「宇部興産」専用道
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セメント製造の始まり
ナンバープレート641のトレーラーが爆走……ここはどこ?
幕末の1853年、寄港中のロシアのプチャーチンが、長崎奉行所の馬場五郎左衛門を旗艦パルラダ号に招待しました。なんでも「映画」とやらを見せてくれるというのです。
植物や動物の生態、風景の映像が流れた後、ロシアの海防砲台の紹介が始まりました。砲台は四方に設けられており、上中下の三段構え。いわゆる十字撃ちによって、湾内に侵入してきた敵の艦船を両方から撃破する……。
興奮した馬場は、次のような証言を残しています。
「どうやって砲台を作ったのかと聞いたところ、石は使っておらず、山の砂と漆喰(しっくい)で作っているのだという。天然の盤石に匹敵する固さがあり、どんな砲撃にも耐えられる。これは秦の始皇帝が作った万里の長城と同じ方法だそうだ」
漆喰は、石灰が二酸化炭素を吸収しながら固まったもので、同じ石灰からできたセメント(コンクリート)とはまったく固さが異なります。しかし、当時は、まだまともなコンクリートは作れませんでした。
ちなみに、この50年後に起きた日露戦争で、日本はコンクリで固められた旅順砲台の堅牢さに悩まされることになるのですが、それはまた別の話。
実際に日本で初めてセメントが使用されたのは、1861年、幕府が長崎製鉄所を建造した際、オランダ海軍士官ハルデスの指導で煉瓦の接着に使ったときだとされています。
その後、横須賀造船所、野島崎灯台、城ヶ島灯台などで輸入セメントが使われました。この横須賀造船所に使われたセメントが高価だったため、明治政府内でセメント国産化の気運が高まります。
長崎製鉄所
発案したのは大蔵省で、土木寮の所管の下で摂綿篤(セメント)製造所を設立。すぐに工部省製作寮に移管され、官営セメント工場となりますが、まったく実用化できません。
結局、責任者の宇都宮三郎がヨーロッパで学んだ技術をもとに工場を造り直し、1875年(明治8年)、深川セメント製造所が完成しました。
当時、輸入セメントは1樽7円50銭しましたが、国産は1樽4円ほどで払い下げたので、生産量は大きく伸びました。
このセメント工場が後に浅野総一郎に払い下げられ、浅野セメントとなっています。
浅野セメント
セメントの製造方法は比較的単純です。
ざっくり2つあって、製鉄でできるクズから作る「高炉セメント」と、石灰と粘土をおよそ7:3で混ぜて石炭で焼いた「ポルトランドセメント」があります。後者がいわゆるセメントのことです。
ちなみに、セメントとは「固める、結合する」という意味のラテン語から来ています。
石灰と粘土を混ぜ、回転窯で焼いてクリンカーを生成。粉砕するとセメントに
(浅野セメント川崎工場、1939年)
民間初のセメント工場は、1881年(明治14年)、笠井順八が山口県小野田で設立したセメント製造会社(後の「小野田セメント」)です。
山口県は秋芳洞があることからわかるとおり、石灰石の宝庫です。さらに石炭、粘土も豊富で、輸送にも便利。
1923年(大正12年)には、沖ノ山炭鉱から派生した「宇部セメント」が、渡辺祐策らによって設立されています。
小野田セメント
宇部セメント
小野田セメントは、後に日本セメント(浅野セメント)、秩父セメントなどと合併して太平洋セメントになりました。宇部セメントは三菱セメントと合併し、宇部興産の傘下にあります。これに住友大阪セメントの大手3社で、国内シェア8割を占めています。
さて、今回、宇部興産のセメント製造の見学をしてきたので、写真を公開しておきます。
宇部興産の石灰石鉱山
まず石灰岩の巨大鉱山に行ってみました。
手前にある90トン積めるダンプトラックは長さ10m、幅7m、高さ5m。タイヤの直径は2.7mあるので、ものすごく大きいことがわかりますな。
で、奥の階段状の鉱山はどれだけデカいのか?
左からダンプトラック、ホイールローダー
右上が爆破用の穿孔機
デカすぎる……。
そして、ここで採掘した石灰石を、裏手の伊佐セメント工場で粉砕し、粘土、剥岩、硅石、鉄などと混ぜ、ぐるぐる回るロータリーキルン(回転窯)を使って1450度で焼成し、クリンカーを作ります(事実上、製造方法は100年前と変わっていません)。
ぐるぐる回るロータリーキルン。長さ100m以上
内部には耐火レンガが敷き詰められています
続いて、クリンカーを粉砕し、宇部のセメント工場まで運びます。
宇部興産がすごいのは、自社で全長32kmに及ぶ日本最長の私道を持っているところ。この専用道路を、80トン積みのダブルストレーラーが疾走してるのです。
長さ30m弱のダブルストレーラー。私道なのでナンバープレートは不要
インパネも複雑
驚異の16段変速
宇部工場では、クリンカーに石膏(硫酸カルシウム)を加え、粉砕することでセメントを作ります。クリンカーを運んだトレーラーは、宇部から燃料の石炭などを積んで、再び伊佐まで戻るのです。
なお、セメントに砂と水を混ぜると「モルタル」に、セメントに砂利と水を混ぜるとコンクリートになります。
漆喰は空気乾燥ですが、セメントは水との化学反応(水和反応)で固くなるため、固さに違いが出るんですね。
専用道路は宇部鉱山本社からスタート。奥には専用港も
専用道にかかる日本最大のトラス橋「興産大橋」も自前で建造
日本のセメント生産量は、日清・日露戦争を通じて増加していきますが、とくに関東大震災(1923年)の復興で、
舗装
をはじめ大量に使用されました。
作家の永井荷風は、セメントによって町の風景が大きく変貌していく様子を、こう嘆いています。
《震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。
まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉(ことごと)く焼き払われた後、崖も亦(また)その麓をめぐる道路の取(り)ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までとは全く異るようになった。
池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦(また)柳の並木の一株も残らず燬(や)かれてしまった後、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。この溝渠には曾(かつ)て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条(いくすじ)もかけられていたのであるが、それ等(ら)旧時の光景は今はわずかに小林清親の風景板画に於てのみ之(これ)を見るものとなった》(『上野』)
↓
上野公園入口(1912年頃→震災後はコンクリで固まった)
コンクリートが日本の建物を頑丈にしたのは事実です。
しかし、関東大震災以降、「江戸の風景」はすべてコンクリのなかに消えてしまったのでした。
制作:2015年9月21日
<おまけ>
セメント製造は、煙突から出る降灰が近隣の町を汚染し、大きな社会問題となってきました。実際、深川の浅野セメントでも、製造量が増えるとともに、大量のセメント粉末がまき散らされ、住民に甚大な被害を与えるようになりました(浅野セメント降灰事件)。
ところが、現在は煙突から汚染物質はいっさい出ていません。むしろ、セメントの焼成温度が高いため、汚泥や木くず、廃タイヤなどの産業廃棄物を燃焼させることが可能で、意外にも環境保全やリサイクルに貢献しているんですね。