとんど開発が進んでいません。しかも、防波堤を築いた途端、潮の流れによって砂が堆積。できたばかりの伊良湖港には大きな船が停泊できず、「避難港」という規模の小さい港のままでした。
日本陸軍の軍事施設跡
三河湾には干潟が多く、それが豊富な魚介類を育てましたが、港としてはどこも小規模なものしかありません。また、伊良湖水道(と渥美半島の太平洋岸)は昔から海難事故の名所でした。現在でも、海上保安庁の「伊勢湾海上交通センター」があるほどです。
航路の安全を見守る伊勢湾海上交通センター
結局のところ、渥美半島には、魚介類と園芸と軍需産業以外、どうやっても産業が育たなかったのです。貧困地域ではありませんが、大きな成長は見込めない場所です。今回は、そんな渥美半島に巨大産業をもたらした一人の男の生涯をまとめます。
雨乞山
昔から水不足が多いことで知られた愛知県の東三河地方。農作物を育てるのに水は必要不可欠で、特に稲作には水が重要なため、日照りが続くと日本各地で「雨乞い」がおこなわれました。この地方でも、さまざまな雨乞いが伝承されています。
渥美半島の先端に近いところに、雨乞山(標高230メートル)があります。頂上には雨乞神社があり、ここでの雨乞いは、以下のように記録されています。
《雨乞いには、石神村落のものが総出で、ミノ・カサをつけ、ホラ貝と太鼓に合せて雨乞い踊りをしながら雨乞山に登った。このとき、禰宜(ねぎ=神職)と総代(庄屋)は紋付きを着用した。また山に登るとき、ムラはづれ(山の登り口)の小さな泉池(湧水ため池)の水と御神酒を持参した。7日7夜の願掛け満願の日になっても雨が降らないときは、再度山に登って願をかけた。(中略)
雨乞神社の御神体は、八大竜王神(神像一幅)と石剣である。願掛け期間中に、この石剣がくもれば雨が降ったといわれている。なお、当地方では福江に通称「雨助」と呼ばれる祈祷師がいて、依頼に応じて雨乞山に登り、「天焼き」をして雨乞い行事をとり行ったといわれる》(『豊川用水史』)
この行事は、1944年、1947年の大干ばつのときにおこなわれたのが最後のようです。
豊川用水
東三河の水不足を解消したのは、1968年に完成した豊川用水です。
しかし、この用水は完成までにずいぶん時間がかかりました。もともとの構想は、地元出身の代議士・近藤寿市郎(1870~1960)が発案したものでした。
1935年3月7日、第67回帝国議会で近藤は、「東三河地方は原野が見渡す限り広がり、酸性土壌なので、開墾しても安い大根かサツマイモしか取れない。この広大な不良土に対して、灌漑用水を設け、土地を肥沃にし、農村の振興を図ることが目下の急務」と主張しています。農家の長男として生まれた近藤は、1921年、視察で訪れたインドネシア・ジャワ島で見たオランダの水利技術に驚き、渥美半島へ水路を引くアイデアを思いついたのです。
近藤は、この日も豊川用水の必要性を主張し、建議案は満場一致で可決されます。これで4度めの可決ですが、結局、この計画は実現しません。それは、日中戦争を前に、それだけの余力がなかったからです。
これまでも、近藤のプランは、周囲からほとんど相手にされてきませんでした。それは、近藤が「豊川用水」だけでなく、「豊橋港の修復」「赤羽根港建設」も主張しており、あわせて「近寿の3大ホラ」と揶揄されていました。
現在の赤羽根港
豊川用水は、渥美半島に水を引き、農業を盛んにさせるのが目的です。では、残りの2つは何が目的だったのか。
前述したとおり、三河湾には大きな港がありません。そこで、豊橋港を修復したうえで、さらに梅田川を掘削し、浜名湖と結ぶ運河を建設しようとしました。当時、隆盛していた浜松の遠州織物を、豊橋港から輸出する計画だったのです。それが、「豊橋港の修復」の真意です。
もうひとつ、「赤羽根港建設」はどうか。赤羽根は、冒頭で触れたように、古くからある港です。渥美半島の太平洋岸にあり、近藤の地元でもあります。近藤は、この赤羽根から渥美半島を縦断する形で運河を掘る計画でした。仮に実現すれば、事故の多い伊良湖水道を通らずに名古屋まで行けることになり、きわめて安全な航路が完成します。
豊橋用水は、戦前、4度も可決したものの、長らく実現しませんでした。
戦争が終わり、引き揚げ者が急増すると、食料配給もままならなくなります。そこで、1945年11月9日、政府は「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定し、大規模な農地開拓が始まります。渥美半島でも、陸軍の演習地や試砲場などが開放され、開拓が進みました。
開墾が進むと水問題も深刻化し、ついに豊川用水構想が動き出します。
豊川用水は1949年に着工しますが、工事は一筋縄では進みません。しかも、1954年には台風13号による災害復興などを理由に、予算ゼロを内示される事態にもなりました。こうしたトラブルを乗り越え、19年後の1968年、ついに完成します。
豊川用水は渥美半島に豊かな水をもたらし、流域の農地はキャベツ、メロン、トマト、菊、花卉(かき)などの高収益品目を作れるようになりました。農家は潤い、田原市の市町村別農業産出額は全国1位を記録することが増えました。東三河は全国有数の農業地帯になったのです。
近藤は、「豊川用水期成同盟会」の顧問に就任して用水の完成を待ち望んでいましたが、1960年に死去し(享年89)、残念ながら、通水を見届けることは叶いませんでした。
三河湾の干潟
近藤がこの世を去るころには、三河湾を想定外の事態が襲っていました。昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長で、海岸線は次々に埋め立てられ、干潟や藻場が次々に姿を消したのです。干潟は、海水の浄化作用と豊かな海の恵を与えていましたが、これらが一気に消えていくのです。
三河湾は奥まっているため、外海と交わる海流が少なく、家庭や工場廃水が流れ込んだことで、富栄養化が進行しました。
大量の有機物や窒素、リンなどが堆積し、海底のヘドロとなって汚染は進むばかり。さらに、有機物が分解するとき、大量の酸素を消費するため「貧酸素水塊」ができ、多くの魚が死んで打ち上げられました。三河湾は平均水深が9.2メートルときわめて浅く、しかも流入する河川の水量が少ないことも汚染のスピードを早めました。
渥美半島「横断運河」断面図
汚染の進む三河湾を浄化するため、1970年に始まったのが、太平洋の水を引いて三河湾に放水することです。考えられた方法は2つで、一つはパイプライン、もう一つが開水路(運河)でした。防災研究所の「宇治川水理実験所」に三河湾の2000分の1(高さは160分の1)模型が作られ、
実験が繰り返されました。
三河湾の水理模型
以下は、1975年に刊行された 『渥美半島横断運河調査』による、運河とパイプラインの事業費と維持費の概算です。
【運河・事業費】1356.5億円
【運河・維持費】月1342万円
【パイプライン事業費】1ポンプ場あたり309億円(8ポンプ場で2472億円)
【パイプライン維持費】1ポンプ場あたり月4410万円(8ポンプ場で月3.5億円)
※数字の詳細は文末に掲載
運河ルート1
1992年、今度は「伊勢湾水理模型実験場」に大規模な水理模型が作られ、浄化実験が始まりました。
実験では、横断運河を渥美半島でいちばん狭い(4.5km)田原町谷熊〜百々(どうどう)間に掘ることを想定。規模は幅400メートル、水深12メートル/幅50メートル・水深7メートルの2つのケースが試されましたが、結果的に明快なデータは取れませんでした。とはいえ、同湾に注ぐ河川流量と同じ程度の毎秒100トンの水を導入すれば、化学的酸素要求量(COD)が水1リットルあたり0.5〜2.5ミリグラム下がることはわかりました。
ただし、予算は膨大です。パイプラインで毎秒50トンの水を最短距離(約11km)で導入した場合、事業費は最低でも300億円、100トンの場合は900億円かかります。また、開水路だと用地買収も含め50トンで1000億円かかるとされました。
これに対し、研究者グループは「巨額の税金を投入しても効果はあまりない」と疑問を投げかけることになります。それは、河川水に比べて比重が重い海水を湾に入れても、底に溜まってしまう可能性が高く、海水の交換はあまり期待できないと考えられたからです。
運河ルート2
結局、汚濁の原因となる窒素やリンの流入量を減らすことが最善とされ、そのうえで河川、干潟、水田などが持っている水質浄化能力を活かすことが提言されました。現在では、湾を浄化するため、人工海浜を作ったり、下水道を整備したり、また海底のヘドロを砂で覆う覆砂事業などがおこなわれています。
渥美半島にあった幻の運河計画。残念ながら実現せず、いまは静かな農村地帯として、伊良湖岬を除いて、あまり観光客も見ない地域として残されています。
蔵王山展望台から見た運河予定地
制作:2024年12月16日
<おまけ>
運河もパイプラインも実現できなかった三河湾では、人工干潟や浅瀬を造って自然浄化を促す「シーブルー計画」が進められました。大型船舶が航行できるよう、渥美半島と知多半島の間の中山水道航路を掘り、その砂を活用する計画です。1999年から事業が始まり、30カ所以上で徐々に干潟が戻ってきました。造成された干潟は5年で620ヘクタールに及び、一部ではアサリなどの生息も確認されています。
また、中部経済連合会は、海岸線を残すため、三河湾に人工島を建設し、エネルギー供給基地と海水循環施設を設ける構想も発案しています。三河湾は閉鎖性海域なので水質汚染が進みましたが、海水パイプラインや横断運河を造り、さらに沖合に作った人工島で海水を循環させれば、水質浄化とともに巨大エネルギー基地や国際物流拠点ができると考えたのです。人工島の位置は豊橋市の沖合で、面積は400ヘクタール程度を想定しました。しかし、残念ながら、こちらも実現することはありませんでした。
<おまけ2>
※パイプラインと運河計画の概算数字を掲載しておきます。
【運河・概算事業費】
1. 運河掘削土工事 773億
2. 運河護岸工事 61億円
3. 外郭施設導流堤工事 147億円
4. 外郭施設海岸堤防工事 3.5億円
5. 運河水門工事 136億円
6. 付帯工事 145億円
7. 用地費 78億円
8. 補償費 13億円
合計 1356.5億円
【運河・維持管理費】
1. 運河運転費 29万円(月)
2. 曳船運転費 900万円(月)
3. 航路照明費 15万円(月)
4. 機械管理費 280万円(月)
5. 施設管理費 117万円(月)
合計 1342万円(月)
【パイプライン概算事業費】
1. ポンプ機械機器類工事 48億円
2. ポンプ土木関連工事 187億円
3. 取水施設工事 72.5億円
4. 用地費 1億円
合計 309億円(1ポンプ場あたり)
最終的に8ポンプ場設置予定なので、2472億円
【パイプライン維持管理費】
1. 使用電力料 3495万円(月)
2. 運転経費 193万円(月)
3. 維持管理費 722万円(月)
合計 4410万円(1ポンプ場あたり、月)
最終的に8ポンプ場設置予定なので、3.5億円(月)