「洞窟」の沖縄戦

陸軍第24師団第2野戦病院壕跡
陸軍第24師団第2野戦病院壕跡(豊見城市)


 1853年5月26日、アメリカのペリー艦隊が突如、琉球王国にやってきて、那覇の沖合に停泊しました。6月6日、ペリーは琉球側の抵抗を押し切って首里城を訪問し、開国を促す大統領親書を手渡しています。

 琉球側は抵抗を示しつつ、上陸許可自体はすぐに認めています。そのため、米軍は那覇を見物しつつ、5月30日には奥地調査隊をひそかに出発させました。

 アメリカ側は石炭が欲しかったため、調査隊には地質調査を命じていました。一行はまもなく城塞「中城(なかぐすく)」を発見して、その精緻さに驚愕。測量を終え、城が石灰岩でできていることを記録しました。

世界遺産・中城城跡
世界遺産・中城城跡


 その後、現在の金武(きん)に到着し、小さな仏教寺院のある家を見つけます。一行は急いで家を覗き込みますが、住民は即座にむしろを下ろしたため、人の姿は見えなかったと記されています。

 この寺院は現在もある「金武観音寺(きんかんのんじ)」です。実はこの寺には日秀洞という修行用の鍾乳洞があり、観光地として知られています。調査隊が洞窟に入ったかどうかは記録されていませんが、仮に入ったとしたら、その規模に驚いたはずです。

金武観音寺にある日秀洞
金武観音寺にある日秀洞


 このように、沖縄には大きな洞窟が各地にあり、多くが聖地や墓地などとして活用されています。なぜ沖縄に洞窟が多いのかというと、島の大部分がサンゴ礁の隆起によってできた「琉球石灰岩」で覆われているからです。石灰岩の地層に雨水や地下水がしみ込み、主成分である炭酸カルシウムを数万年単位で少しずつ溶かしていくことで、無数の洞窟が形成されました。

 この洞窟群が、およそ90年後、沖縄に上陸した米軍を非常に困らせることになります。日本軍が洞窟にこもって徹底抗戦したからです。今回は、沖縄戦を洞窟の観点から検証してみます。

特攻艇の秘匿壕(渡嘉敷島)
特攻艇の秘匿壕(渡嘉敷島)


 1943年(昭和18年)2月、ソロモン諸島ガダルカナル島を失った日本は、それまで「絶対死守」と叫んでいたソロモンの防衛線をあきらめ、次の防衛線をマリアナ諸島までに大きく後退させました。

 1943年9月30日の御前会議で国策として決定したのが、「絶対国防圏」の強化構想です。「今後採るべき戦争指導の大綱」として、

《帝国戦争遂行上、太平洋およびインド洋方面において絶対確保すべき要域を、千島、小笠原、内南洋(中西部)および西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域とす》

 とされました。この内南洋に含まれるのが、マリアナ諸島(サイパン島、グアム島)やカロリン諸島(トラック島)となります。これを日本海軍は「マリアナ線」と称し、サイパンの「絶対死守」が打ち出されます。なぜサイパンかと言うと、ここを取られると、東京も名古屋も大阪も、航続距離の長い爆撃機B29の攻撃圏に入ってしまうからです。

カロリン諸島・ポンペイ島の神社跡
カロリン諸島・ポンペイ島の神社跡



 しかし、1944年2月、米軍の大規模な攻撃でトラック島が潰滅。その後、サイパン玉砕(7月7日)、テニアン玉砕(8月3日)、グアム玉砕(8月11日)と、戦局は悪化の一途をたどることになります。

 トラック島が壊滅してわずか1カ月後の1944年3月15日、陸軍は、南西諸島の防御のため、沖縄に第32軍を編成します。軍司令官は渡辺正夫中将、参謀長は航空を専門とする北川潔水少将、そして高級参謀は八原博道大佐です。この八原博道氏が、戦後『沖縄決戦』という手記を書いており、これが沖縄戦の基本資料になっています。

「マリアナ線」が崩れた場合、アメリカ軍は一気に南西諸島を攻撃することが可能となります。ただ、2000km以上もあることから、その準備にかなり時間が取られることは間違いありません。あるいはフィリピン、台湾から島伝いにやってくる可能性もあります。はたして米軍はどこから攻めてくるのか。

 いずれにせよ、次の防衛線である南西諸島を守るため、陸軍第32軍は多数の飛行場建設に取りかかります。その数は驚くほどで、沖縄本島では、陸軍北、中、南飛行場、海軍小禄飛行場の4飛行場を建造。その後、陸軍は首里北側、海軍は糸満北側にそれぞれ飛行場を建設し、合計6飛行場が建設されました。
さらに喜界島(海軍飛行場1)、徳之島(陸軍飛行場2)、伊江島(陸軍飛行場3)、宮古島(陸軍飛行場3)、石垣島(陸軍飛行場1、海軍飛行場2)、南大東島 (海軍飛行場1)と、周辺で19もの飛行場を作るのです。

現在も3分の1が米軍に占領された伊江島の滑走路
現在も3分の1が米軍に占領された伊江島の滑走路



 陸軍がひたすら飛行場を作っているうち、太平洋では、6月15日に米軍がサイパンに上陸。大本営は全部隊に対し「あ号作戦」を下令。これは海軍航空隊と機動部隊の猛攻で米軍を壊滅させる作戦ですが、この時点で、作戦に足る飛行機はほとんどありませんでした。

 仮にサイパンが陥落すれば、次に敵がどこに来るのかわかりません。直接沖縄に来る可能性もあり、軍の作戦課はあわてるばかりです。そこで、沖縄支援のため、独立混成第44旅団、45旅団の約4000名を富山丸に乗せて、本土から沖縄に派遣することになりました。しかし、ここで陸軍を驚愕させる事態が起こります。

 6月29日、沖縄に向かっていた富山丸が、徳之島沖で敵の潜水艦に撃沈されたのです。数百の歩兵は救出されましたが、第32軍唯一ともいうべき兵力が壊滅的な打撃を受けたのです。この段階で沖縄を攻撃されたら、日本は為す術もありません。

 危機感を抱いた軍部は、南西諸島へ一挙に兵力を送りこみます。戦艦武蔵や大和を使って、第9師団を沖縄に、第28師団を宮古島に、ほかにも数多くの部隊が南西諸島に送られました。同時に渡辺軍司令官が病気だったことから、大本営は、軍司令官を牛島満中将に、参謀長を長勇少将に変えました。航空専門の北川少将を変えたのは、飛行機で敵を迎え撃つのではなく、地上戦で徹底抗戦するという決戦軍団に変わったことを意味します。

 しかし、その後、参謀本部は敵の目標がフィリピンらしいと知り、今度は沖縄からフィリピンに大量の航空機が送られます。そして10月以降、参謀本部から沖縄への作戦指導は途絶えがちになります。11月13日、フィリピンでの激戦を受け、参謀本部は、沖縄から第9師団か第24師団のいずれかをフィリピンに送るよう命令してきます。その後、なぜか台湾行きとなり、こうして主力の第9師団が沖縄からいなくなりました。

 飛行機が少ないうえ、人員も減った第32軍は、沖縄本島の中央部を捨て、防衛地域を南部に縮小することになります。そのため、防衛線の外にある飛行場は破壊する必要が出てきました。敵に奪われて利用されたら困るからです。

 第32軍は、洞窟にこもって徹底的な持久戦に持ち込む覚悟でした。しかし、中央はそれと矛盾する「天一号作戦」を推進しています。「天一号作戦」は本土防衛のために採用された航空作戦で、簡単に言えば特攻です。この作戦を遂行するには、当然ですが、大量の飛行機が必要となります。しかし、もはや飛行機の数は限られています。いずれにせよ、この段階で、航空戦を求める中央と、持久戦に進む沖縄現地軍との間に、戦闘方針に大きなズレが生じていたことがわかります。

 南西諸島は、1944年10月10日、初めて大規模な空襲被害を受けています。しかし、それから半年近くは無風状態が続きました。

伊江島の壕に残されたガスマスクなど
伊江島の壕に残されたガスマスクなど(伊江島はにくすに郷土・平和資料館)


 年が明け、1945年3月23日、米軍は南西諸島全域を空襲し、翌日には艦砲射撃が始まりました。まもなく慶良間諸島への上陸が始まり、すぐに占領されました。そして4月1日、米軍は沖縄本島の西海岸、嘉手納海岸一帯で上陸を開始しました。

渡嘉敷島の集団自決跡
慶良間諸島・渡嘉敷島の集団自決跡


 嘉手納沖は無数の輸送船で埋まり、戦艦や重巡洋艦それぞれ10数隻を中心とする200隻の大艦隊が艦砲射撃を繰り返し、その上を無数の敵機が煙幕の間から急降下爆撃をしています。そして、1000隻以上の上陸用舟艇に乗った上陸部隊が、海岸を埋め尽くしました。この上陸作戦は「アイスバーグ作戦」とされ、敵は約55万人、対する日本軍は、学徒隊や義勇隊などの補助兵を含めて10万人しかいませんでした。

沖縄に上陸する米軍
沖縄に上陸する米軍


 しかし、沖縄の防衛隊は上陸に対し、安心しきっていました。なぜなら、この上陸の瞬間こそ、まさに「天一号作戦」による攻撃の好機だったからです。長大な沖縄戦の記録『沖縄決戦』は、この上陸の場面から始まっているのですが、当初、陸軍は上陸部隊に対し「これから壊滅されることも知らず、必死にあがいていて痛快至極」と揶揄していたのです。

 計画では、この上陸に対して海軍航空隊が猛攻を仕掛け、壊滅させる予定でした。しかし、海軍は現実には飛行機不足に悩まされており、結局、海軍機は一機も姿を見せませんでした。沖縄本島は、こうしてあっけなく上陸されてしまうのです。

第32軍司令部壕
第32軍司令部壕(首里城)


 沖縄の首里にあった陸軍の司令部は、3月29日の夜以降、いっさい外に出ることなく、陽光を見ない洞窟生活が始まります。

《坑道の開通に伴い、軍首脳部は洞窟の北部から中心部に移転した。地下30メートル、延長1000数百メートルの大洞窟、多数の事務室や居室、かつての銀座の夜店もかくやと想う。二六時中煌々(こうこう)たる無数の電灯、1000余人の将兵を収容して、さながら一大地下ホテルの観がある。(中略)

 敵の砲爆はまず戸数5000の首里市街を跡方もなく吹き飛ばして、教会堂のみ残し、ついで首里山の鬱蒼たる老樹の密林、丈余の城壁、木造ではあるが各種の記念すべき大建築物を爆砕してしまった。4月中旬ごろには、首里高地だけでも1日数千発の砲爆弾が落下した。日露戦役で有名な二〇三高地などものの比ではない。

 敵の大型爆弾や40サンチ砲弾が洞窟に命中すると、強震の時のように洞窟はぐらぐらと揺れるが、中型以下の砲爆弾は、無数の豆を鉄板上に落としたように、ただぱんぱんと跳ね返るのみである。とにかく、洞窟内は危険絶無、絶対安全だ。洞窟内日々の生活は、実にこの安全感の上に、構成発展したのである》(『沖縄決戦』)

 4月以降は、浦添の前田高地をめぐって激しい戦闘が続きました。浦添グスクの付近には、いまも数多くの塹壕が残されています。第2大隊は壕にこもって徹底抗戦しましたが、米軍に壕の入口を破壊されたため、多くが壕内に取り残されました。

前田高地の塹壕跡(浦添市)
前田高地の塹壕跡(浦添市)

食料庫だった「カンパン壕」(浦添市)
食料庫だった「カンパン壕」(浦添市)



 6月4日、米軍は鏡水海岸(現在の那覇空港周辺。当時は小禄飛行場)から上陸し、飛行場をすぐに制圧。
 海軍は豊見城の海軍司令部の洞窟にこもっています。このとき、海軍の「沖縄方面根拠地隊」となっていたのが、「巌部隊司令部壕」です。米軍は、巌部隊司令部を包囲し、猛攻撃を加えます。

巌部隊司令部壕
巌部隊司令部壕


《小禄地区の戦闘は、当初すこぶる悲観的で、一挙に潰滅するのではないかと危ぶまれたが、漸次戦勢を持ち直し、金城、豊美城、七五高地付近の一角でよく健闘し、その戦況報告は日々確実に軍司令部に到達した。しかし衆寡敵するはずもなく、敵の包囲圏は日々圧縮され、「敵はわが(=海軍)司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は11日2330を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」の電報が11日夜遅く、我ら(=陸軍)の手にはいった。長恨限りなく、悲痛極まりなし。》(『沖縄決戦』)

 こうして、6月13日に豊見城の海軍司令部が制圧され、海軍部隊は全滅するのです。

旧海軍司令部壕に残された送信機と受信機
旧海軍司令部壕に残された送信機と受信機

旧海軍司令部壕の幕僚室
旧海軍司令部壕の幕僚室(壁の穴は手榴弾で自決したときの跡)



 陸軍は、首里の洞窟を捨て、南部・糸満市の摩文仁に司令部を移していました。
 米軍の侵攻で、大きな被害が出たのが、いわゆる「ひめゆり学徒隊」です。

 1945年3月、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒(15〜19歳)222名と教師18名の合計240名が「ひめゆり学徒隊」として、南風原(はえばる)の陸軍病院に動員されました。壕(ガマ)で、麻酔なしの手術の補助、汚物の処理、死体の埋葬など、さまざまな看護作業に従事しました。

 しかし、戦況の悪化で、6月上旬、病院は糸満市へ撤退を余儀なくされました。

沖縄陸軍病院第1外科壕跡
沖縄陸軍病院第1外科壕跡


 6月18日、日本軍は突如「学徒隊の解散」を命じたことで、少女たちは砲弾が飛び交う危険な戦場に放り出されることになりました。240名のうち、136名が犠牲となり、その半数以上が軍の解散命令が出された後に亡くなったとされます。

沖縄陸軍病院第3外科壕跡(ひめゆりの塔)
沖縄陸軍病院第3外科壕跡(ひめゆりの塔)



 摩文仁山にいる陸軍第32軍も追い詰められていました。

《摩文仁山頂にも、収容し切れぬ戦友の遺骸が数多くなってゆく。ある日連絡にやってきた砂野が、「連絡者の出入り繁き司令部付近に、戦死者が転がったままでは士気を阻喪する。何故早く処理しないのか?」と憤激の言葉を投げかけた。アメリカ軍は断崖下の海上から、宣伝放送を始めた。流暢な日本語だ。来る日も来る日も執拗に続ける。

「住民諸君!生命は保証する。食糧も薬品も与える。今のうちに、早く港川方面に避難せよ!」

「兵士諸君!諸君は日本軍人の名に背かず実によく戦った。しかし戦いの勝敗はすでに決定した。諸君の任務は終わったのである。これ以上戦闘を続けるのは、無意味である。生命は保証するからすぐ海岸に降りて、我々の舟に泳いで来い」

 敵は海上からのみではない。空中から、砲爆に劣らぬ規模で無数の宣伝ビラを撒布する。いずれの伝単もいわゆる宣伝ビラ式のあくどさがなく、極めて自然に、日本の敗戦必至や、指導者たちの無能、恣意を理解するように記述してある》(『沖縄決戦』)

 そして、6月23日、ついに摩文仁山は陥落。牛島満司令官と長勇参謀長が司令部壕で自決し、沖縄戦は終結しました。

第32軍司令部終焉の地
第32軍司令部終焉の地(糸満市摩文仁)



 戦後、アメリカの軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは、「太平洋戦争中、日本軍で最もよく戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」との言葉を残しています。支援もないまま、洞窟での徹底抗戦が功を奏した形です。しかし、戦死者は日本兵約9万4000人、一般の県民もほぼ同数の約9万4000人が亡くなるという多大な被害を出しました。そして、亡くなった県民のうちおよそ6万人は、第32軍退却後の犠牲とされています。

 6月23日は、現在、沖縄の「慰霊の日」となっています。

国立沖縄戦没者墓苑
国立沖縄戦没者墓苑(糸満市摩文仁)


制作:2026年6月22日

<おまけ1>

 米軍第77師団による伊江島の戦闘は、当初「1日で攻略する」とされましたが、結局は1週間に及び、死傷・行方不明1120となる大激戦となりました。この戦闘で、従軍していた有名な新聞記者アーニー・パイルが亡くなっています。戦後、米軍は皇居お堀端にある宝塚劇場を「アーニー・パイル劇場」と命名して追悼。また、米軍統治時代、那覇にも「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が建設されました。これが、現在の「国際通り」という呼び名につながっています。

<おまけ2>

 1974年3月2日、那覇市小禄で不発弾の爆発事故が起こりました。聖マタイ幼稚園近くの下水道管工事で、重機が旧日本軍の改造地雷に触れて爆発。幼児含む4人が死亡、34人が重軽傷を負う大事故となりました。沖縄戦で使用された爆薬の量は約20万トンとみられ、そのうち1万トンが不発弾として地中に残されたと推定されています。沖縄県は現在も2000トン近い不発弾が埋没されていると推計しています。「沖縄の戦争」は、まだ終わっていないのです。
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