1922年11月17日、アインシュタインが来日します。神戸港には帝国学士院への招待状を手にしていた日本物理学界の大御所・長岡半太郎が待っていました。日本へ来る船上でアインシュタインのノーベル賞受賞が決定したため、港では大変な騒ぎになっていたのです。
アインシュタインは2週間ほどの滞在中、各地をまわって講演しますが、難解な理論をわかりやすく説明する姿に人気が沸騰、空前の科学ブームが巻き起こります。庶民だけでなく、仙台では世界最強の磁力鋼の発明者・本多光太郎を激励訪問するなど、多くの科学者が薫陶を受けました。
ブームに乗って科学の道を選んだ少年たちも多いわけで、日本の近代科学の発展には、少なからずアインシュタインの影響があったわけです。
《ベルリンで会った日本人は不真面目に見えたけれど、日本に近づいてから会った日本人はいつもニコニコしていて気軽で愉快そうに見える。日本とドイツではお互いに学ぶところがあるが、日本人が外国人に親切なところは見習いたい。日本の音楽、絵画を研究し、日本人の日常生活を楽しんでみたい。また、この旅行を機に、科学上の国際関係を改善したい》(当時の朝日新聞より意訳)
日本とドイツが戦争をした第一次世界大戦(1914-1918)の時機を考えると微妙な発言ではありました。
その後、ドイツではナチスが台頭、アインシュタインはナチスによる原爆製造の危険をアメリカのルーズベルト大統領に進言します。これがもとになって、アメリカはマンハッタン計画をスタート、完成した原爆は、ドイツではなく日本に落とされるのでした。
1955年4月、アインシュタイン永眠。その3カ月後、核兵器の廃絶を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」が発表されました。日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹らととも署名した宣言の後半にはこう書かれています。
《私たちは、人類として、人類に向かって訴える——あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かって開けている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている》