大嘗祭と新嘗祭
天皇になるための秘儀とは
大嘗宮
11月23日は勤労感謝の日です。「国民の祝日に関する法律」によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」日とされています。
成人の日、体育の日、海の日、敬老の日などはハッピーマンデーで月曜日に移動することがありますが、勤労感謝の日が移動することは決してありません。それはなぜか? 11月23日(本来は11月下卯の夜)という日付は、暦の上で最上級に大切な日だからです。
戦前も11月23日は祭日でした。この日、天皇がその年の新米を天上地上すべての神(天神地祇・てんじんちぎ)に捧げ、自らも食べる新嘗祭(にいなめさい)が行われるのです。もちろん現在でも行われていますが、その実態は完全非公開。いったい何が行われているのか、ほとんど誰も知りません(その証拠に、報道すらほとんどありません)。
そこで、ちょっとその現場をのぞいてみることにしました。
大嘗祭の主基斎田(大正天皇)
天皇家と農耕が結びついていることは、昔の日本人なら誰でも知ってるような話ですが、今では意外に思う人も多いかもしれません。しかし、天皇家は紛れもなく「農耕」を司る一族なのです。
それは日本書紀を読めばハッキリわかります。天皇家は万世一系が定められていますが、これは天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に対して次のように命令したことによります。
《豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)のさかえまさんこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし》(『日本書紀』巻二)
これが「天壌無窮の神勅」といわれるもので、瓊瓊杵尊は稲の種をもらって日本に降臨、以後、稲作の神様になりました。降臨するとき、瓊瓊杵尊は真床追衾 (まどこおふすま)にくるまれていたといいます(天孫降臨)。
瓊瓊杵尊に稲の種を渡す天照大神(左端)
右下に見える日本列島に注目!
さて、その年の新米を神に捧げる新嘗祭は毎年の行事ですが、天皇が即位して最初に行うものを大嘗祭(だいじょうさい)といいます。当たり前ですが、これこそが天皇一世一代の祭祀なのです。
明治天皇の大嘗祭
(明治4年11月17日)
大嘗祭は、昭和が1928年11月、平成が1990年11月、令和が2019年11月に行われています。
以下、平成の大嘗祭について、当時の報道を見てみます。この大嘗祭は、11月12日の「即位の礼」に続くものでした。
「大嘗祭」が始まったのは、11月22日午後6時すぎ。場所は皇居・東御苑に造営された大嘗宮(だいじょうきゅう)です。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)が廻立殿(かいりゅうでん)の回廊で結ばれています。
京都の以東以南を悠紀、以西以北を主基といい、この斎田から穫れた米を食べるのです。
昭和天皇の大嘗宮
天皇陛下は「オーシー」という声に先導され、午後6時半、まず廻立殿に入り、お湯で身を清めたあと、最も清浄とされる御祭服に着替え、悠紀殿へ。ここで約3時間「悠紀殿の儀」を行いました。使われた米は秋田産。
続く「主基殿の儀」は23日午前0時半から、午前3時過ぎまで行われました。使われた米は大分産。
悠紀殿に渡御する昭和天皇
大嘗祭のあとは参列者を招いて「大饗(だいきょう)の儀」が11月24、25日に計3回行われました。大嘗宮の儀式で使われた斎田米のご飯と、同じ米から醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)がふるまわれたといいます。
饗宴所における天皇皇后両陛下の御座所
大饗の儀の様子
食後には、日本最古の歌舞「久米舞」や、悠紀・主基の風俗舞、そして5人の舞姫による「五節舞(ごせちのまい)」が舞台で披露されました。
昭和天皇のときの五節舞
その後、天皇、皇后両陛下は伊勢神宮や歴代天皇陵への参拝(親謁の儀=しんえつのぎ)を経て、正式に天皇となったのです。
さて、大嘗宮で行われた「悠紀殿の儀」と「主基殿の儀」はいったいどんな内容なのか。
内部で何が行われているかは非公開ですが、平安時代後期に書かれた儀式書『江家次第(ごうけしだい)』には、
《主殿寮が御湯を供する。縫司が「天の羽衣」を供する。……内侍が縫司を率いて、寝具を神座の上に供して退出する》
とあります。その秘儀の内容について、昭和の大嘗祭(1928年)の際、民俗学者・折口信夫が「真床覆衾(まどこおふすま)説」を唱えました。新天皇は寝座(ベッド)で天の羽衣にくるまり、神格を得るというのです。これは、前述した瓊瓊杵尊が衾(ふすま=寝具)にくるまれて降臨したことを模し、新王の誕生を再現したものです。
大嘗宮全景(昭和天皇)
長らく、この説が信じられてきましたが、1989年、国学院大学の岡田荘司名誉教授が真っ向から対立する説を発表します。大嘗祭で真床覆衾にくるまる秘儀はなく、新天皇が皇祖神・天照大神にその年の新米などの食事を供え、自ら食べる祭祀だというのです。
折口説では新天皇は寝座に寝ますが、岡田説では寝ることはありません。寝座は天照大神が休むためのもので、新天皇といえど、触れることはできません。
なお、寝座は畳敷きで、上には衾と単(ひとえ)が置かれ、枕元に櫛(くし)、足元に絹の繪服(にぎたえ)、麻の麁服(あらたえ)、沓(くつ)が添えられるとされます。
新天皇はこのベッドに寝るのか寝ないのか。
宮内庁は、1990年10月、寝座は神が休む場所で、新天皇がそこに入ることはないと岡田説を認めます。
さらに令和の大嘗祭(2019年)では、記者会見でわざわざ秘儀を否定し、「神に五穀豊穣を感謝し、祈るもので、天皇自ら神格を得るわけではない」と発表しています。
令和の大嘗祭では、内容がかなり詳しく報道されました。
報道をまとめると、悠紀殿・主基殿の内陣(8.1メートル四方)には、天皇陛下の「御座」、伊勢神宮に向いた「神座」、中央やや右寄りに「寝座」が置かれています。新天皇は伊勢神宮の方角を向きながら「庭積机代物(にわづみのつくえしろもの)」と呼ばれる各地の食べ物を神々に供え、御告文(おつげぶみ)を読み、最後に自分で食べる直会(なおらい)をするとされました。
令和ではラ・フランス(山形)やシロエビ(富山)、オリーブ(香川)、ゴーヤー(沖縄)などもあったといいます。新米は栃木と京都のものが使われました。
大嘗宮(正面)
さて、大嘗宮が一般公開されたので、さっそく見てきました。今回、経費削減のため、平成に比べて敷地面積を縮小したほか、屋根は茅葺きではなく、板ぶきが採用されました。
大嘗宮は約6500平方メートルで、悠紀殿や主基殿など30余りの建物で構成されました。造営は清水建設が担当し、建物の撤去費用など含め約24億円かかっています。
大嘗宮の主な建物は以下のとおりです。
○悠紀殿:新天皇が神饌を供え、御告文を奏して自らも食す建物
○主基殿:新天皇が神饌を供え、御告文を奏して自らも食す建物
○廻立殿:天皇皇后両陛下が着替える建物
○雨儀御廊下:天皇陛下が通る廊下
○帳殿:皇后陛下が拝礼する建物
○小忌幄舎:男子皇族の参列場所
○殿外小忌幄舎:女子皇族の参列場所
○膳屋:神饌の調理場
○威儀幄/衛門幄:武官装束の者が着座
○庭積帳殿:各都道府県の特産品を供えた建物
○楽舎:楽師が奏楽を行った建物
○風俗歌国栖古風幄:楽師が歌を奏した建物
○庭燎舎:庭火を焚いた建物
大嘗宮(側面)
実は、大嘗宮には、外周にある正門などを除き、5つの門があるのです。それが南神門・北神門・東神門・西神門、そして「中の神門」です。「中の神門」は、雨儀御廊下に囲まれた最奥部にあります。1915年に描かれた『大嘗会図式』(東京国立博物館)によると、「中の神門」は南神門・北神門と垂直に設置されていることがわかります。
大嘗会図式
本サイトの管理人はなんとかしてこの門を撮影したいと思ってましたが、正直、宮内庁の「絶対撮影させない」と、いう強い意志を感じました。一応、撮りましたが、あってるかどうかよくわかりません。いずれにせよ、大嘗祭は日本で最も重要な祭祀です。もちろん、そこから派生した勤労感謝の日も、とても厳粛な祝日なのです。
これが中の神門かも…
制作:2019年12月16日
<おまけ>
『昭和天皇実録』より大嘗祭の部分を公開しておきます。
《次に神饌行立が行われ、掌典・女官により神饌が悠紀の膳屋より悠紀殿に運ばれる。行立が悠紀殿南階の下に到るや、掌典石野基道が警蹕(けいひつ)を唱える。諸員は一斉に敬礼し、楽師は神楽歌を奏し始め、天皇は外陣より内陣の御座に進まれる。
御手水の後、神饌御親供の儀に移られ、内陣の御座に端座され、女官の奉仕により順次進められる神饌・神酒を神前に御親供になる。御親供終了後、御拝礼になり、御告文を奏される。時に午後8時40分。
それより御直会の儀に移られ、神に捧げられたものと同じ御食・御酒を召し上がられる。その後、神饌撤下、御手水の儀があり、約2時間半にわたる儀式を終えられ、午後9時23分廻立殿に還御される》
廻立殿(昭和天皇)