円筒分水の世界
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「円筒分水」の世界
水争いを劇的に減らした大発明
うそのくち円形分水
かつて、長野県佐久穂町には、不思議な慣習がありました。
江戸時代、近くを流れる大岳川から取水する水路が開削されましたが、それ以来、常に水争いが起きることになりました。そこで、明治になって、「藤蔓(ふじつる)分水」と呼ばれる水利慣行が生まれました。毎年八十八夜(現在の5月初旬)に、長短2本の藤蔓の長さにあわせて作った棒を作り、その棒の長さに応じ、用水を土嚢で分けたのです。
この慣習は、1953年に新しい分水システム「鷽ノ口(うそのくち)円形分水」が完成するまで長く続きました。
英語で競争相手のことを「ライバル(rival)」といいますが、これはラテン語の「小川(rivus)」が語源だとされます。要は、同じ川を使う人たちは水を奪い合うライバルだったわけです。同時に、水をめぐっては世界中で争いが起きてきました。こうした水争いを劇的に減らすことになった円形分水(円筒分水)とはなんなのか。今回は、その歴史を振り返ります。
二ヶ領用水(『稲毛川崎二ケ領用水事績』)
1590年、徳川家康は、豊臣秀吉の命令によって江戸に入ります。支配地は武蔵、相模、伊豆などの「関八州」です。
当時の江戸は未開の大湿地で、いたるところに葭(あし)がおい茂り、城下町を割りつけられる場所はきわめて狭い土地しかありません。そして、8月1日に江戸に入った家康を、3日、大豪雨が襲います。千足池や不忍池があふれ、あたりは泥濘となってしまいました。12日にようやく堤防の修復が終わりますが、家康は最初から江戸のインフラの劣悪さに悩まされたわけです。
家康は、この泥沼の地を埋め立て、飲料水の確保や田畑の拡大を目指します。最初におこなったのは、現在の千代田区あたりの「道三堀(どうさんぼり)」の開削で、その後、利根川の東遷にともなう「川俣の締切」など大きな土木工事が続きます。当時は北方に伊達政宗が健在で、まず北部のインフラ整備が進みますが、徐々に南部の開発も始まっていきます。
道三堀を描いた歌川広重「八ツ見のはし」(「名所江戸百景」/東京国立博物館)
※手前の一石橋から道三堀に架かる銭瓶橋を望む。奥に道三橋
南の開発で、最初期におこなったのが、多摩川から川崎方面に向かう「二ヶ領用水」の掘削です。多摩川から取水する最古の農業用水で、徳川家康の命を受けた代官・小泉次太夫が関ヶ原の戦いの3年前(1597年)から測量を始め、1611年に完成しました。「二ヶ領」とは、「川崎領」と「稲毛領」を指しますが、この全長32kmにおよぶ用水のおかげで、周辺60の村で、米の収穫量が飛躍的に伸びたと言われます。
近隣を豊かにした「二ヶ領用水」ですが、時代が下ると、農民の間で水争いの壮絶な舞台となります。
1724年には、川崎宿の名主であった田中休愚(たなかきゅうぐ、田中丘隅とも)が、水争いを防ぐため、水を水田の量に応じて分ける「久地分量樋」を作ります。その方法は水を各地域ごとの水路にわけることで、『稲毛川崎二ケ領用水事績』には、根方地域への水路の幅は8尺4寸5分、稲毛は3尺2寸2分、川辺は7尺5寸、溝の口久地が6尺8寸7分と記録されています。
水争いの現場ではこれほど精緻な調整が必要だったことがわかります。
久地分量樋(1910年撮影、『稲毛川崎二ケ領用水事績』より)
その後も、この地では水争いが頻発しました。有名なのが、農民たちが名主宅を襲撃した「溝口水騒動」(1821年)です。
この年は干ばつがひどく、多摩川の水量が激減。長時間の日照りで溜池も干上がり、農民は田植ができない状態が続きました。そうしたなか、溝口村の名主・七右衛門が、近くの二ヶ領用水の分量樋を細工。川崎領へ水を送る樋口をふさぎ、自分の村へ水をまわしたことで、大騒動になりました。
『川崎の歴史 水と共同体』には、こう書かれています。
《すでに5月上旬と下旬、6月上旬にも、溝口村名主は川崎領村が派遣した樋口の番人を追い払ってこれを塞ぐなどの暴挙に出、川崎側の抗議に対し詫(わび)証文を入れていたが、あるいは「雨乞い洗垢離(あらいごり)」と称して村民を大勢召し連れ、銘々(めいめい)裸になって井筋へ飛び込み、川崎領口をさし塞ぐなどのことを重ねたのである。
7月6日川崎領の村民等は、分量樋の監視を自分たちの手で行おうと大挙して溝口へおしかけ、二ヶ領用水に架かる大石橋付近で溝口村民と出会うと、双方が投石や竹槍を振っての乱闘となり、さては熱湯をかけるなどの騒動で、ついに名主宅ほか2人宅が打ちこわされるという事件となった》
なお、近隣の生麦村の名主・関口家の日記によると、7月21日の調査で、同村の水田およそ36町のうち、植えつけが終了したのは16町で、残り20町は荒地と化し、雑草が生い茂っている状態でした。
久地円筒分水
こうした水争いに終止符を打ったのが、1941年、久地に完成した円筒分水(円形分水工)です。直径8メートルと16メートルのコンクリート造りの円筒が入れ子のようになっており、円筒の中央からサイフォンの原理で噴き出した水は、外側の円筒にあふれ、そこから4つの堀に分かれて流れていきます。
配水の比率は、4地区の灌漑面積に合わせた比率(川崎堀38.471m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、根方堀7.415m)により外周を区切っており、流量にかかわらず、正確に一定の分水が可能となっています。これにより、水争いは過去のものになりました。1998年には、国の有形文化財に登録されています。
なお、冒頭で触れた鷽ノ口(うそのくち)円形分水は、1953年3月に完成し、分水の穴は全部で47個。上村用水28個、佐口用水13個、小山用水6個の配分になっています。
うそのくち円形分水
円筒分水を発明したのは、農業土木技術者の可知貫一で、1914年(大正3年)、岐阜県の小泉村(現在の多治見市)に第1号が設置されました(現存せず)。
円筒分水の原理(『農業土木研究』第2巻1号所収「灌漑計画と放射式分水装置に就て」1930年)
可知は「日本は灌漑のもっとも徹底した国だが、灌漑方法については、悲しいかな最優の国ではない」として、
《水路幅を4分6分に割って、これで4と6の比に分水されているように取扱われるが、その間、別に(川底の高さや勾配を安定させる)落差工などがともなっていないから、水路内の水速が不均一なために水量比は決して4と6の比ではあり得ないのみならず、導水量の変化のために流速の分布状況も時により変化し、また分水点の上・下流における自然あるいは人為的の変化のためにも、水量比が変わるところが多い》
と、水量や地形によって正確に分水できないと説明、
《この不完全な分水法のために、部落町村等、あい対峙して争論を来すことも少なくない》
としています。
配水する水量を決めた切間石(長崎県「歴史公園 彼杵の荘」)
こうして開発された円筒分水は、以降、日本各地に広がっていきます。
たとえば、1956年、熊本県山都町にできた円筒分水は、農業用水を送るために造られた水路橋「通潤橋」から6キロほど上流にあります。これも、大小2つの円筒からできていて、中心の円筒1.5mから水が出て、直径6.3メートルの外側に水があふれでます。円筒分水の大きさは直径10.5メートルとなっており、2カ所の仕切り壁によって、通潤橋など2地区に水を7:3で分けています。
通潤用水 小笹円形分水(熊本県山都町)
可知が指摘したとおり、日本は世界でも有数に灌漑が発達した国です。
日本最古の人工用水路は『日本書紀』の神功皇后紀に記された「裂田溝(さくたのうなで)」で、4世紀初頭の完成と推測されます。逆に言えば、その頃から水争いが起きていた可能性が高いのです。
水争いはいつまでも続き、たとえば武田信玄も、争いを繰り返した3つの村に湧水を等配分したと伝えられます(三分一湧水)。こうした争いは、まずは円筒分水によって、ひとまずは決着がついたのです。
制作:2024年10月19日
<おまけ>
円筒分水は全国にありますが、そのなかでも久地円筒分水は初期のものにあたります。戦後、視察に訪れたGHQ(連合国軍総司令部)の技師によってアメリカに紹介されたとも言われています。
現在、久地円筒分水で潤った農地は市街地へと変わりました。二ケ領用水は農業用水としての役割をほぼ終え、いまでは憩いの場としての意味合いが強くなっています。
なお、2011年には、この地で「第1回全国円筒分水サミット」が開催されています。
神納用水路分水工(新潟県村上市)