国産ビールの歴史
夜の銀座に輝く「ユニオンビール」のネオンサイン
現在、日本のビールメーカーは、キリン、サッポロ、アサヒ、サントリーの4社のみ(地ビールや沖縄のオリオンビールを除く)。サントリーがビールを発売したのは1963年なので、戦前からのビールメーカーはたった3社ということになります。
今回は日本のビール生産の歴史を公開です。
日本人が初めてビールを飲んだのは、1724年のことでした。『和蘭問答』に、オランダ商館長が持ち込んだビールを幕府役人が飲んで、「味がなくてとってもマズい」と言ったと書かれています。
その100年後、福沢諭吉は『西洋衣食住』(1865)に《又ビイルという酒あり、是は麦酒にて、其味至って苦けれど胸襟を開くに妙なり》と書いています。福沢はビールが好きだったのかな?
一方、国内で初めてビールを醸造したのは、幕末の化学者、川本幸民(1810〜1871)だとされています。
摂津三田藩(兵庫県)の藩医の子として生まれ、江戸で医学と蘭学を研究しました。実は「化学」という言葉を初めて使い、漢字の元素記号を用いて化学反応式を日本に導入した人物。ビールだけではなく、マッチ、銀板写真、電信機などの試作も行っています。
川本の本『化学新書』には醸造方法が正確に記載されていますが、実際に醸造した記録は残っていません。しかしまぁ、この人物が国産ビールの父と言っていいでしょう。
さて、本格的な醸造が始まったのは、明治2年(1869)のことでした。ドイツ人のウィーガント(ヴィーガント)が横浜山手46番にジャパン・ブルワリーを創設。これが日本初のビール醸造所。
翌年、ノルウェー生まれのアメリカ人、コープランドが「スプリング・バレー・ブルワリー」をすぐ近くの天沼に創設。まもなくダンピング競争が始まり、1876年、両社は合併します。
コープランド・ビール(天沼麦酒)のラベル
(明治4、5年頃)
明治18年(1885)、経営難に陥っていたこの会社を、三菱の岩崎弥之助、渋沢栄一、後藤象二郎、グラバーらが共同出資して、新会社「ジャパン・ブルワリー」に衣替え(登記はなんと香港)。これが、現在のキリンビールです。
ちなみに、1888年、ジャパン・ブルワリーが明治屋と独占販売契約を結びます。これがその時の広告。
国会開設の世相を反映して、演説調の広告
(明治23年6月30日の東京日々新聞より)
これ以後、日本人による独自の醸造所が各地にできますが、渋谷庄三郎の渋谷麦酒(大阪、明治5年)、野口正章の三ツ鱗麦酒(甲府、明治6年)が嚆矢とされています。ですが、ともに経営難でまもなく撤退しています。
もともとは綿卸だった渋谷の店
三ツ鱗麦酒のラベル
さて。
サッポロビールとアサヒビールは、実はもともと同じ会社でした。大日本麦酒という会社で、最盛期、市場占有率は約70%という巨大メーカー。戦後の1949年、「過度経済力集中排除法」の適用を受けて、両社に分割されました。
大日本麦酒は、明治39年(1906)、当時の3大メーカーが合併して成立します。それは、日本麦酒、大阪麦酒、札幌麦酒の3社。その後、東京麦酒、日本麦酒鑛泉、櫻麦酒等を合併することで、巨大企業となりました。
ちょっと複雑なので、以下、箇条書き。
●日本麦酒
明治20年東京で設立、「エビスビール」を製造。明治24年、三井物産の馬越恭平が社長に。馬越が後に大日本麦酒の社長になり、「日本のビール王」と呼ばれることに。工場が恵比寿にあり、これが現在のサッポロビール本社に。
●大阪麦酒
明治22年設立、「旭ビール」を製造。社長は後に南海電鉄を作った鳥井駒吉。
ヱビスビールのラベル
大阪麦酒
●東京麦酒
明治10年設立、「東京ビール」を製造。
●日本麦酒鑛泉
明治20年愛知で設立、「ユニオンビール」「三ツ矢サイダー」を製造。旧丸三麦酒。社長は後に東武鉄道を再建した根津嘉一郎。
●櫻麦酒
明治45年、鈴木商店が福岡で設立、「櫻ビール」を製造。旧帝国麦酒。
開拓使麦酒醸造所の開業式(明治9年9月)
さて、一番大事な札幌麦酒が抜けてますな。札幌麦酒の歴史を以下、年表風に書いておくと……。
○明治9年(1876)、北海道開拓使の村橋久成(鹿児島生まれ)が、開拓使麦酒醸造所を建設
○明治15年、開拓使が廃止され、札幌麦酒は農商務省工務局の所管になり、札幌麦酒醸造場と改称
○明治19年、大倉喜八郎の大倉組が払い下げを受ける
○明治21年、大倉と渋沢栄一、浅野総一郎らが札幌麦酒株式会社を設立する
○明治33年、東京本所に吾妻橋工場を設立(これが現在のアサヒビールの本社)
○明治39年、大日本麦酒誕生
札幌麦酒(明治35、36年頃)
かっこいいすね、開拓使ビール。実はこのビールの製造方法が記録に残されています。サッポロビールのサイトにも書かれていないので、本サイトで公開しときます。
冷水を桶に盛って大麦を浸し、朝夕その水を換えること2回、温度はレオミュール(列氏)5度から7度で60〜70時間放冷。
原料の麦は4分から6分の長さの芽を出させ、65度で乾燥させ、適当な大きさに砕く。
砕いた麦芽を、釜煎りと水桶に戻す作業を3〜4回繰り返すと、麦芽のでんぷんが糖分に変わる。
麦の皮などを濾過して取り除き、麦汁をとる。これに葎花(ホップ?)を麦1石に対し350匁加え、2時間30分煮沸。
濾過した麦汁を4度まで冷やし、ヘーフ(イースト?)を麦1石に対し4合加える。24時間で発酵し、5時間で泡がなくなる。これを樽詰めして醸造完了。
本当はもう少し具体的に書かれてますが、まぁいいでしょう。気が向いたら、ぜひとも作ってみてね! ……って違法です(笑)。
制作:2007年2月21日
<おまけ>
日本初のビヤホールは、明治32年(1899)8月、新橋にできました。作ったのは日本麦酒で、当時の広告には次のように書かれています。
《今般欧米の風に倣ひ、8月4日改正条約実施の吉辰をトし、京橋区南金6町5番地(新橋際)に於てビール店BeerHallを開店し常に新鮮なる樽ビールを氷室に貯蔵いたし置、最も高尚優美に一杯売仕候間、大方の諸彦(しょげん)賑々敷(にぎにぎしき)御光来恵比寿ビールの真味を御賞玩あらんことを願ふ。
売値 半リーテル(=リットル) 金10銭
4半リーテル 金5銭》
このビアホールが、現在の銀座ライオンなのですね。
<おまけ2>
大日本麦酒が製造していた三ツ矢サイダーとリボンシトロン。
今では、三ツ矢サイダーがアサヒ飲料、リボンシトロンがサッポロ飲料のブランドです。