ダッラ(Darra Adam Khel)はアフガニスタンとの国境に近いパキスタン西部、ペシャワールの南40kmに位置しています。
非常に小さな町ですが、ここは世界でも有数の武器製造地帯。一説には町の半分以上の店が銃器屋だといわれていて、ペン型ピストルや機関銃はもちろん、場合によってはロケットランチャー、対戦車砲までありとあらゆる武器が格安で手に入ります。
このあたりは自治権が認められているため、パキスタン政府としても取り締まることが出来ず、せいぜい入域許可証(パーミッション)を発行している程度です。武器の貿易は違法のはずですが、当然のことながらヤミ貿易が横行し、ここが西アジア一帯への武器供給源となっているわけです。
店内にはあらゆる種類の銃器が並んでいるが、そのほとんどが手作りの模造品
ダッラでは、カラシニコフ(の模造品)がせいぜい数百ドルで購入できます。希望者は裏山で試し打ちも可能。俺はパーミッションなしで勝手に入ったせいか、試射でも100ドルかかりました。普通はもっと安いはず。でも、ダダダッという機関銃の振動は、やっぱ快感なのでした!
<イギリスが作ったダッラ>
この町が出来たのは1890年代。当時、アフガン支配を進めていたイギリスが、アフガンの親英組織のために作らせたといいます。質の高い銃器を盗まれるよりは劣悪な銃器を作らせておいた方がよい、という判断でした。同時に、ヤミ貿易を認めることで、イギリス軍の安全な移動が可能になったわけです。
アフガンは1915年、イギリスの保護国となりますが、1919年には独立します。反英グループは、当然、ダッラの銃器を利用して抵抗したわけです。まさにイギリスの植民地戦略の失敗でした。
<アメリカとソ連の代理戦争>
第2次大戦後、しばらく親ソ連だったアフガンで内乱が起き、1979年、ソ連軍が進駐します。このとき、反ソ連側のアフガンゲリラをアメリカが支援します。ダッラで作られた武器が、この米ソ代理戦争でも大いに役立ちました。
“史上最大のテロリスト”オサマ・ビンラディンも、当時は、反ソゲリラとしてアメリカの支援を受けていました。
ソ連は1988年、アフガンから撤兵します。次第にアメリカから距離を置き始めたビンラディンが徹底的に反米になったのは、1991年の湾岸戦争でした。母国でありイスラムの聖地でもあるサウジに多国籍軍が進駐したことで、怒りを買うわけです。以後、アメリカへのテロ活動を押し進めます。
今回のニューヨークテロには、こんな背景があったわけです。
<タリバンの成立>
現在、アフガンを実効支配するイスラム原理主義勢力タリバンは、1994年頃に成立しました。兵力は4万人ともいわれますが、事実上、オサマ・ビンラディンの資金援助で成り立っているようなものです。アメリカがいくらタリバンにオサマ・ビンラディンの身柄引き渡しを要求しても、なかなか簡単にはいかないでしょう。
今後、アメリカとアフガンの関係がどうなるかは分かりません。確実なのは、戦争が起これば、ダッラの武器で殺されるアメリカ人が続出することだけです。
いずれにせよ、僕らとしては、イギリス・ソ連・アメリカといった大国の思惑に翻弄され続けたアフガンの立場も知っておくべきです。もちろん、テロを容認するつもりはないのだけれど。