「ジャパンレッド」の誕生
日本が誇るベンガラ製造の歴史

六角堂(茨城県五浦)
六角堂(茨城県五浦)



 東京美術学校(現在の東京芸大)の設立に大きく貢献し、のちに「日本美術院」を創設した岡倉天心は、1903年、知り合いの画家に紹介された景勝地・茨城県五浦に惚れ込み、ここに別荘を作ることを決めます。それが、1905年、海に張り出した岸壁に建てられた六角堂です。

 窓ガラスは、天心が滞在したアメリカ・ボストンから運び、小さな瓦は手焼き、柱は五角形、そして、外壁は美しい赤色をしていました。これは、いわゆるベンガラ(弁柄・紅殻)で塗られたものです。

 六角堂は、2011年、東日本大震災の津波にさらわれ、土台を残して消滅してしまいました。2012年には、震災復興のシンボルとして、無事再建されました。このとき、なるべく建設当初の姿に戻すため、ベンガラは岡山県で保存されていた江戸時代の天然ものが使われました。

 ベンガラの名前は、インドのベンガル地方に由来するため、本来は外国のものです。しかし、近年ではベンガラ色を「ジャパンレッド」などと称するようになりました。いったい、この赤色はどのような歴史をたどったのか、今回はベンガラの歴史を振り返ります。

両替商をしていた日下部家住宅(岐阜県高山市)
両替商をしていた日下部家住宅もベンガラ色(岐阜県高山市)



 赤色を染めるには、国内では「紅花」や「茜(あかね)」「漆」、海外では「蘇芳(スオウ)」などが知られています。珍しいところでは、サボテンに寄生する、中南米原産の「エンジムシ」という昆虫から作られるコチニールがあります。口紅のような鮮烈な赤は、ほとんどがコチニールです。

 こうした動植物系の赤は衣服や化粧などに使われますが、建物には金属系の赤が使われました。具体的には、「朱」「丹(に)」「ベンガラ」の3つです。


水銀鉱石(秋田大学鉱業博物館)
水銀鉱石(秋田大学鉱業博物館)



「朱」は硫化水銀(HgS)のことで、中国の辰州(現在の湖南省)で多く産出したので「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれました。日本では縄文・弥生時代から知られ、古墳や石棺の彩色に使われています。古代中国では仙薬とされ、不老長寿のための高い薬となりました。


内側に朱が確認された甕棺(吉野ケ里歴史公園)
内側に朱が確認された甕棺(吉野ケ里歴史公園)



「丹」は四酸化三鉛(Pb3O4)のことで、平安時代の建物や壁画に使われました。ローマ時代から使われ、イタリアのポンペイ遺跡で多くの使用が確認されたため「ポンペイ・レッド」とも言われます。日本で現存するものは少ないですが、絵巻物などにはよく残っています。


平安宮朱雀門前で火事を見る人々(『伴大納言絵巻』)
平安宮朱雀門前で火事を見る人々(『伴大納言絵巻』)



 そして、「ベンガラ」は酸化第二鉄(Fe2O3)で、いわゆる鉄さびからできる染料です。

 べつだん鉄を人工的に錆びさせたわけではなく、たとえば青森県には「赤根沢の赤岩」と呼ばれる巨大な石があり、近くには鉱山跡が残されています。日光東照宮などの赤色の原料は赤根沢産のものだと言われています。


赤根沢の赤岩
赤根沢の赤岩

赤根沢の酸化第二鉄の鉱山跡
赤根沢の酸化第二鉄の鉱山跡



 ベンガラは、スペインのアルタミラ洞窟(1万8500〜1万4000年前)の壁画で使われたことから、「人類最古の赤色顔料」とされます。日本では縄文土器に使われたことが確認されており、高松塚古墳の石室にもベンガラが使われました。さらに防虫・防腐効果があることから平安京の建物で使用され、江戸時代には漆器、輪島塗、九谷焼、さらに山形県のたんすなど、さまざまな分野で使われました。

 参考までに、漆を精製した「透明漆」に、炭やススを混ぜると「黒漆」、ベンガラを混ぜると「朱漆」になります。

漆塗りの木器
漆塗りの木器(井戸尻考古館。右下が黒漆と朱漆)



 ベンガラが使われた建物は日本中にありますが、たとえば金沢市の東山ひがし地区には、ベンガラ色の茶屋建築が並んでいます。飛騨高山でもっとも金持ちだったとされる両替商・日下部家の住宅でも、金庫の部屋はベンガラで塗られています。


茶屋建築(金沢市)
茶屋建築(金沢市)



 有名なところだと、真っ赤な建物で知られる沖縄の首里城です。首里城は、2019年の火災で焼け、復旧中。もともと首里城正殿は15世紀に作られたとされますが、当初は赤色ではなかったされます。しかし、1811年の修理で「ベンガラが足りなかった」と記録されているため、少なくとも19世紀前半には赤い正殿だったとわかります。

 では、このベンガラは、いったいどこで取れたものなのか。これは、名護市久志(くし)の山あいにある「カイミジ」と呼ぶ赤い水だとされています。鉄分を含む水中で生きる鉄バクテリアが生み出したもので、ここから作られたベンガラが、正殿で使われます。


焼失前の首里城(2010年)
焼失前の首里城(2010年)



 赤い水というのが、いまいちわかりづらいですが、大分県別府市にある「血の池地獄」がその巨大なものです。池の水が赤いのは、酸化鉄などの成分を含む赤い泥が噴出するからです。ちなみに、赤の濃さは、酸化鉄の「赤鉄鉱」と黄色い「鉄明礬石(ジャロサイト)」の混ざり合う比率で決まります。

 奈良時代初期(713年)に編纂された『豊後国風土記』の「速見の郡」の条には、「赤湯の泉」として、

《郡の役所の西北、竈門(かまど)山に湯泉の穴がある。周囲は15丈あまりで、湯の色は赤くて泥がある。これを使って家屋の柱を塗るのにちょうどいい》

 とあり、これが「血の池地獄」に比定されています。

「血の池地獄」(別府市)
「血の池地獄」(別府市)



 貴重だったベンガラが一気に普及したのは18世紀前半のことです。岡山県高梁市の吹屋(ふきや)で、初めて大量生産に成功したのです。

 吹屋には、日本3大銅山の1つとも言われた吉岡銅山がありました。鉱山の発見は807年とされますが、奈良の大仏(752年開眼)建造にここの銅が使われたとも言われ、実際の操業はもっと早かったとする人もいます。

 銅山では、銅鉱石だけでなく磁硫化鉄(硫黄の含まれた鉄)も取れますが、もともとは捨て石でした。しかし、1707年、これを使って高純度のベンガラができることを発見したのです。1751年、庄屋だった西江家が新たな銅山を開坑し、原料の大量採掘に成功しました。


ベンガラの原料が採掘された笹畝坑道
ベンガラの原料が採掘された笹畝(ささうね)坑道



 具体的にはどうやって作るのか。吹屋では明治時代のベンガラ工場が復元され、「ベンガラ館」として整備されています。簡単に言うと、磁硫化鉄を中間生成物のローハ(緑礬=硫酸鉄)に変え、これを焼いて酸化させるのです。『大日本物産図会』によれば、ローハを作るには、《礬石を釜に入れて、その泡を取って乾かす》とあります。


ローハ(緑礬)の製造(『大日本物産図会』)
ローハ(緑礬)の製造(『大日本物産図会』)



(1)採掘してきた磁硫化鉄を5〜6センチの大きさに砕き、およそ1カ月焼き続ける。これにより、石に含まれている硫黄が焼失する
(2)硫黄がなくなった「焼鉱」を溶解槽で水と混ぜ、不純物を沈殿させる。上澄み液を煮て濃縮させ、冷却結晶したものがローハ。鉱石100貫匁(375kg)につき薪88貫匁(330kg)を要し、ローハ30貫匁(112.5kg)を得られた
(3)ローハを200枚の素焼きの皿「ホーロク」に少しずつ入れ、松の薪で700度の火力で1日か2日焼き続ける。すると鉄は酸化して赤褐色になる。これを「焼き」という
(4)次に水洗式の碾臼(ひきうす)で大小を分け、それぞれを石臼で粉にする

碾臼(「ベンガラ館」)
碾臼(「ベンガラ館」)



(5)できた粉は酸性分が強いので、水と混ぜて酸を抜く(「あく抜き」ともいう)。ベンガラと水は混ざらないので、水と混ぜたベンガラは時間がたつと沈澱。硫酸分を含んだ「うわ水」を数十回から100回ほど捨てる作業を繰り返す
(6)硫酸分のなくなった泥状のベンガラを干棚に並べて天日で乾かす
(7)乾燥したベンガラを「たたき箱」のなかに落とし、「トンコ」にかけて粒子を整え、製品の「吹屋弁柄」が完成

ローハ、焼き、ベンガラ
左からローハ、焼き、ベンガラ(「ベンガラ館」)



 なお、『大日本物産図会』によれば、上等のローハを「紺手(こんで)」と呼んで薬用とし、下等品を「浅黄手(あさぎて)」と呼んで染料にしたといいます。一方、『和漢三才図会』では深緑のものを「紺手」とし、赤を帯びたものを「未醤手(みそで)」としていますが、明礬(みょうばん)を染めた偽物に比べればマシで、やはり染料や彫金に使うとしています。
 
 吹屋の高品質なベンガラは、伊万里焼や九谷焼、京焼などの赤色顔料として評判を呼びました。
 
 17世紀の前半、日本で初めてベンガラによる赤絵磁器の製作に成功したのが、酒井田柿右衛門です。柿右衛門の赤は有田焼に革命を起こし、17世紀後半には東インド会社を通じて世界に輸出されました。これを見たヨーロッパの貴族が驚愕し、「ジャパンレッド」と称賛しました。また、伊万里焼はドイツのマイセンが手本としています。


ベンガラが使われた九谷焼
ベンガラが使われた九谷焼(「ベンガラ館」)



 吹屋のベンガラは、広兼家・谷本家・西江家の御三家が独占販売権を握っていました。広兼家は小泉銅山の経営権も持っており、その邸宅は、映画『八ツ墓村』のロケに2度使われたほど豪壮なものです。

 しかし、吹屋のベンガラは、昭和に入ると、化学肥料の生産時にできる安価な硫酸鉄の普及により、経営的に厳しくなりました。亜硫酸ガスの煙害被害もあり、1972年に銅山が閉鎖、1974年最後にベンガラ製造は終了しました。

 豪商が権勢を誇った吹屋の町並みは約300メートルつづき、ジャパンレッドの屋根が並ぶ美しいエリアとなっています。1977年には、国の重要伝統的建造物群に指定され、2020年には「『ジャパンレッド』発祥の地」として、日本遺産にも登録されました。また、西江邸は有形文化財、旧片山家住宅は重要文化財に指定されています。

 西江家の蔵には、江戸時代に製造された天然ベンガラとともに、最高品質のローハが大量に保管されていました。2011年、津波にさらわれた六角堂を再建するとき、このローハが送られ、再建に役立ったのです。


旧片山家住宅
旧片山家住宅(重要文化財)


制作:2026年1月1日

<おまけ>

 807年に開山された吹屋の吉岡銅山は、1681年、大阪の豪商泉屋(住友財閥の祖)が経営に参画します。しかし、住友は別子銅山(愛媛県新居浜市)の開山もあり、1716年に撤退。その後、1873年には、三菱商会(三菱財閥)が、初めての鉱山事業として本格的な経営に乗り出します。

 三菱は、地下水を抜くための「第三通洞坑」を開削し、製錬所や発電所、輸送用の専用軌道まで建造しました。しかし、製錬所からの亜硫酸ガスの煙害被害が大きく、1897年には最初の鉱毒裁判が起こされます。

 金融恐慌などの影響で、三菱は1931年に吉岡銅山の操業を中止。その後、地元企業として吉岡鉱業を設立し、再び銅の採掘を開始しますが、1972年、ついに閉山となりました。

 吉岡鉱業が設立された1950年は、朝鮮戦争の特需で需要が大きく伸びました。銅産出量は1960年頃のピーク時には約200トンに上ったとされますが、閉山時は17トン程度だったと記録されています。

現役最古の木造校舎で知られる吹屋小学校(旧鉱山本部)
現役最古の木造校舎で知られる吹屋小学校(旧鉱山本部)
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