電池の歴史
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乾電池と蓄電池の誕生
エレキテル(国立科学博物館)
レモンに、銅板と亜鉛板をくっつかないように2枚刺し、リード線で結ぶと、ごくわずかですが電流が生じます。これは、レモン果汁が電解液となって、銅が+極、亜鉛が −極となり、電気が流れるのです。これがイタリアの物理学者ボルタが1800年に発明した「ボルタ電池」です。
レモン電池
そこで実験。レモン1個だと電流が少ないんで、大量のレモン果汁を用意し、電極を直列に繋いでみると、おーっ! 確かにすごい電気が流れました。しかし、あっという間に銅板に大量の泡が付いて、発電力が落ちてしまいます。この泡は化学変化によって起きた水素なんですが、こうなるともう電池としては役立ちません。これが電池の寿命ということです。
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レモン電池
人類の歴史は、「電気を貯めて使いたい」という熱情が作ってきた歴史ともいえます。そこで、今回は乾電池と蓄電池の誕生を公開します。
ボルタ電池が発明されるまで、電気といえば、静電気を指していました。
紀元前600年、ギリシャのタレスが琥珀(コハク)をこすると物を引きつける現象を発見しました。これが電気の発見。電気は英語で「エレクトリシティ」(electricity)と言いますが、ギリシャ語の「琥珀=エレクトロン」が語源です。
その後、16世紀になって、イギリスのギルバートが琥珀以外(硫黄や水晶など)でも静電気が起きることを発見。1733年には、フランスのデュ・フェが電気のプラス極とマイナス極を発見し、ボルタ電池の誕生によって、ようやく電気学の基礎が作られました。
宇田川榕菴の『舎密開宗』に描かれたボルタ電池(ウィキペディアより)
その後の電気学の方向を簡単に書いておくと、1831年、ファラデーがコイルを使って電磁誘導(感応電流)を発見し、電池がなくても電流が流れることが判明。これが発電機や電信の研究につながります。
また、1855年にドイツのプリュッカーとガイスラーが、真空中を電気が伝わることを発見、この真空放電の研究からX線の発見につながっていきます。
さて電池ですが。
紀元前から知られていた静電気を、発電することは簡単でした。ガラスや硫黄を摩擦するだけだからです。しかし、この電気を貯めるのはなかなかできませんでした。
ところが、1746年、ようやくオランダのミュッセンブルークが蓄電器を発明します。
ライデン瓶(蓄電器=明治23年の『技芸百科全書』12巻より)
これはガラス製の瓶で、下3分の1に内側・外側とも錫(すず)が貼られています。中央に吊された玉は内側の錫近くまで伸びています。瓶から出た棒を発電器に付けると、内側の錫に帯電するのです(内側が+、外側が −)。
帯電した後、人間が棒の先に触れると、ものすごく強い静電気が流れます。開発したミュッセンブルークも、実験中にこの部分に触ってしまい、腕、肩、胸に意識を失うほどの衝撃を感じ、丸2日間、痛みが残ったと記録しています。瓶を連結した蓄電槽に至っては、下手すると死ぬほどの衝撃がありました。
この世界初の蓄電器は、オランダのライデン大学で発明されたため「ライデン瓶」と呼ばれています。ベンジャミン・フランクリンの嵐の凧揚げ実験にも使われ、また平賀源内のエレキテルにも使用されています。
『紅毛雑話』(1787)に描かれたエレキテル(国会図書館のサイトより)
手を繋いだ子供たちを静電気で驚かす「百人おどし」の実験(科博『エレキテル究理原』)
静電気発電機
(ロ)の取っ手を回し、(イ)のガラス円盤(玻璃盤)を回転させると、
(ニ)を通って(ハ)の円筒に蓄電。(ホ)はアースに相当
さて、ボルタ電池は電解液を使うので、この液体を容器に封じ込めれば、一応は電池が完成します(ダニエル電池)。この液体式のダニエル電池を日本で最初に作ったのが佐久間象山だとされています。
この液体式を実用化したのが、フランスのルクランシェで、二酸化マンガンを使うことで、長持ちする電池が完成します。しかし、中身は液体であり、冬に使用できないなど不便でした。
そこで、世界中の研究者が乾電池の開発を行いますが、最初に成功したのは日本人でした。新潟生まれの屋井先蔵(やいさきぞう)で、明治26年(1893)に特許が成立します。
屋井先蔵と電池の販売店(国会図書館のサイトより)
せっかくなので屋井乾電池の製造法を書いておきましょう。
外側は亜鉛で、中に酸化亜鉛(6匁)、塩化アンモニウム(12匁)、石膏(18匁)、塩化亜鉛(6匁)、燈心(イグサ、8匁)、水(6匁8分)で作った混合物を塗布。
炭素棒の周囲を二酸化マンガン(60匁)、炭素(15匁)、黒鉛(18匁)の合成物で巻き、これを上の亜鉛筒に入れ、水分が乾かないように重油で満たして、筒を封印。
この乾電池は3年も持ち、翌年の日清戦争で通信用電池として大活躍しました。
ちなみに当時の乾電池製造はこんな感じです。
塩化アンモニウム、二酸化マンガン等を混合し、圧搾
成形されたプラス極を紙で包み、糸で巻く
缶を作る
発電液を注入し、封印
乾電池(一次電池)は、使い切ったら、2度と使えません。そこで、何度でも充電できる蓄電池(二次電池)の開発も始まりました。
蓄電池には、もともとアルカリ蓄電池と鉛蓄電池の2種類あります。
アルカリ蓄電池はニッケルとカドミウムを使ったもので、スウェーデンのユングナーが1899年に発明しています。しかし、実用化は遅く、商品化されたのは1960年ごろ。
そのため、最初は鉛蓄電池の開発競争が激化しました。
鉛蓄電池は1859年、フランスのプランテが発明しています。日本では、1895年、島津製作所の2代目島津源蔵が初めて蓄電池の試作に成功しました。この蓄電池は、島津源蔵の頭文字を付けて「GS蓄電池」と命名され、日露戦争で海軍の無線機に使われました。日本海海戦の勝利は、この蓄電池のおかげだと言われています。
GS蓄電池の広告。画像はクルマ用蓄電池
1937年当時、日本最大のGS蓄電池(8760アンペア、10時間)
第一次世界大戦が勃発すると、ドイツからの蓄電池の輸入が途絶えたため、1917年、島津製作所の蓄電池工場は独立して日本電池となりました。日本電池は後にユアサと合併し、現在はGSユアサとして、自動車用の鉛蓄電池で国内トップシェアを誇っています。
神戸電機とユアサ蓄電池の広告
蓄電池は、ニカド(ニッケル−カドミウム)蓄電池を経て、現在はニッケル水素、リチウムイオン電池へと進化しました。
電気飛行機と呼ばれる「ボーイング787」にはGSユアサ製のリチウムイオン電池が搭載されています。バッテリーの故障で787は運行停止となりましたが、ボーイングはGSユアサのバッテリーに問題はないとしています。
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燃料電池で地球温暖化防止
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揚水発電(巨大蓄電池)
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電信・火薬・汽罐技術で勝利した日露戦争
製作:2013年3月3日
<おまけ1>
初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結したハリスは、1856年、日本に来日します。その直前、ついでに通商条約を結ぼうとシャム(タイ)に寄港してるんですが、このとき膨大なお土産をシャム王に献上しています。内容はシャンデリア、顕微鏡、拳銃などですが、そのなかにライデン瓶(蓄電池)を利用した玩具が含まれていました。
これは、ライデン瓶に細い糸で羽毛が結ばれていて、電気を通すと羽が空中へまいあがり、放電すると猟師の銃の音とともに、まるで射ち落とされたように羽毛が落ちる仕掛けでした。
ハリスは、シャム王に膨大すぎるお土産を贈ったせいで、日本へのお土産はほとんどありませんでした。これは、1854年にペリーが2度目の来日をはたした際、将軍にボルタ電池4箱を献上したから、もうこれ以上、日本にはあげなくていいだろうという判断からでした。なんとも寂しい話ですな(『ハリス伝』による)。
<おまけ2>
レモン電池とは別に、10円玉と1円玉でもボルタ電池が作れます。きれいな10円玉と1円玉を各10枚用意して、その間に濃い塩水につけたキッチンペーパー(濾紙)を挟んでいきます。順番は「1円濾紙10円1円濾紙10円……」にすること。これで、LEDくらいだったら点灯します。
10円玉&1円玉電池