東京制圧「ダウンフォール作戦」
米軍「日本本土上陸」の極秘資料を入手したよ

ダウンフォール作戦
ダウンフォール作戦の概念図


 岐阜県に各務原(かかみがはら)という町があって、ここは、今も昔も航空産業で有名です。
 特に戦前は、陸軍の飛行場、陸軍の航空廠(工場)、川崎航空機(現川崎重工)、そして三菱重工業の格納庫があり、巨大な軍事都市として知られていました。九五式戦闘機も三式戦闘機「飛燕」も、この町で開発されています。名古屋で作られた零戦の試作機が、各務原で初飛行したのも有名な話です。

 この町が大空襲にあったのは1945年6月22日のことでした。約20分にわたり1トン爆弾がばらまかれ、169人が死亡しました。その後も6月29日、7月12日と空襲が続き、町は完全に焼き尽くされました。

 言うまでもありませんが、空襲は闇雲に行われるものではないので、地図なり空撮写真なりが必要です。
 では、いったい米軍はどうやってこの町の空撮写真を入手したのか? 実は、前年の1944年11月23日、米軍が各務原の上空を初飛行して、全景を撮影してるんですね。そのときの写真がこちら。

各務原空撮
左に三菱重工、右に川崎航空機


 連合軍は、こういった重要地域の写真や地図を「TERRAIN STUDY(地形研究)」という極秘資料として集成していました。各務原の写真は、四日市から名古屋、浜松あたりまでを含めた第130巻「NAGOYA AREA」のなかに含められており、1945年6月15日に発行されています。
 ちょうどその1週間後に、各務原が空襲されたことになります。

terrain study
秘密文書の「南東九州」と「名古屋」


 この「TERRAIN STUDY」は、当時、オーストラリアのブリスベンに本部があった連合国地誌部が作成したものです。連合国地誌部というのは、地理学的な見地から諜報を行う部門なので、アジア・太平洋地域での軍事作戦の必要上、作成されたものだと判断できます。

 ちなみに第1巻は「ラバウル」で、日本は

 130巻「南東九州」1945年5月31日
 132巻「東京・関東平野」1945年5月30日
 134巻「名古屋エリア」1945年6月15日
 136巻「大阪(近畿)」1945年8月11日


 の4巻が確認されています。国会図書館にもマイクロフィルムしかないんで、おそらく現物は日本にはないと思われますが、本サイトでは「名古屋エリア」と「南東九州」の実物を入手しました。

トヨタ自動車工場空撮 名古屋市街
米軍が入手したトヨタの工場と名古屋市街(1939年)の写真

浜松の国道1号
道幅が調査されている浜松近郊の国道1号線(1931年)


 まず「名古屋エリア」編を見ると、当時のトヨタ自動車の工場、名古屋市街などに加え、道幅や鉄道、植生などが詳細に記録されており、空襲用資料としては非常によくできていることがわかります。
 そして、特筆すべきは名古屋周辺への上陸想定図が掲載されていることです。下の地図を見ると、沿岸部の広範囲で、上陸可能かどうかが調査されていることがわかります。米軍の周到さが見て取れますね。

東海地方上陸図
名古屋周辺の上陸ポイント調査


 同じように、「南東九州」編を見ると、宮崎県や鹿児島県の写真が掲載されていて、特攻基地として極秘扱いだった鹿屋基地や知覧基地の空撮写真も掲載されています。

鹿屋基地空撮
鹿屋基地空撮

知覧基地空撮
知覧基地空撮


 目をひくのは、1945年3月28日に撮影された宮崎県延岡市の空撮写真。延岡市には当時世界屈指の大工場・日本窒素化学工業(現旭化成)があり、化学工業地帯として発展していました。そして「南東九州」が1945年5月31日に刊行され、6月29日、米軍の大空襲にあいました。やはり、この資料が空襲に大きく役立ったことがわかります。
 
 重要なのは、この空撮写真に船のマークが書かれ、英語で「すべての揚陸艇が使用可能」と書かれている点。やはり、各地の上陸ポイントが詳細に検証されているのです。

延岡空撮
延岡空撮。左に書かれた「suitable for all types of L.C」が「全揚陸艇が使用可能」という意味


 ところで、重要都市だった「東京」「名古屋」「大阪」が調査されているのはわかりますが、どうして第1弾が「南東九州」なんでしょうか?
 実は、沖縄戦が1945年3月26日に始まると、連合軍にとって、次は九州上陸が最も重要なテーマになっていました。九州に上陸し、飛行場と基地を作った後、関東地方に上陸し、東京を制圧する……米軍はこうした「日本本土上陸作戦」を起案していたので、最初に南東九州が登場するんです。

南九州上陸想定図
南九州の上陸ポイント調査図


 この米軍の「日本本土上陸」は、作戦名「ダウンフォール作戦」と呼ばれています。ダウンフォールとは、「瓦解」「失脚」「滅亡」といった意味です。
 では、「ダウンフォール作戦」とは、いったいどんなものだったのか? まず九州上陸を「オリンピック作戦」と呼び、関東上陸を「コロネット作戦」と呼んでいます。

オリンピック作戦図
川内(鹿児島県)と都農(宮崎県)を結ぶ線より南で行われる
オリンピック作戦図(米陸軍『マッカーサー・レポート』より)

ダウンフォール作戦
ダウンフォール作戦の実物資料より、都農ー川内ラインと実施日を書いた部分


 九州上陸(オリンピック作戦)の予定日はXデーと呼称され、1945年11月1日が想定されていました。
 この日の4日前から甑島に小部隊が上陸し、2日前から第9軍団が高知県沖で陽動上陸行動をしたあと、Xデーに九州南部に3ルートから上陸するのです。

 ・宮崎
   第1軍団(第2海兵師団、第3海兵師団、第5海兵師団)
 ・大隅半島(志布志湾)
   第11軍団(アメリカル師団、第1機甲師団、第43歩兵師団)
 ・薩摩半島(串木野)
   第5海兵上陸軍団(第25歩兵師団、第33歩兵師団、第41歩兵師団)

 上陸兵力は陸軍25万2150、海兵隊8万7643。
 支援として、海軍は艦艇による砲撃を第3艦隊が行い、兵站や対潜水艦対策を第5艦隊が担当し、さらに第7艦隊も任務に加わる予定でした。第3艦隊だけで高速空母14、軽空母6、戦艦9……と信じられないほどの大戦隊でした(以上の数字は『日本殲滅』による)。

志布志湾空撮
志布志湾の上陸想定用の空撮写真(右下の志布志空港が最初の占拠目標)

志布志湾上陸図
志布志湾上陸図


 このころ、日本側も九州に重点的に兵を置いており、米軍の予測では宮崎ルートで6万1000、志布志湾ルートで5万5000、串木野ルートで5万2000の日本兵と激突するはずでした。もし実際に戦争が起きれば、大惨事となったはずです。

 しかし、制圧後も米軍は大変でした。

《九州で予定された建設作業は実に膨大なものであった。九州に飛行場設置の必要性を初めて説明したとき、マッカーサーは(工兵隊長の)ケイシーに向かって、航空群は31になるだろう、と語った。侵攻計画が完了したとき、航空群の数は51まで増えていた。そうなると、滑走路と駐機場、1日当たり40万ガロン(152万リットル)の航空機用ガソリンを飛行場に供給するためのパイプライン網、7万1857両のジープ、トラック、戦車、ブルドーザー、参謀用自動車、そのほか陸揚げされる車両に使用するガソリンなどをケイシーは運び込まねばならない。また、車両用の不凍液や将兵用の防寒着も必要になるだろう。兵士が寒い季節に戦うのは、太平洋戦争ではこれが初めてとなる》(『日本殲滅』)

オリンピック作戦
ダウンフォール作戦の実物資料より、オリンピック作戦原図


 そして、南九州を制圧した後、米軍は関東上陸を狙います。
 こちらの作戦予定日はYデーと呼ばれ、1946年3月1日。まずマッカーサーを大将とする第1軍が九十九里浜から上陸し、3月11日に第8軍が相模湾から上陸し、東京湾の出口と銚子、横浜、熊谷を押さえつつ、東京を制圧する計画でした。兵士の数は57万5000。前代未聞の上陸計画でした。

コロネット作戦概念図
コロネット作戦概念図(米陸軍『マッカーサー・レポート』より)


 しかし、1945年7月16日に原爆の初実験が成功し、広島と長崎に投下したことで、あっさり日本は敗戦を受け入れました。
 1945年9月2日、戦艦「ミズーリ」で降伏調印式がおこなわれたとき、マッカーサー元帥は「大いなる悲劇が終わり、偉大な勝利が勝ち取られた」と演説しました。もし本土上陸が実施されたら、悲劇はいつまで続いたのか、そしてどこまで大規模になったのか、それは誰にもわかりません。


制作:2012年8月28日


<おまけ1>
 なんだか、この上陸計画を見ると、アメリカ軍の完璧さ、徹底ぶりに感心せざるをえませんが、『日本殲滅』には、計画立案中のドタバタぶりも書かれています。

《オリンピック計画にむけた計画が進行するにつれ、地質学者のジョン・ウルフ配下の集団は、歩兵や飛行大隊のために九州の土壌に含まれる物質を調べはじめ、報告書を作成した。ある日、ウルフがその報告書のことを話したところ、計画スタッフの中佐がEID(工兵情報師団)の事務所にやってきて、ウィリアム・パトナム教授の机に置かれていた地図をパチンとたたき、こう言った。
「第一波で2万名の兵士をこの浜辺に送り込みたいのです。私は命令を受け、あなたに会うためここにやってきました」
 その地図には、高さ350フィートの崖を背にした、長さ20マイル、幅600フィートの浜辺が示されていた。パトナムは仰天し、とんでもない、と叫んだ。そして、ウエストポイントでは士官候補生に地図の読み方を教えないのか、と聞いた。「そこは崖ですよ。崖なんです」》


 こういうミスを見ると、米軍も人間の集まりなんだとわかりますね。

<おまけ2>
 米軍の対日戦争計画といえば、日露戦争での日本勝利を受けて本格的に立案された「オレンジ計画」が有名です。これは1924年に正式な計画として採用され、頻繁に改訂されていきますが、内容に決定的な欠陥があったとされています。それは航空機と潜水艦の発達を想定していなかったこと。そのため、このプランはマッカーサーに無視され、闇に消え去ったのです。
米軍機
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