本邦「酪農」の始まり
驚異の画像ワールドへようこそ!
ニッポン「酪農」誕生記
「明治」と「森永」あるいは成田空港ができるまで
明治メリーミルクの箱詰め
『南総里見八犬伝』で有名な里見氏は、戦国時代、千葉県の南房総を中心に勢力を拡大しました。
1614年(慶長19年)、館山城にいた里見氏は突如改易となり、倉吉(鳥取県)に転封となりました。このとき、江戸幕府は、里見氏が軍馬を育成するために大切に管理していた放牧場を没収し、幕府直属に変えています。それが「嶺岡牧(みねおかまき)」と呼ばれる場所です。この地では、一説には平安時代から馬が飼われ、鎌倉幕府の武力を支えたとも言われます。
館山城
江戸幕府の直轄となった「牧」は全国に4カ所あり、嶺岡牧(千葉県南房総〜鴨川)のほか、「小金牧」(千葉県市川〜野田)、「佐倉牧」(千葉県佐倉〜成田)、そして「愛鷹牧」(静岡県)があります。幕府直轄の牧4つのうち、3つが千葉県でした。
この牧というのは広大で、たとえば小金牧は「高田台牧」「上野牧」「中野牧」「下野牧」「印西牧」の5つに分かれ、特に「中野牧」は将軍や水戸家の鹿狩りや鷹狩りがおこなわれる場所として知られています。
歌川広重が小金牧を描いた「富士三十六景 下総小金原」(国会図書館)
小金牧の跡地としては「下総小金中野牧跡」(下総小金中野牧跡)や「下野牧二和野馬土手」(船橋市)があります。また、嶺岡牧の山の上には、傾斜部に沿うように、石や土で人工的に作った囲い(野馬土手)の跡「仮囲(かりがこい)」が残されています。かつてこのあたりは樹木の少ない丘陵地の草原でしたが、戦後の植林事業でその面影は消えつつあります。
実はこの嶺岡牧は、日本酪農の始まりの地とされています。そこで、今回は、日本の酪農の誕生についてまとめます。
嶺岡牧の野馬土手「仮囲」
江戸を開いた家康は、牧を整備したものの、世の中が平和になると、軍馬の育成はおろそかになります。そのため、千葉県の牧は放置に近い状況になりますが、それを再興したのが、8代将軍・吉宗です。
吉宗は、1728年、外国産馬を輸入する際にインド産のヒトコブ白牛(ゼブー種)も購入し、3頭の白牛を嶺岡牧で飼育しました。当時、人が牛乳を飲む習慣はほぼありませんでしたが、欧米では馬の栄養補給・治療用に牛乳を使っていたため、輸入したと考えられます。牛乳はすぐに腐敗するため、バターのような形にして保存、薬として使いました。これが、日本の酪農の原点だとされるのです。
「酪農のさと」の白牛
牛は、60年ほどかかって70頭に増えました。しかし、これだけ牛が増えると、大量にあふれ出る生乳の処理に困ることになります。
11代将軍・家斉は、いまで言う「健康オタク」のような側面がありました。そこで、牛の乳から「白牛酪(はくぎゅうらく)」というチーズのような乳製品を製造し、みずから薬として飲みました。嶺岡牧からは、たまに白牛が江戸城に向かって歩き出す姿が目撃されました。1週間ほどで到着した牛は、雉子橋門のそばにある厩で飼われ、牛乳を搾っては、それを白牛酪に加工したと伝えられます。
家斉は『白牛酪考』という書物を医師に書かせました。この本によると、白牛酪は「腎虚(衰弱)」「労咳(結核)」「産後の衰弱」などに効果がある良薬とされています。実際、家斉はこの薬を強壮剤として愛飲し、53人(一説には55人)の子を授かりました。
牧の焼印(三里塚御料牧場記念館)
では、白牛酪とはどのようなものだったのか。簡単に言えば、乳を煮詰めて固め、乾燥させたチーズのようなものです。
牧の運営にあたる武士を牧士(もくし)と言いますが、その子孫である永井要一郎の証言が残されています。
《白牛の乳から白牛酪というものをつくったが、これは白牛の乳を鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念に掻きまぜながら石鹸位の堅さになるまで煮つめたもので亀甲型にしてあった。そして非常に貴重なものとして病人などはそれを削って、お茶で飲んだりなどしたといわれている。私も極(ご)く幼少の頃祖父につれられていってそれを甜めたこともあったが、今考えてみても非常にうまかった。この白牛酪を作るのは唐銅の鍋に限っていたのも面白いことである。》
(『日本畜牛雑誌』263号、1923年/『安房酪農百年史』より孫引き )
永井は、もう一つ面白いことも証言しています。牛糞を薬にしたというのです。
《御製薬という薬を作っていた。これも必ず白牛に限るのだが、その白牛に蓬(よもぎ)を食わし水の他には他の飼料を与えないで、先(ま)づ一週間はその糞を捨て、次の一週間の牛糞を黒焼にして作ったもので、これは将軍家で使用する他に民間へは下げなかった。(中略)
先づ土のような土器に生のまま牛糞を入れて泥をぬって密封したものを籾糠(もみぬか)の間に入れて焼いたものだ。これに使用する蓬は村役人に申付けて時と量を定めて陣屋へまで持って来さしたものを徴発した。》(同)
永井は、子供のころ、傷を作ると、内緒で家にあった御製薬を塗ってもらったと証言しているので、外傷薬だったことがわかります。
鑑札「馬草札」(左は1770年/酪農のさと)
明治に入ると、牛乳が広く奨励されるようになりました。
福沢諭吉は、1870年(明治3年)、『肉食之説』で牛乳を「万病の一薬と称するも可」「不治の病を治し不老の寿を保ち」と大絶賛。1871年には、嶺岡で育った牛から搾った乳を、明治天皇が毎日2回飲んでいると『新聞雑誌』が伝えています。1872年には、近藤芳樹の『牛乳考・屠畜考』という本で、孝徳天皇が愛飲したと紹介され、「牛乳は最上の良薬」と書かれました。
こうして牛乳は世の中に広まっていきます。同時に、嶺岡牧周辺には次々と畜産会社も増えていきます。1889(明治22)年には「嶺岡畜産会社」が設立され、アメリカからホルスタイン52頭を輸入、酪農の基礎が作られました。
明治メリーミルクと森永ドライミルクの宣伝
嶺岡畜産もそうですが、明治時代に創業した乳業会社は、規模も小さく、経営は安定しませんでした。しかし、大正時代になると、需要増や機械化により、大規模な工場が求められるようになりました。
そのうちのひとつが房総煉乳です。1916年(大正5年)、創業した同社は企業買収を進め、館山、滝田、勝山、主基に近代的な4工場を作りました。勝山は内房線・安房勝山駅の目の前で、ここから鉄道や船で首都圏に輸送しました。房総煉乳は、1920年、東京菓子に吸収され、同社の製乳部となりました。1924年、明治製菓に商号変更。1940年、乳業部門が明治乳業となりました。
明治メリーミルクの牧場
また、お菓子メーカーだった森永製菓は、材料に必要な牛乳を姉妹企業の日本煉乳から入手していましたが、勝山に自ら進出して製乳事業を始めます。その後、千葉からは撤退しますが、残った工場はカルピスが借り受けたと記録されています(『安房酪農百年史』による)。
明治メリーミルクの牛乳濃縮工程
明治時代になって牧は廃止されました。
しかし、1875年(明治8年)、内務卿だった大久保利通が、農・畜産業を発展させるため、千葉県に牧羊場と種畜場を開設します。文明開化により羊毛の自給が重視され、また軍が整備されるなかで軍馬や家畜用牛の品種改良が急務だったからです。
牧羊場「下総牧羊場」は富里市周辺に、牛馬の改良をおこなう「取香種畜場」は成田に作られました。ここの牧羊場こそ、日本で初めて西洋式を導入した大規模牧場で、日本の近代牧畜の発祥地と言える場所です。なぜこの場所が選ばれたかというと、このあたりは幕府の佐倉牧を構成する「取香牧(とっこうまき)」があったからです。
大久保の牧羊計画は、伝染病などで5年足らずで頓挫。1880年、牧羊場と種畜場が合併して「下総種畜場」になり、まもなく宮内省の所管になりました。こうして、1888年、「宮内省下総御料牧場」と改められ、日本唯一の宮廷牧場となりました。
この御料牧場には、国内初の獣医科が設置され、家畜の治療や酪農技術の教育もおこなわれました。
「下総御料牧場」全体図
日露戦争以降、軍馬は、外国馬と掛け合わせる形で品種改良が進みました。大正時代、各地で競馬が盛んになると競走馬の改良も進みました。
1927年と1935年、2頭のサラブレッド「トウルヌソル」と「ダイオライト」がイギリスから輸入されます。トウルヌソルは、1932年の第1回日本ダービーを制したワカタカをはじめ、全部で6頭のダービー馬を出産します。ダイオライトも史上初の三冠馬セントライトを生み出しました。下総御料牧場が、日本の競走馬の原点ともいわれるゆえんです。
三里塚で飼われた馬
1953年5月8日、昭和天皇は下総御料牧場を視察しています。『昭和天皇実録』によれば、種馬厩では手ずからニンジンを与え、甘藷やサトイモ、チーズ、ハムなどの牧場生産品を見て回ったと記録されています。その後、競走馬の生産の中心は北海道へと移り、下総種馬場は2007年に閉鎖されました。
宮内庁から払い下げられた馬車(普通車4号)
下総種馬場の前身は、下総御料牧場の跡地に建てられた三里塚種馬場です。「三里塚」は成田市にある地名で、地名は日蓮宗の修行道場だった日本寺(にちほんじ)が、江戸までの間に1里ごとに作った17カ所の塚の3番め、つまり「3里の塚」によるとされます(佐倉城から3里にあたるなど、諸説あり)。
1966年、「新東京国際空港の位置及び規模について」が閣議決定され、この三里塚を中心に成田空港が建造されます。1969年、御料牧場は栃木県塩谷郡高根沢町に移転、牧場跡地の一部が「三里塚記念公園」となりました。
空港予定地の住民の多くが土地の買収に応じる一方、一部の住民は新左翼の学生らと連携し、反対運動を先鋭化させていきます。千葉県は1971年2月22日、新東京国際空港公団(現・成田国際空港会社)の請求に応じて土地収用法に基づく行政代執行を開始。その強制収用を困難にするために、土地所有者の名義を分割した「一坪共有地」も生まれました。
成田闘争の結果、空港内に残された公道(赤い部分が空港)
実は、三里塚記念公園に、皇族の使用を想定して建設された防空壕が残されています。2008年10月から始まった調査により、厚さ約3メートルの盛り土の下に「H形」の空間が掘られ、中央に厚さ60センチのコンクリートに囲まれた主室(高さ2.5メートル、幅2.5メートル、奥行き4.5メートル)や爆風逃がしの換気口などがあることが明らかになりました。
防空壕は皇太子(現上皇)の避難のため建設され、1941年(昭和16年)年12月8日に完成しました。実際の使用記録はなく、終戦後もそのまま残されました。安全上の問題で数十年間封鎖されましたが、2011年から一般開放されています。
三里塚記念公園に残された皇族用の防空壕(二重扉)
●
ナゾの牛乳船を追跡!
制作:2023年7月12日
<おまけ>
江戸〜明治時代、「嶺岡牧(みねおかまき)」では、ニホンオオカミがひんぱんに牛馬を襲いました。牧の管理人「牧士(もくし)」だった石井家に残された文書では、1725年に子馬が4頭、1927年にも子馬2頭がオオカミに食い殺されたなどと記録されています。別の牧士「田中家」に残された古文書からは「鉄砲所持願い」が見つかり、嶺岡の牧士が100挺以上の鉄砲を持っていたことがわかりました。それほど、獣害はひどかったのです。
<おまけ2>
『野菊の墓』で有名な歌人・伊藤左千夫は東京の下町・本所茅場町で牧場を経営していました。
千葉から牛乳を運ぶのは大変だったので、都内にも多くの牛乳メーカーが生まれました。たとえば「東京牛乳」の設立目論見書(大正時代初期)を見ると、質の悪い牛乳で、東京では毎年、子供が数千人死んでいると書かれており、新宿・巣鴨・江東の都内3カ所に殺菌所を作って良質の牛乳を宅配す ると記されています。牛乳が安全な飲みものになるのは、冷蔵庫の誕生まで長く時間がかかったのです。
「東京牛乳」の冷蔵トラック