箱庭の歴史
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驚異のジオラマ「盆景」とは?
あるいは「世界」を再現するためのルール
盆景「海辺巌」
今から1400年前の話。
西暦612年(推古20年)、百済から渡来した男が帰化しました。この男は全身に白いまだら模様があり、人々は気持ち悪がって、どこかの孤島にでも流してやれと相談しました。
慌てた男は「自分にはちょっとした能力がある。小さな場所に自然の風景を写す才能は誰にも負けない。島に流さず、使ってくれれば、国の利益になる」と言いました。
そこで、試しに作らせてみると、男はあっという間に「世界の中央」である「須弥山(しゅみせん)」と中国風の呉橋を御所に作り上げたのです。
人々はその才能に驚き、この人物を「路子工(みちのこたくみ)」や「芝耆麻呂(しきまろ)」などと呼びました。
日本書紀に書かれたこの逸話が、作庭について書かれた最初の記録です。
ちなみに蘇我入鹿は、自宅に島を浮かべた池があったので、「嶋大臣」と呼ばれました。もしかしたら、この島も路子工が作ったのかもしれません。 路子工は、 その後、山梨県の猿橋など多くの橋を造ったと伝説に残されています。
日本書紀では、続く657年(斎明3年)にも、漂着した男女が、やはり須弥山の像を飛鳥寺の西に作って盂蘭盆会(うらぼんえ=先祖供養)を開いたと記録されています。
2つの須弥山がどれくらいの大きさかわかりませんが、どちらも日本の庭園の最初期の記録です。
古代、庭は神仏に捧げるものと考えられていました。神や仏が作ったこの世界を、縮景として再現したものだからです。こうした神を祀る場所を斎庭(ゆにわ)と言い、以後、大規模な庭園が次々と造られていきます。
とはいえ、金持ちならいくらでも広大な庭が作れましたが、一般人にはとても無理な話。そこで、普通の人は庭を小さくし、箱庭的なものを作っていくのです。こうした箱庭の画像はほとんど記録に残されていませんが、その最初の絵が、鎌倉時代、1309年頃に制作された「春日権現験記絵」に残されています。
「春日権現験記絵」に描かれた日本最古の盆景
1620年(元和6年)、桂離宮を造営するにあたり、桂宮は庭師にこれから造る庭園の見本を作らせました。これが箱庭の誕生と言われますが、「箱庭的なもの」は、はるか昔からあったことがわかります。
箱庭は、江戸時代の中期以降、園芸趣味の一分野として庶民に広がっていきました。そして、マニアック気質の日本人は、「箱庭趣味」をひたすら先鋭化し、ついに世界に冠たる「盆景」を作り出すのです。盆景は、この「世界」そのものを小さなお盆の上に再現するのが目的でした。
盆景は、簡単に言えば、精緻な箱庭のことです。
石をお盆の中心に置き、少し砂をまいたものを「盆石」といいました。これは、変わった形の石をめでる文人趣味です。石を山に見立て水を配したものを「盆山」といい、それをさらに進化させると「盆景」「盆庭」と呼ばれます。ただし、明確な区別はありません。
では盆景は「盆栽」とどう違うのか。盆栽は純粋に園芸的なもので、盆栽に世界の再現という野望は含まれていません。繰り返しますが、盆景は「世界そのもの」を再現する高度な遊びで、箱庭とは似て非なるもの。そして、その目的のために厳格なルールが決められていたのです。
今回は、盆景が作り上げた、「風景をそのまま再現するためのルール」の全貌を公開します!
盆景を作る女(『函庭盆石図編 : 雅景築造』、国会図書館のサイトより)
盆景の創始者は、諸説ありますが、公卿(中納言)の竹屋光昭とされています。竹屋は、幕末に「住吉の浦」と「舞子の浜」の風致を合わせた景色をお盆の上に作り上げました。
その後、1887年(明治20年)ごろ、和泉智川という人物が、使う土を赤土から化土(ケト)という弾力性のあるものに変えました。これで造形が簡単になり、庶民にまで広がっていくのです。
それぞれが竹屋流、和泉流となり、相阿弥流で少し変更が生じ、以後、細川流、清原流、温故流、岳水流、雅風会……など膨大すぎる流派が生まれていきました。秘伝はその配置法にあります。重要なのは、遠近感をいかに出すかでした。
まず、盆景の中心となるのは山か岩ですが、これは「天地人」を基本にして、常に三角形の構図で考えます。樹木の形も三角形で考えましょう。
構図は三角形が基本(『盆景秘訣図解』より)
山の高さは、盆の幅を正三角形の一辺とし、頂点を越えてはいけません。平らな場所にあるものは、頂点の3分の1ほどを上限の目安にします。
高さの基準
風景の配置で最も有名な秘伝が「真(しん)の法」「行(ぎょう)の法」「草(そう)の法」です。これは、お盆を遠景、中景、近景の3分割で考えるもの。
「真の法」:遠景、中景、前景の3景すべてがあるもの
「行の法」:遠景と前景、遠景と中景、中景と前景いずれかの組み合わせ(2景あるもの)
「草の法」:遠景、中景、近景のうち、1景しかないもの
「真の法」の正調は、前景の比率が5、遠景、中景それぞれが2.5ずつ。
もし前景をメインにする場合、前:中:遠は6:2:2の比率。中景がメインの場合は3.5:4.5:2、遠景がメインの場合は3.5:2.5:4でなければなりません。
「真の法」の正調
こうして全体をイメージしたら、秘伝の下絵に基づいて、いよいよ制作に移ります。
たとえば富士山を作る場合、原野と富士山という構成もありますが、通常、山には水を組み合わせます。つまり、富士五湖か駿河湾を選ぶことになります。
七里ヶ浜から見た富士山(左上の下絵が秘伝)
水面には波を描かなくてはならないので、右手で描くことを考えると、初心者は奥に富士山、奥から手前左に裾野、右手に水面となります。上の富士山は左手に水があるので、若干レベルが上です。
重要なのは、独立峰の富士山にも丘陵地がある点。山は水面からいきなり山になるわけではありません。
位置が決まれば、あとは黒いケト土を重ねていき、ヘラで角度を調整し、山ひだを作っていきます。
色彩は、白は白い粘土の粉末や石灰、黄色は砥の粉(とのこ)、茶色は根岸土の粉末、青は人工的に染めた砂を敷き詰めて表現します。かつては色彩を得るために珊瑚や貝殻、瑪瑙(めのう)の粉末などを使いましたが、現在ではほとんど人工の色砂や苔が使われています。
山や岩を作り、砂で色を付け、筆で染色し、最後に人工物を置いて完成です。
盆景の作り方
この人工物は、田舎家、橋、水門、灯台、船、動物などで、現在はアンチモニー、陶器、木、プラスチックでできています。明治時代には勝部真太(かつべんた)兄弟の小道具が有名だったそうで、最も高価な小道具はカニでした。
ちなみに下は、初心者向けで一番有名なお題「磯の帰帆」です。上が見本、下が完成です。
盆景「磯の帰帆」(真横から見てるのでわかりにくいですが、中央に海峡があります)
さて、自然を造形する上で、それらしく見せるさまざまなテクニックがありました。以下、「盆景の作り方」(小山潭水、日本盆景協会、1925)から箇条書きで引用してみます。
1 真っ直ぐな川や、真横に流れる川を作っても興がない
2 川には必ず源がある。その源が明らかでないと、川として見ることができない
3 山には必ず地勢があるもので、平地に突起するものではない
4 低い遠山はまだしも、普通の遠山は、必ず一方に気脈があるように作るべき
5 同じ形をした山や島、岩石を作ってはいけない
6 点石は1個や3個など奇数がいい。いかに小さくても同じ形にしないように注意する
7 川は2筋並んで流れることはない。まして交叉することはない
8 道も2筋以上併行させるもの、真っ直ぐなもの、真横のものは禁止する
9 道路、河川等は手前に来るほど広く、奥に行くほど狭くなる。遠近のないものは雅致(風流さ)を損なう
10 島、岬、家屋、船舶などの小道具は、いずれも手前が大きく、奥にいくに従って小さくする
11 樹木は、近景には葉が大きく丈の高いものを植え、遠景にいくほど小さいものを植える。同じ大きさのものが並んでは面白味に欠ける
12 海には必ず波がなくてはならない。湖は場合によっては波がなくてもいいが、少しの波で多く見えるように描かなければならない
非常に具体的なテクニックで、初心者にはわかりやすいアドバイスですな。
このお題は「東海道五十三次・品川」
しかし、上級者となると、制作のルールは哲学的な方向に発展します。たとえば、春の山は「笑うように」作る必要があるんですね。「山笑う」は実際、春の季語になっています。これは、郭熙の画論『臥遊録』が元ネタ。全文書いておくと、
春の山は淡冶にして笑うが如く
夏の山は蒼翠にして滴るが如く
秋の山は明浄にして粧うが如く
冬の山は惨淡として眠るが如く
四季の山はこのように表現しなければならないのです。ほかに、
●四季の川
春の川は水多く
夏の川は水涸れ
秋の川は水澄み
冬の川は水凍る
●四季の野
春の野は青葉萌ゆるが如く
夏の野は緑濃かに
秋の野は満目瀟條とし
冬の野は白雪皚々たり
●四季の滝
春の滝は水多くして穏やかに
夏の滝は水薄くして清く
秋の滝は水肥えて荒く
冬の滝は水枯れて寒し
●四季の川
春の川は屈曲多く深く長く
夏の川は浅く白く
秋の川は広く遠く
冬の川は細く少なく作るべし
など、多くのルールが存在しました。
盆景は、その後、吊盆景、立盆景、額盆景……とさまざまな発展形を生みます。
左が覗き盆景、右が吊り盆景
驚異の作品「神峯飛瀑」
すごいのは、盆景のテーマが東海道五十三次から、ついには人骨が登場する「野ざらし」なんてのにも発展することです。
人骨に驚く作品「のざらし」
盆景は、展示会や販売会も頻繁に行われ、昭和初期まで、庶民の趣味として大きな人気を集めました。
作品は天然素材を使っているので、1週間くらいしか持ちません。しかし、それが室内に飾るにはちょうどよかったのでしょう。永井荷風は、盆景がある風景こそ、東京の夏であると書いています。
《東京と云ふ町の生活を最も美しくさせるものは夏であらう。一帯に熱帯風な日本の生活が、最も活々として心持よく、決して他人種の生活には見られぬ特徴を示すのは、夏の夕だと自分は信じてみる。蟲籠(むしかご)、絵団扇(えうちわ)、蚊帳(かや)、青簾(あおすだれ)、風鈴、葭簀(よしず)、燈籠、盆景のやうな洒々たる器物や装飾品が、何処の国に見られよう。平素は余りに淡泊で、色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、却ってそのために一種云ふべからざる明るい快感を起させる。》(永井荷風「夏の町」)
日本人は「軽薄短小」、つまり「より軽く・より薄く・より短く・より小さく」を志向するといいますが、盆景はそうした考えに最も向いていたんでしょうね。
制作:2013年3月18日
<おまけ>
鉄道唱歌を作詞した大和田建樹に「箱庭」という詞があります。
一 来てみよ君もわが箱庭を
金魚のひれに波たつ海を
二 帆かけて浮けし附木(つけぎ)の舟を
むかひの岸に吹け吹け風よ
一方、萩原朔太郎には「盆景」という詩があります。
春夏すぎて手は琥珀、
瞳(め)は水盤にぬれ、
石はらんすゐ、
いちいちに愁ひをくんず、
みよ山水のふかまに、
ほそき瀧ながれ、
瀧ながれ、
ひややかに魚介はしづむ。
やっぱり、箱庭より盆景の方が神秘的な感じがしますね(笑)。