日本横断運河
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幻の「琵琶湖運河」計画
日本海と太平洋を水路で結べ
琵琶湖と敦賀を結ぶ運河計画
(愛発舟川の里展示室「敦賀・琵琶湖運河隧道穴口施設等計画図」)
2019年、琵琶湖の北端にある遺跡から、12世紀の将棋の駒「王将」が発見されました。平安時代の貴重な出土品です。この遺跡はかつて「塩津港」と呼ばれた、琵琶湖水運を支えたもっとも重要な港のひとつです。日本海沿岸で捕れた海産物、塩、コメなどは船で敦賀に集められ、そこから陸路で塩津へ、さらに琵琶湖経由で京都・大阪に運ばれました。特に有名なのが小浜のサバで、かつては若狭湾と京都を結ぶ「サバ街道」がいくつも走っていました。
刺し身OKの酔っぱらいサバ。奥が寿司のルーツとされるなれずし
塩津の名前は都でも有名で、万葉集には《高島の阿渡(あど)の水門(みなと)を漕ぎ過ぎて 塩津菅浦(すがうら) 今か漕ぐらむ》という船客の歌が載っています。
また、996年ごろ、紫式部は、父の武生(福井県)赴任に同行した際、この港を通っています。塩津から敦賀に向かう山道は、塩津山と呼ばれた難所です。一行はカゴに乗って通過しますが、担ぎ手が「塩津山の名前のとおり、カラい(酷な)道だな」とぼやいたのを聞いて、紫式部はこんな歌を詠みました。
《知りぬらむ 往き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものぞと》(紫式部集)
「馬がつまづく」(万葉集)といわれた塩津山は、現在は「深坂峠」と呼ばれますが、深坂トンネルができるまで、長らく難所のままでした。この峠さえなければ、京都への物流は飛躍的に向上します。距離はわずか20km弱。船を両岸から縄で引っ張れば笙の川、五位川をさかのぼれるので、実際の掘削距離はさらに少なくて済みます。
こうして、ここに運河を掘ろうといういくつものプロジェクトが誕生しました。今回は、この幻の運河をめぐる物語です。
新幹線工事が進む敦賀港
運河造成を最初に考えた人物は、平清盛とされます。1166年頃、息子・重盛に運河を引くよう命じますが、工事の途中、峠で大きな岩に行く手をはばまれます。岩は地蔵さまで、これを破壊するわけにはいかず、重盛は工事を中止するのです。1580年代には、豊臣秀吉も、蜂屋頼隆や大谷吉継に運河開削を命じたといわれます。
敦賀市にある「愛発舟川の里展示室」の展示によれば、江戸時代には以下のような計画があったとされます。
○1669年 京都の田中四郎左衛門が請願するも地元の反対で却下
○1670年 田中四郎左衛門、再請願するも却下
○1696年 田中四郎左衛門らの申請が認可されるも、地元の反対で中止
○1720年 京都の幸阿弥伊予らが請願するも却下
○1785年 幕府が検分するも実現せず
○1811年 大浦・山中の問屋が請願するも地元の反対で中止
琵琶湖と敦賀の間にある峠のイメージ
この間、1672年には河村瑞賢が北前船の西廻り航路を確立し、琵琶湖水運の需要は減っています。さらに未熟な土木技術や地元の反対で、いずれも計画倒れに終わりました。しかし、1815年、小浜藩と幕府が検分し、翌年、ついに工事が始まるのです。それが「疋田舟川」で、現在も一部が残っています。
疋田舟川
敦賀市南東部に位置する「愛発(あらち)」地区は、奈良時代に古代3関の1つ「愛発関」があった場所で、交通の要衝として知られています。かつて、敦賀から琵琶湖へ行く道はこのあたりで2つに分かれました。1つは山中峠越えで、現在の国道161号に近いルート。もうひとつは新道野越えで、現在の国道8号に相当します。街道筋には、馬を使って物資を運ぶ「馬借(ばしゃく)」が多くいました。
1816年に完成した「疋田舟川」は全長約6.5km、川幅は2.7mあり、当時は小舟が行き来できました。運河をさかのぼるときに船が滑りやすいよう、水底には胴木という丸太が敷かれました。運河が終わる疋田からは牛や馬に荷物を積んで琵琶湖まで運びました。この水路のおかげで、敦賀経由の米の輸送量は70倍になったと伝えられます。
敦賀港(1904年ごろ)
1834年、水路は廃止されますが、幕末になって、大きな問題が起きました。外国船が出没するようになったため、西廻り航路に頼っていたコメの輸送を、再び敦賀〜琵琶湖の輸送に変えようという機運が出てくるのです。こうして1857年、水路は復活しますが、1866年の集中豪雨で壊滅してしまいます。
水路が壊滅してまもなく、小沢一仙は、琵琶湖運河計画「江湖堀割(こうこほりわり)」を発案します。一仙は、1830年、宮大工の父のもと、伊豆半島の松崎で生まれ、彫刻師になりました。その後の1857年、「無難車船」の設計に乗り出します。
無難車船を浮かべたとされる海岸(松崎)
当時、コメなどを運ぶ船は波の荒い遠州灘を進むのが困難でしたが、7隻を連結し、しかも波の上下動をエネルギーに変える水車式の波浪推進船を開発したのです。さらに、外国船から攻撃を受けても沈まない工夫もされていました。残念ながら無難車船は失敗に終わりますが、江湖堀割は加賀藩に正式に採用されることになります。
実は、1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4カ国による下関砲撃事件が起きたことで、北前船の西廻り航路は事実上、使えなくなっていました。そこで、加賀藩は琵琶湖運河の掘削を本気で考え、一仙のアイデアを「糧道御開」として採用したのです。2年後に幕府の許可を得て、工事が始まります。
測量は、石黒信基と北本半兵衛が担当。83人の測量隊が全6ルートを測量し、非常に正確な測量図が完成しました。しかし、廃藩置県により、計画は中断してしまいます。
「敦賀より琵琶湖北岸迄道筋・舟川略図」(愛発舟川の里展示室)
明治以降も、運河計画は登場しては消え、登場しては消え、を繰り返します。
1923年には、陸軍憲兵大尉だった吉田幸三郎が、大阪〜淀川〜琵琶湖〜塩津〜敦賀の「阪敦運河」開鑿計画を発表。
運河断面図(国会図書館『阪敦運河開鑿計画案』)
1933年には、インクラインを使って琵琶湖疎水を引き、京都に電灯を灯した田辺朔朗が、「琵琶湖運河及日満運輸連絡問題」を発表します。インクラインとは、日本語では「傾斜鉄道」となりますが、要は、船を台車に乗せて運ぶ仕組みです。
琵琶湖疏水のインクライン
田辺は、実際に疎水を引いた実績があるだけに、冒頭から非常に明確に運河の内容を記しています。
《本計画は米国ウェランド運河の如く、1万トン級の船を敦賀湾から大阪湾に通ずるものであって、敦賀・塩津間20キロの間に閘門6カ所、85メートル上りて湖水に出で、湖水の航路65キロを経て、瀬田・宇治間20キロを閘門5カ所で下り、宇治・大阪間50キロの間に閘門3カ所を設くるものであるが、(中略)さらに桂川を旧神崎川に合流せしめ、また木津川を牧方付近から南へ分流し大和川のところで大阪湾に注がしめ、現淀川敷を廃川地帯として、そのなかへ大運河を置き、大阪東部において偉大なる理想的工場地帯を得ることとなり》(『土木学会誌』第19巻12号/1933年12月)
しかし、これだけでは、当初の目的だった満州との距離を縮められるわけではありません。そこで、谷口嘉六と宮部義男が提示したのが、「艀(はしけ)鉄道」でした。敦賀沖で物資を艀(=小舟)に積み替え、その小舟ごと台車に乗せ、インクラインで山を越え、貨物列車として塩津港まで貨物列車として移動するのです。
艀鉄道(『日本海と大阪湾とを結ぶ水運の連絡』1935年)
艀鉄道の横断面と縦断面(同)
戦後の日本では、1962年の「日本横断運河」計画が特筆すべきものです。これは、揖斐川を利用して敦賀湾と伊勢湾(三重県桑名市)の間に3万トン級の船を通す計画で、全長約108km。岐阜県出身の大野伴睦・自民党副総裁(当時)が推進し、翌年には政府予算もつきますが、大野の死去やモータリゼーションにより尻すぼみに。
なお、揖斐川は河口で長良川と合流しますが、現在、長良川には河口堰ができています。
長良川河口堰
1993年には、作家の小松左京を代表にした河川懇談会(近畿地方建設局)が、「近畿の風土に根ざした河川の今後の展望」として運河を提案。2016年には、自民党福井県連が「本州横断運河」の再検討を始めています。しかし、現実的には、運河が開かれる可能性は極めて低いと思われます。
平清盛が命令した運河の開削は、地中から出てきたお地蔵さんによって中止を余儀なくされました。その地蔵は、深坂峠に現在も「堀止地蔵」として祀られています。京都の医師・橘南谿が書いた紀行文『東遊記』(1795年)によれば、地蔵堂には工事を中止した重盛の言葉として「後世、必ず湖水を北海へ切り落とそうとする者が出るだろうが、人力の及ぶことではない」という言葉が書かれていました。重盛の予言どおり、敦賀と琵琶湖を結ぶ運河は、ついに実現することはなかったのです。
琵琶湖運河平面図(同)
制作:2020年12月10日
<おまけ>
「江湖堀割」を発案した小沢一仙は、大政奉還後、新政府側について、官軍鎮撫隊(高松隊)を結成。京都から、幕府が反撃の要と考えていた甲府に進軍し、その途上、各藩を恭順させていきます。しかし、実際には新政府軍の了解がなかったことから、偽勅使とされ、甲府で斬首となりました。小沢は年貢半減を約束して人心を掌握しましたが、明治政府にとってこの布告が邪魔だったため、小沢を切り捨てたと言われます。小沢の墓は山梨県にありますが、故郷・松崎には供養碑が立てられています。