「駅ビル」の誕生
エキナカはこうして作られた

蒲田民衆駅
蒲田民衆駅

 
 東京・蒲田には、かつて松竹の映画撮影所があり、町は大いに賑わっていました。しかし、戦争で蒲田は焼かれ、駅も焼失してしまいます。長らくバラックの駅舎でしたが、1963年、ついに新駅が誕生します。このとき、国鉄は「地元サービス」として、改札の外にトイレを設置しました。しかし、このトイレは乱暴に扱われ、何度も破壊されてしまいます。あまりの酷さに、以後、国鉄では原則としてトイレを改札内に設置することになりました(『建築ニュース』1963年9月号)。

 それにしても、「親方日の丸」とされた国鉄は、なぜこのとき「地元サービス」をすることにしたのか。実は、この駅の建設費は、国鉄が全額負担したわけではなく、地元もお金を出していたのです。これを「民衆駅」と呼びました。いったい民衆駅とは何なのか、そして駅ビルはどのように誕生したのかをまとめます。

蒲田民衆駅
蒲田駅ビルへの入り口(1963年)


 JRは1987年4月1日に発足しますが、それまで存在していた国鉄(日本国有鉄道)は、所得税も法人税も課されませんでした。民間企業に比べ、きわめて優遇されていたため、逆に、業務内容には大きな制限がありました。「国鉄法」第3条では、鉄道・連絡船・自動車輸送と、それに関連する「附帯事業」のみが許され、それ以外の業務は原則おこなえません。

「附帯事業」が何か厳密な定義はありませんが、事実上、国鉄は駅構内で新聞や雑誌、飲食物を小規模に販売することしかできなかったのです。駅の売店も、国鉄が自前で営業するわけではありません。1932年、鉄道弘済会が東京駅、上野駅ではじめて売店営業を開始して以降、同財団法人が引き受けていました。

 鉄道弘済会は、鉄道殉職者の遺族などに向けた福祉事業として設立されています。売店や救急、後には保育園の運営もおこなっています。現在、交通出版社が刊行している時刻表も、かつては鉄道弘済会が出資した「弘済出版社」が扱っていました。

 状況が変わったのは戦後です。空襲により、日本中の駅舎が焼失しました。その数は132だとされます。当然、駅を復興させなければなりませんが、国鉄には予算がありません。そこで、日本全国で「駅復興期成同盟」が設立され、用地の拡張や駅の新設を含め、大規模な陳情運動が起きます。結果、総工費を地元経済界、自治体、国鉄で分担するようになりました。これが「民衆駅」です。

 日本初の民衆駅は、1950年(昭和25年)に完成した愛知県の豊橋駅です。民衆駅には、民間企業が運営する商業施設が入り、大規模な商売をすることが許されました。私鉄では当たり前だった商業施設ですが、ついに国鉄でも駅ビルが誕生するのです。その後、民衆駅は池袋、秋葉原、尾張一宮、門司、高円寺、札幌、西鹿児島、福井、富山と続き(承認順)、1971年に承認された津(三重県)まで55を数えました。

釧路駅
釧路民衆駅(1961年完成)

釧路駅
釧路駅(現在)

 かつて秋葉原駅には「アキハバラデパート」が入っていましたが、デパートから改札経由で直接ホームに出入りできました。この構造が採用された民衆駅は多かったようです。また、私鉄ターミナルと違って、民衆駅では、一度に多くの人が出入りする劇場・映画館は不可とされました。小規模な「ニュース映画館」のみ一部で認められただけです。

秋葉原駅
秋葉原民衆駅(1960年ごろ、現存せず)

 
 これまで経験のない民間資本導入に際し、パイロット事業として選ばれたのが、1948年に認可された池袋駅西口でした。駅を作ってそれを国鉄に貸し出すという新しいビジネスモデルを回すに当たり、国鉄OBの伊藤滋らが「日本停車場」という会社を作ります。

 池袋駅西口は1949年に着工し、1950年12月に開業しました。駅ビルには、東横百貨店が入ることになりました。
 その後、池袋駅周辺は整備され、

<西口>
国鉄・東横百貨店/東武鉄道・東武百貨店
<東口>
国鉄・丸物百貨店/西武鉄道・西武百貨店

 となり、後に東横が東武に買収され、丸物がパルコに変わったことで、西口が東武の、東口が西武グループの牙城となったのです。日本停車場は、後に東武の子会社となりました。日本停車場のような会社は他にもあり、東京駅では現在も「鉄道会館」という会社が駅ビルを運営しています。鉄道会館には、日本停車場の伊藤滋らが移り、そのノウハウを伝えていきました。

池袋駅
池袋駅の西武と丸物デパート(1960年ごろ)


 かつての国鉄の駅は、平坦なボックスのようなデザインが多かったですが、大規模な人の流れがあることから、設計や建築は限られた会社や建築士が請け負いました。前述の伊藤滋がもっとも有名ですが、ほかに明石駅・姫路駅・広島駅などを造った安井建築設計事務所の佐野正一、新宿駅・池袋駅などを造った交建設計の山崎兌らが知られています。

広島駅
広島民衆駅(1965年完成)

広島駅
改装後の広島駅(2020年取り壊し)


 国鉄は、相変わらず駅ビルへの出資を制限されていました。そのため、いくら駅ビルが栄えても、地代収入しかありません。しかし、1971年、規制緩和により、駅ビルに直接、出資できるようになりました。1973年に開業した「平塚ラスカ」が出資第1号です。そして1987年、国鉄は分割民営化され、駅ビルへの積極的な関与が始まります。

平塚駅
平塚駅(民衆駅ではない)


 しかし、新生JRは、すぐに市場の荒波に揉まれることになります。新宿駅東口の「新宿マイシティ」(現在はルミネエスト)の買収工作を受けたのです。

 1989年、マイシティの運営会社「新宿ステーションビルディング」の取締役会で、国鉄出身の専務が解任されました。この会社には西武百貨店、伊勢丹、高島屋、鉄道弘済会などが出資しており、JRの持ち分は6分の1だけでした。解任は西武の差し金で、この時点で伊勢丹や高島屋は西武への株の譲渡を約束しています。

 マイシティの土地はJRのものでしたが、運営会社には強い借地権があります。法的には合法の買収工作にJRは無力でしたが、社内から国鉄総裁に宛てた駅ビル建設の請願書が見つかったことで、事態は一変します。その請願書には「将来、国鉄が駅ビル事業をするときには協議に応じる」という一文が入っていたからです。

 この請願書を元に交渉が始まり、伊勢丹、高島屋は株の譲渡を取りやめました。さらにJRが第三者割当増資を引き受けたことで、経営権を死守。こうして、西武の新宿駅ビル進出計画は潰えたのです(「日経MJ」2017年9月13日ほかによる)。

新宿駅
1963年の新宿駅周辺
1 工事中の国鉄東口民衆駅/2 工事中の京王ビル/3 小田急ビル予定地/4 営団地下鉄ビル/5 国鉄南口(甲州口)改築/
6 国鉄角筈口予定地/7 国鉄旭町口予定地/8 小田急デパート/9 東口駅前広場/10 西口駅前広場


 国鉄が民営化したところで、JRはすぐには小売り業に参入できませんでした。1990年以降、駅ビル「アトレ」などは存在していましたが、当時はまだ駅ビルは「下駄ばきビル」などと揶揄され、有名ブランドから相手にされなかったからです。

 JR東日本が、初めて百貨店事業に参加したのは、1999年、阪急と提携して立川駅に造った「グランデュオ立川」です。2000年には「ステーションルネッサンス」を合言葉に、駅の改善が始まります。これがいわゆる「エキナカ」プロジェクトで、2005年3月、初のエキナカ「ecute(エキュート)大宮」がオープン。同10月に「エキュート品川」、2007年10月に「エキュート立川」と東京駅「グランスタ」が開業するのです。

 冒頭で触れた蒲田駅は、現在も民衆駅のまま残されています。開業後に入った商業施設は「パリオ」で、2008年、「回遊型コミュニティ百貨店」として「グランデュオ蒲田」が新装オープンしています。

 なお、現在でも残っている民衆駅は、上記以外に川崎、沼津、新潟、天王寺、和歌山、別府などです。いずれも50年〜70年ほどたっており、取り壊されるのも近いかもしれません。

沼津駅
沼津駅(1953年完成)

新潟駅
新潟駅(1958年完成)

和歌山駅
和歌山駅(1968年完成)


制作:2020年9月26日

<おまけ>

 東京駅八重洲口の民衆駅ビルが完成したのは1954年です。翌年、国鉄総裁に就任した十河信二は、すぐに丸の内口の駅舎の建て替えを指示します。それは日本初とも言うべき超高層の駅ビルプロジェクトでした。十河は、ビルのテナントに外国の領事館や大手商社を入れ、ビルの屋上にヘリポートを設置し、海外の要人を送迎する計画です。しかし、1963年に十河は総裁を退任し、このプロジェクトは実現しませんでした。

東京駅八重洲口
東京駅八重洲口(1956年ごろ、現存せず)

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