青紙が来た
「徴用」と「接収」の敗戦史

飛行機工場
東京・雑司ヶ谷にあった「町の飛行機工場」男100名、女200名が挺身


 作家・太宰治のもとに「徴用令状」が届いたのは、真珠湾攻撃直前の昭和16年(1941)11月中旬のことでした。
「徴用」とは兵隊にとられる「徴兵」ではなく、銃後で工場労働などを課すこと。これは日中戦争勃発後の昭和13年(1938)4月1日に公布された「国家総動員法」からきた制度で、翌年の「国民徴用令」で確立したものです。
 徴兵令状は「赤紙」、徴用令状は「青紙」と呼ばれました。

赤紙
本物が手元にないので、文書見本です


 太宰が指定された日に本郷区役所へ出向くと、仲人の井伏鱒二や石坂洋次郎、海音寺潮五郎、高見順などそうそうたる作家たちが並んでいました。要は人手がないので文士も強制労働せよ、という話です。

《「胸部疾患の既往症があるか」
 軍医が訊いた。
「あります」
 太宰の扁平な広い胸にかたちばかり聴診器をあてると、事務的に「肺浸潤」と用紙に書き込んだ。合格者は5日後に芝増上寺に集合、日本刀と夏服を用意せよ、などの指示が出たことを太宰は知らない。後で井伏から聞いた。
「南方ですか」
「どうもそうらしいな」
「日本刀なら将校待遇ですね」
「僕、将校ねぇ」
 井伏は腕組みして黙り込んだ》(猪瀬直樹『ピカレスク』より)


 こうして病弱だった太宰は強制労働を免れ、井伏鱒二はマレー半島からシンガポールへ報道班員として従軍します。

青紙検査
青紙検査


 軟弱な?文士も働かされる以上、一般人は当然のように徴用されました。当時は航空機生産が最優先とされたので、多くは飛行機工場に送り込まれました。
 戦局が悪化する1943年以降は若い女性も「女子挺身隊(じょしていしんたい)」として、やはり強制労働することになります。

 これは余談ですが、女子動員が強化されると、男子は次の17職種への就業を禁止されました(産経新聞1998年9月20日による)。

(1)事務補助者(2)現金出納係(3)小使、給仕、受付係(4)物品販売業店員売り子(5)行商、呼び売り(6)外交員、注文取り(7)集金人(8)電話交換手(9)出改札係(10)車掌(11)踏み切り手(12)昇降機運転係(13)番頭、客引き(14)給仕人(15)料理人(16)理髪師、髪結い、美容師(17)携帯品預かり係、案内係、下足番

 つまり、町の食堂や商店、駅から男の姿が消えたわけです。実際、永井荷風は、懇意にしていた芝の料亭から男がいなくなり、「40歳までの男子はいや応な く軍需工場の職工に徴発せらるゝことになりたり」と記録しています。

徴用
バスも女子が運転



 さて、では徴用の現場はどのようなものだったのか?

 現在も製造業で名高い愛知県は、戦時中のピーク時、国内の航空機生産の7割を担っていました。名古屋の陸軍兵器製造所や三菱内燃機製造(後の三菱重工)といった航空機メーカーだけでなく、多くの工場が飛行機工場へ“衣替え”させられました。例えば日清紡績は主力3工場が強引に三菱の工場に変えられています。
 またトヨタ自動車の工場には新潟県の高校生まで動員されるなど、愛知県の労働者数は爆発的に増えました。名古屋市の工場労働者数は、1937年に14万人だったのが、1943年には31万人になりました。

 ちなみにこれが愛知県で配られた「労務動員カード」(案内パンフ)です。

国民徴用令
国民徴用令の話


 民間工場が強制的に軍需工場にさせられた例は、愛知県以外でもいくらでもあるんですが、その実態は正確にはよくわかりません。各企業、各工場ごとに見ていかないと、詳細はわからないのです。

 で、たとえば松下電器の場合。
 松下電器グループが最初に軍需品を作ったのは昭和13年(1938)のことで、陸軍から保弾子(機関銃の弾薬)の依頼を受けたことに始まります。その後、飛行機の部品を製作しますが、特に無線機生産が多かったようです。
 ところが昭和18年、戦局の悪化で、なんと船を造れという命令がきます。同年4月、松下造船という会社が設立され、堺と能代で300トン型木造被曳船の建造が始まりました。松下製の第1号船は12月18日に進水しています。
 この会社では1日1隻の生産を目標にしましたが、資源不足で全く実現できませんでした。

松下電器製の軍用船
これが松下電器製の軍用船だ!

 
 さらに驚くべきことに、同年10月には日本初の木造飛行機の生産が命令されます。大阪に松下飛行機という会社が設立され、製造開始。しかしながら、当たり前ですが松下電器には飛行機生産のノウハウがなく、3機を試作するに終わりました。

 その後、松下電器には航空無線用の真空管製作が命じられました。実は真空管も全くの未経験でしたが、こちらは製造が軌道に乗り、戦後の蛍光灯や電球生産に結びつくのでした。「家電のナショナル」の誕生には戦争が大きな役割を演じたのです。

 政府は昭和19年1月、国内の主要150社を「第1次軍需会社」に指定、4月には424社を「第2次軍需会社」に指定しています。松下グループでいうと、第1次が松下無線、松下航空工業、松下造船の3社、第2次が松下電気工業、松下金属、松下飛行機、松下乾電池の4社が指定されています。

戦時訓
社員に配られた「戦時訓」
(昭和16年の「戦陣訓」の応用です)


 言うまでもなく、当時の松下電器の社長は松下幸之助。彼は昭和18年5月、従業員に「戦時訓」を配り、挺身奉公を強く訴えます。
 以下、松下電器戦時訓を公開します。

産業の振否(しんぴ)は
皇国隆替(りゅうたい)の岐(わか)るゝ所なり
宜(よろ)しく肇国(ちょうこく)の精神を体し
深く己(おの)が使命を省みて
技能の錬磨 生産の増強に挺身し
以(もっ)て産業人としての臣節(しんせつ)を全うすべし


 以下、「和は団結の大本なり」「時は生産の要素なり」など5カ条が続きます。

 そして終戦を迎え、松下電器は翌日から全工場を民需生産に転換し、復興に貢献するのでした。

 
 もう1つ軍に接収した例をあげておきます。

 東京では日本劇場、宝塚劇場、国技館、国際劇場、有楽座など多くの劇場が接収され、秘密工場になりました。何を作ったかというと、風船爆弾。冬に吹く西風に乗せて爆弾をアメリカに送りこむという壮大な決戦兵器です。巨大な風船を作るのに、劇場の敷地は便利だったのです。

接収前の日本劇場
接収前の日本劇場では軍国調のレビュー



 東京宝塚劇場は、阪急電鉄・宝塚を創始した小林一三によって、昭和9年(1934)1月1日に開場しました。
 小林はこの近辺を広大な文化エリアにすべく、昭和10年に有楽座を設立し、日本劇場を買収、さらに翌年に東京会館と帝国劇場を買収しています。東京会館と帝国劇場の間には空き地があり、小林はここに8層の帝劇会館を建て、「芸能本陣の最高峰」を築き上げる計画でした。
 しかしながら日本劇場・宝塚劇場・帝国劇場(いずれも東宝系)の接収で、その夢は潰えました。
 戦後、宝塚劇場はGHQに接収され、およそ9年間、アーニー・パイル劇場と名前を変えます。
 そのアーニー・パイル劇場の前で、小林は次のような感慨に浸ります。

《私は、「アーニイ・パイル」の横文字が、淡い、うす緑の五線紙型ネオンサインの色彩の中に明滅するのを、ジッと見詰めていた。眼がしらが熱くうるおいそめて、にじみ出して湧いてこぼれて来る涙を拭く気にもなれない。
 ……『何という綺麗な、立派になったことであろう』掃除の行届いた劇場前の人道は水に洗われて、並木の黒い影は涼風にうごいて居る。私がこの劇場を支配しておった頃は、並木の一、二本は必ず枯れたり、ぬき取られたりしていた。碁盤目のブロックには凹凸があり、欠けて掘り出されたままに放置されていたり、砂煙が低くつづいて舞うなど、その頃の光景を思い浮べて、空虚な、敗戦気分の意気地ないというのか、我ながら、心はずかしく憂鬱ならざるを得なかったのである》(昭和21年9月、『アーニイ・パイルの前に立ちて』) 


 この文章の2年後の昭和23年、東宝では大きな労働争議が勃発し、大混乱になりました。米軍の援護の下、戦車までが介入する異常事態で、もはや「文化」とか「芸能」とかいった言葉とは無縁の世相となってしまいました。



戦車も参加した東宝争議
戦車も参加した東宝争議


 いずれにせよ、電器メーカーに飛行機や船を造らせ、劇場を満足に維持もできないような国がアメリカに勝つなんてことは、どだい無理な話だったのです。

制作:2008年3月24日

<おまけ1>
 戦地から帰国した井伏鱒二は、重松静馬の原爆日記を“パクって”、名作『黒い雨』で大作家の仲間入りをします。それを苦々しく思ったのかどうか、太宰治は、入水自殺の遺書に「みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です」と書き残しました。昭和23年のことです。

<おまけ2>
 軍に接収された工場では兵器だけを作ったわけではありません。たとえば資生堂には、昭和19年10月、政府直轄の貿易機関「交易営団」から高級香水を作れという極秘の注文が来ていました。中国大陸で戦略物資を買うための見返り品に選ばれたからです。戦火の中で香水が完成したのは終戦の1カ月前。結局、この香水は使われないまま倉庫に死蔵されましたが、その後、世の中が安定してきたときに市販され、高い人気を集めました。こちらも昭和23年の話です。

資生堂本社
関東大震災後に建てられた資生堂本社も接収されました
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