五山送り火の誕生
本邦「大文字」の歴史

舞妓も楽しむ「大文字焼き」
舞妓も楽しむ「大文字焼き」


「秋の夕日に照る山もみじ」で始まる唱歌「もみじ」は、JR信越線の車窓から見た妙義山の紅葉のことだといいます。
 作詞は国文学者・高野辰之で、実家は現在の長野県中野市にありました。信越線で帰省する途中、熊の平駅(現存せず)付近から見た妙義山の美しい紅葉を歌ったものだそうです。

妙義神社の奥に見える「大」
妙義神社の奥に見える「大」


 その妙義山は赤城山、榛名山とともに上毛三山に名を連ねる名山ですが、巨大な岩の固まりのような山で、古くから信仰の山として知られてきました。14世紀には「明々巍々たる山」から「明魏(みょうぎ)大権現」と呼ばれ、それがいつしか「妙義」となりました(室町時代の公卿・花山院長親の法名・明魏に由来という説も)。そして、山の麓には壮麗な建築で知られる妙義神社があります。

 妙義神社は、修験道の本場のような場所で、いまも山伏文化が残ると言われます。山の中腹には大権現の「大」の字にちなんで、4メートル四方の鉄製の「大」の字が作られています。もとは修験者の道標を設けた場所ですが、遠くからもよく見え、参拝者はこの文字が見えると、ようやく旅のゴールに来たと、安堵したと伝えられています。

 ちなみに、「大」の字までは神社から50分ほどかかり、途中には鎖を渡した岩場もあって行くには苦労する場所です。苦労して「大」の字までたどり着いた行者は、いったい何を思ったのか。今回は、「大」をめぐる文化史です。

『都名所図会』の「大文字」(国会図書館)
『都名所図会』の「大文字」(国会図書館)


 言うまでもありませんが、「大」の字でもっとも有名なのが、京都の大文字焼きです。正確には「五山送り火」といい、毎年8月16日、

●「大文字」如意ヶ嶽(大文字山)/20時00分点火
●「松ケ崎妙法」西山・東山/20時05分点火
●「船形万灯籠」船山/20時10分点火
●「左大文字」大北山/20時15分点火
●「鳥居形松明」曼荼羅山/20時20分点火

 の五山で文字や図形が炎でかたどられ、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けます。かつては、「い」(市原)「一」(鳴滝)なども点じられたといいますが、現在は「大」「大」「妙」「法」「船形」「鳥居形」の6つです。

京都五山送り火イメージ図
五山送り火イメージ図


 現在は8月16日に限られていますが、かつては大イベントなどに際し、年に何度か点灯されたようです。日清戦争が終わった1895年5月15日には「祝平和」の文字が点じられました。また、日露戦争時の1905年は、6月1日に日本海海戦を祝って三高(京大)の生徒が「大」を点じ、同年11月25日、東郷元帥が凱旋したことで再び「大」を点じており、この年は3回つけたことが記録されています。

 大文字焼きについては、意外に文献がないようです。京都の文化に詳しい田中緑紅の『京の送火大文字』がほぼ唯一の基本文献のようで、この本にも《変遷を調べたものを見ません》《大正年間以前の写真も記録も殆(ほとん)ど残っていません》とあるほどです。

京都左大文字
左大文字


 というわけで、以下、この本をもとに「五山送り火」についてまとめます。まず、大文字の起源については、以下の7つをあげています。

(1)垣武天皇の時代(延暦年間)から毎年、鹿ヶ谷(ししがたに)の山に「北辰(=北極星。転じて天皇の意も)」を祀り、木を伐採して火を焚き、山や川の神々に捧げる行事がおこなわれており、これを「御燈」と言った。「大」の字の中心を「金尾(=かなわ、原文では「カナヲ」)と呼ぶのは、この御燈の炉の跡だろう

(2)嵯峨天皇の時代(弘仁年間)、悪疫が流行した際、弘法大師が如意ヶ嶽に登り、護摩を焚いて「玉体安穏(ぎょくたいあんのん)」「宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)」を祈ったのが始まり(江戸時代の熊谷直恭『大文字噺』による)

京都如意ヶ嶽にある「弘法大師堂」
如意ヶ嶽にある「弘法大師堂」


(3)山麓に、後一条天皇の時代(寛仁2年=1018年)に創設された浄土寺があったが、この寺が火災で全焼してしまった。ところが、焼失したと思われていた本尊・阿弥陀如来が山の上に避難し、毎夜光明を放たれた。そこで、仏の偉大さを広めるため、その地で大文字を始めた

(4)唐の時代、地面に火で文字を表したものを「字舞」と言ったが、これを空海(弘法大師)がまねて、東山に「大」の字を作った(碓井小三郎『京都坊目誌』による)

(5)後土御門天皇の時代(延徳元年=1489年)、足利義政が、亡き子・義尚の追悼行事を相国寺横川和尚に命じたところ、和尚は侍医・芳賀掃部と相談して始めた(『日次紀事』『雍州府志』などによる)

(6)安土桃山時代の3名筆の1人、関白・近衛信尹(のぶただ、別名・近衛三藐院)の筆をもとにして作った(中川喜雲『案内者』による)

(7)青蓮院御門主の御筆という(延宝5年=1677年に刊行された『出来斎京土産』による)

 田中緑紅自身は、(5)の義尚追悼説がいちばん有力だと思っていたようです。義尚が死んだのは1489年で、これが年中行事として毎年おこなわれるようになったのは、およそ200年後、徳川4代将軍・家綱時代(1650〜1680年ごろ)だと推測しています。

「大文字」を焼く如意ヶ嶽からは京都が一望
「大文字」を焼く如意ヶ嶽からは京都が一望


 では、どうして「大」の字になったのか。これもさまざまな説がありますが、

●北辰を祀った(☆のとんがった部分の間に線を引くと「大」となる。「大」は星を表したもの)
●弘法大師が「大」の形の護摩壇を山上に築いた(浄土寺の記録)
●仏教では人体を「四大」と言い、「大」の字で象徴する(浄土寺の記録)
●大は「一人」のことで、「人」に「一」を入れると「大」の字になる。つまり人のこと(光福寺阿善和尚の説)
●大乗の「大」の字

 単純に、火で表すのに「大」の字がもっとも単純でわかりやすかったから、というのが真実かもしれません。

如意ヶ嶽から遠望する「法」の字
如意ヶ嶽から遠望する「法」の字


 寛文2年(1662年)、中川喜雲が書いた『案内者』という本には、

《上京下京共に沢山な人々が手毎(ごと)に麻柯(おがら)のタイマツを数十本もち鴨河原―北は今出川南は三条磧(かわら)の間に満ちふさがり一二丈づつ空に投げ上げ、数百千の火を手毎にあぐれば、瀬田の螢見のおもかげあり》

 とあることから、山で送り火を燃やすだけでなく、庶民は河原で火を投げるなり高く掲げるなりしていたことがわかります。

鵜飼船から見る京都「鳥居形」
鵜飼船から見る「鳥居形」


 そして、山で送り火を燃やすことは、京都だけではなく、各地にありました。

 現在も、日本各地で「大文字焼き」がおこなわれています。具体的には、京都府福知山市、京都府京丹後市、奈良県奈良市、秋田県大館市、神奈川県の箱根などです。多くが観光用ですが、たとえば北海道上富良野町の大文字焼きは、十勝岳噴火の犠牲者の慰霊のために始まりました。

 余談ながら、北九州市の小倉には「小」文字があり、これは1948年、当時の小倉市長が国体の開催を機に選手を歓迎するために始まったといわれます。

「大一」の文字を燃やしているところ(大阪府池田市)
「大一」の文字を燃やしているところ(大阪府池田市)


 そんななか、有名なのが、大阪を代表する火祭り「池田がんがら火祭り」と高知県四万十市の「大文字の送り火」です。

「がんがら火祭り」は、徳川3代将軍・家光時代の正保元年(1644年)、五月山の山上で火を灯したところ、「池田に愛宕(火の神)が飛来した」と評判になったことが起源だと伝えられています。

 毎年8月24日、五月山の中腹にある愛宕神社でご神火をもらい、その火で秀望台の南斜面に「大一」、東斜面に「大」を点火。
 その火をもらった大松明(たいまつ=愛宕火)が山から下りてきて市内を練り歩くのですが、その際、ガンガラ、ガンガラというカネの音を響かせることから、「がんがら火」と呼ばれるようになりました。

がんがら火祭り
がんがら火祭り


 一方の四万十市(合併前は中村市)では、旧暦7月16日、山の神を祭っている十代地山の中腹を大の字形に掘り、そこで各戸から集めた松明による 焚火をおこないます。送り火は、応仁の乱を逃れて京都から中村に来た一条房家が、父・教房と祖父・兼良の慰霊のために始めたとされます。京都を懐かしんで始まったとも伝えられており、京都の送り火を模した形です。

 実は、中村は「土佐の小京都」と呼ばれます。たしかに三方が山で、東に連なる山は「東山」。西に桂川を思わせる四万十川、東に鴨川を思わせる「後川」が流れ、通りは碁盤の目のようになっています。

『中村市史』には、一条氏時代、四万十川の河口に港があったと記されています。

《豊富な幡多木材を下田港から移出し、産業の振興をはかり、大いに造船を行って遂には対明貿易にまで発展させたようである。ここに中村発展の直接原因が認められ、幡多物産の集散地として、又貿易の基地としての発達を招いた》

 つまり、ここから京都に木材などを船で輸送したのですが、当時の遣明船が途中で立ち寄ったとも書かれているわけです。
 このことから、地元では「大文字山は、実は灯台だった」との説も説かれています。

 なお、四万十市の「大文字の送り火」は500年以上の歴史を持つとされますが、それだと京都の送り火より時代が前の可能性も出てきます。このあたり、正確にはよくわかりませんが、いずれにせよ「大文字」には、多くの人の思いが脈々と込められてきたのです。

中村の四万十川下流(1930年ごろ)
中村の四万十川下流(1930年ごろ)


更新:2025年10月18日

<おまけ>

 冒頭で掲載した「大文字焼き」の画像は、昭和29年(1954年)頃のパンフレットから転載したものです。
 女性の隣には「アサヒビール」とありますね。
 
 アサヒビールは、1889年、大阪麦酒として創業し、関西を中心に販路を拡大しました。しかし、1906年、日本麦酒(東京)、札幌麦酒の3社合併で「大日本麦酒」となり、戦前の市場シェアは7割近くまでいきました。大日本麦酒は、第2次世界大戦後の1949年、「過度経済力集中排除法」の適用を受け、日本麦酒と朝日麦酒に分割されてしまいます。その際、「サッポロ」「エビス」のブランドは日本麦酒、「アサヒ」「ユニオン」などのブランドを朝日麦酒が引き継ぎました。

 この結果、関西はアサヒビールの独壇場となったのです。大文字焼きを見る人たちの多くは、アサヒビールを飲んでいたことは間違いなさそうです。

最古とされる挿絵の「大文字」(宝永花洛細見図)
最古の「大文字」とされる挿絵(宝永花洛細見図)
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