土偶の世界
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「土偶」の日本史
脈々と続いた諏訪発の縄文研究
国宝「合掌土偶」(青森県・是川縄文館)
江戸時代、好事家が集まって「珍品」を持ち寄る会が催されました。『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴もそうした会の常連で、その記録が『耽奇漫録』に記されています。
1824年(文政7年)、この「耽奇会(たんきかい)」に、青森県亀ヶ岡から出土した土偶が出されました。この土偶に対するコメントは記録されていませんが、大きな感嘆の声があがったことは想像にかたくありません。
亀ヶ丘から出た土偶(『耽奇漫録』/国会図書館)
この土偶は、後に遮光器土偶と呼ばれるものです。「遮光器」とは、1884年(明治17年)に人類学会を立ち上げ、日本の考古学の基礎を作った坪井正五郎が、北方民族の遮光器(ゴーグル)に似ていることから命名したものです。
1877年(明治10年)6月19日、アメリカ人のエドワード・モースが、横浜から新橋に列車で向かう途中、大森駅のそばで貝塚を発見します。これが、縄文時代後期〜末期の大森貝塚の発見です。貝殻はもちろん、土器、土偶、石斧などが大量に発見され、ここから日本の考古学が始まります。
問題は、モースが大森貝塚で「食人」の痕跡があったと発表したことです。当時は、明治天皇を中心に、「万世一系」の社会づくりがおこなわれていました。そのため、土器で食事したり、食人するような「野蛮人」はいったい何者なのか、ということが大きな議論を呼ぶことになったのです。“崇高な” 日本民族とは違う野蛮人ではないか、という意見です。
シーボルトは、石器時代には日本全土をアイヌ人が治めていて、その後、神武天皇に率いられた日本人の祖先に駆逐されたと考えていました。一方、モースは、アイヌの前に別の民族がいたと提唱しました。これが「プレ・アイヌ説」です。プレ・アイヌ人は、後にアイヌに駆逐され、アイヌはその後、日本人に駆逐されたという説です。
坪井は、プレ・アイヌ説を発展させ、アイヌの伝説に登場する「コロボックル(蕗の下の住むという小人)」が先住していたとの説をとり、摩訶不思議な遮光器土偶もコロボックルのものだと指摘しました。結局、コロボックル説は坪井の死とともに忘れ去られ、アイヌ説が主流となります。
遮光器土偶(恵比須田遺跡/東京国立博物館/重要文化財)
このアイヌ説を支持したのが、坪井の愛弟子だった鳥居龍蔵です。鳥居は、縄文文化と弥生文化はまったく別物だとして、先住民族のアイヌ(縄文)があとからやってきた弥生人に駆逐されたと考えました。
鳥居は、東アジア一帯を調査しましたが、日本では長野県の諏訪地方に注目しました。実際に調査を始めると、土器や遺跡が相次いで発見され、石器時代から山間部にも多くの人が居住していたことがわかりました。
鳥居は諏訪の独自性を示す例として「顔面把手」をあげています。土器の縁に人の顔のような装飾がつけられています。鳥居は破片しか確認していませんが、後に完全なものも出土しています。また、ヨーロッパ石器時代のドルメン(支石墓)に似た墓地も発見し、「ドルメン類似遺跡」と名付けました。
顔面把手付き土器(茅野市尖石縄文考古館)
この鳥居の調査に同行していたのが、地元出身の八幡一郎です。八幡は、日本にも旧石器時代があったと考えますが、これは長らく学会で否定的に扱われてきました。1949年、群馬県岩宿遺跡が発見され、日本にも旧石器時代があったことが確認され、後に、長野でも旧石器時代の遺跡が発見されました。
岩宿遺跡の発掘品(明治大学博物館/重要文化財)
八幡は、大正時代、『諏訪史』の発刊に協力していますが、この本をきっかけに諏訪の考古学的な価値に注目が集まるようになりました。おそらくはこの本に感化され、1929年、皇族の伏見宮博英殿下が、諏訪地方の調査に来ました。
伏見宮博英殿下は、後に自ら希望して皇族を離脱。戦争が始まるとフィリピンで戦死し、皇族出身者として唯一の戦死者となるのですが、もともと考古学に関心があったようで、諏訪での発掘を希望してやってきたのです。そこで、遺跡があることがわかっていた八ヶ岳山麓の尖石で発掘がおこなわれます。
「尖石」の由来となった遺跡そばの巨石
このとき、駆り出されたのが、地元の教師だった宮坂英弌(ふさかず)です。興味を持った宮坂は、その後、私財を投じて遺跡発掘を続けました。宮坂は、尖石で「炉」の跡を見つけたことで、日本で初めて縄文集落の発掘に成功します。広場の周りを住居が囲むという、東日本で典型的な集落の形も明らかになりました。
宮坂は、戦後、尖石の隣にある与助尾根遺跡で、祭壇のある住居跡や集落跡を発掘。縄文時代中期の集落(ムラ)研究の基礎を築きました。これ以降、諏訪では発掘が進み、井戸尻遺跡など、日本を代表する縄文遺跡の発見が相次ぎました。こうして、八ケ岳山麓は「縄文のふるさと」「縄文王国」などと呼ばれるようになりました。
与助尾根遺跡に復元された集落
宮坂の発掘品をもとに、尖石縄文考古館が建造されますが、実はここには国宝に指定された土偶5つのうち、2つが展示されています。
ひとつは、1986年に棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」。妊娠した女性の姿をしており、粘土に雲母を混ぜて焼いてあるため、キラキラと輝いています(1995年に国宝指定)。高さ27センチ。
国宝「縄文のビーナス」(縄文時代中期)
そしてもうひとつは、2000年に中ッ原遺跡から発掘されたもので、逆三角形の仮面をつけていることから「仮面の女神」と呼ばれています(2014年に国宝指定)。こちらは高さ34センチです。
国宝「仮面の女神」(縄文時代後期前半)
諏訪の縄文遺跡は、井戸尻遺跡がその代表とされますが、この遺跡の重要性は、「縄文時代にも農耕があった」という学説を生んだところにあります。縄文時代は狩猟・採集生活だったという定説に疑問を投げかけた「縄文農耕論」を唱えたのは、諏訪市出身の藤森栄一です。一説には、宮崎駿監督の『となりのトトロ』に出てくるサツキとメイの父親のモデルだとされています。
藤森の「縄文農耕論」は、
・狩りの道具である石のやじり(石鏃=せきぞく)が減少する一方、土を掘る「打製石斧」や調理具「石臼」が増えた
・貯蔵用土器が発達した
・集落が大型化している
などの理由から導き出されました。特に1960年、井戸尻遺跡に隣接する曽利遺跡で炭化物を見つけたことが大きな転機となりました。藤森はこれを「4500年前の餅」だと判断したのです。しかし、この物的証拠をもってしても、学会の反応は鈍いものでした。
藤森が亡くなった翌年、諏訪市の荒神山遺跡から、シソ科の植物エゴマが炭化したものが発見されました。縄文時代でも一部で植物栽培があった傍証といえそうです。
藤森が、植物の種子貯蔵に使用したと主張する有孔鍔付土器(諏訪市博物館)
さて、藤森の弟子が、「仮面の女神」を最初に「国宝級」と評価した戸沢充則です。日本の旧石器時代の研究の基礎を築いたとされ、2000年に発覚した旧石器遺跡の発掘捏造事件で、調査委員長を務めたことで知られています。
長野から神奈川に至る共通文化圏を、八幡一郎は勝坂遺跡(神奈川県)の名前をとって「勝坂式文化圏」としましたが、戸沢はこれを「井戸尻文化」と名付けました。
戸沢は、縄文時代には特徴的な3つの「地域文化」があるとしました。
・井戸尻文化(縄文中期、八ケ岳山麓から関東南西部)
・貝塚文化(縄文後期、関東の海沿い)
・亀ヶ岡文化(縄文晩期、東北)
そして、縄文中期、八ヶ岳近辺(長野・山梨)で文化が爆発的に発展し、それが次第に関東に移り、関東が衰えたころ東北に移ったと考えました。
東北で出土した土偶には、国宝が2つあります。冒頭に掲載した「合掌土偶」(縄文時代後期後半、高さ20センチ)と「縄文の女神」です。
国宝「縄文の女神」(縄文時代中期、山形県立博物館)高さ45センチ
しかし、「縄文の女神」は縄文中期です。縄文晩期に栄えたはずの東北で、なぜ中期にこんなレベルの高い文化があったのか――。
実は、戸沢の「長野・山梨→関東→東北」移動説を、真っ向から否定することになったのが、1997年に国の特別史跡に指定された三内丸山遺跡でした。
この地に遺跡があること自体は、『永禄日記』1623年の項に「かめの形、大小の人形」が多量出土したと記録されており、昔から知られていました。野球場建設のため1992年から大がかりな発掘が始まると、大規模な集落、墓、巨木柱などが次々に見つかりました。発掘の結果、縄文時代前〜中期の、1500年も続いた集落で、植物栽培や発酵酒の痕跡も見つかりました。ちなみに、縄文のポシェットという美しい出土品もあります。
縄文ポシェット(縄文時遊館/重要文化財)
それだけでなく、祭祀に関わる遺物も大量に出ています。出土した6本柱の建造物を復元したところ、3本と3本の延長上に、冬至の日の太陽が沈むことがわかりました。これを逆から見ると、夏至の日に、ちょうど真ん中から太陽が出ることになります(否定意見もあり)。
さらに、三内丸山遺跡からは、新潟のヒスイ、岩手の琥珀、北海道の天然アスファルト、長野や北海道の黒曜石が出土しています。この地が交易の中心だったわけで、こうして三内丸山遺跡は「縄文の都」などと呼ばれるようになりました。
いずれにせよ、縄文時代の中心地は、地域と時間がずれて存在したのではなく、同時代的に存在していたことが明らかになったのです。
三内丸山遺跡
三内丸山遺跡から出たもので、注目すべきは黒曜石です。黒曜石は、火山が生み出した天然ガラスで、割れ口が鋭く、加工しやすいため、石器づくりの材料として重宝されました。特に良質で、大規模な産地が八ヶ岳の北麓です。この黒曜石を中心に、縄文時代の交流ネットワークが構築されたのです。
藤森栄一も称賛した黒曜石の石鏃(曽根遺跡/星ケ塔ミュージアム 矢の根や)
さて、それでは、土偶とは一体なんなのか。
渡辺仁は、世界のフィールドワークを通じて、人形には「礼拝の対象」「祖先の像」「子供の玩具」の3つの意味があるとしています。このほか、豊穣の象徴、見えない精霊、宇宙人などさまざまに言われてきましたが、竹倉史人は『土偶を読む』で、縄文人の食べ物となった植物の姿をモチーフにしているとしました。たとえば、ハート形土偶はオニグルミ、「縄文のビーナス」はトチノミ、そして、遮光器土偶はサトイモだとしています。まぁ、一面的な解釈だとは思いますが、面白い本ではあります。
ハート形土偶(東京国立博物館/重要文化財)
長野県と山梨県の縄文遺跡や出土品は、2018年、「星降る中部高地の縄文世界」として日本遺産に登録されました。そして、2021年には、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産となりました。縄文人気は続いていますが、最後に一つの面白い仮説を紹介しておきます。
ここまで長野と山梨の八ヶ岳山麓の縄文文化を中心に取り上げましたが、なぜこの場所には旧石器〜縄文遺跡が大量に存在しているのか。八ヶ岳から湧き出る豊富な水と、森が恵んでくれる食料はもちろんですが、井戸尻考古館の小林公明館長は、「活火山だった富士山をよく見ることができたから」と推測しています。
縄文時代中期、富士山の噴火や火山灰を恐れ、一方で死と再生の源と考えたことで、人々は富士山が見える場所に集まったというのです。富士山を「目」とすれば、諏訪湖〜甲府盆地〜多摩丘陵は「まゆ毛」のような弧を描くことから、「富士眉月弧文化圏」と命名しました。先の「勝坂式文化圏」や「井戸尻文化」に通じますが、このように、多くの学者が独自の説を繰り広げる縄文時代。その吸引力には、驚くばかりです。
縄文人の耳飾り(縄文時代晩期、江戸東京博物館「縄文展」)
制作:2022年6月16日
<おまけ>
諏訪地方からは、宮坂英弌、八幡一郎、藤森栄一、戸沢充則と、著名な考古学者が次々に輩出されています。これはいったいどうしてか。小倉美惠子『諏訪式。』に面白い文章がありました。藤森栄一や新田次郎の恩師である三澤勝衛について述べた文章です。
《おもに大正時代、信州には白樺派に影響を受けた自由を尊ぶ教育が教師の間に燎原の火のごとく広がっていた。それは「決められた教科を一方的に教え込むのではなく、子供たちの個々の関心、個々の自発を促し、それぞれの表現を引き出し育むこと」を重視し、教室を出て自然の中で身体を使うこと、インスピレーションを受けることにも積極的であった。》
三澤は「大八車」というあだ名で呼ばれており、《書籍・絵図・掛図・地図、それに必要があれば実物標本》を教室に持ち込み、教科書を使わず、野外調査を重視した教育をおこないました。そうして徹底的に子供たちに自分で考えさせたのです。縄文研究は、こうした教育のもとで、みごと花開いたのでした。
大型板状土偶(三内丸山遺跡/重要文化財)