ニッポン飢饉史
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飢饉の日本史
『凶荒図録』の世界
犬と鳥に食われる人間(『凶荒図録』)
平安時代末期、世情の不安を背景に「六道思想」が流行しました。すべての生命は六道を輪廻するが、生前に罪を犯した人間は、そのなかの地獄道や餓鬼道に落ちるというものです。六道は上から「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」で、いわゆる人間世界の下には「苦の世界」が4つも広がっているのです。
平安時代に作られた国宝『餓鬼草紙』はその思想を反映したものとされ、たとえば餓鬼のおぞましい姿が描き出されています。
『餓鬼草紙』(国会図書館HPより)
しかし、現実には、人間道はしばしば餓鬼道より悲惨でした。食糧不足になれば、たちどころにして飢饉となるからです。
『日本書紀』には飢餓の記録が頻出します。最古の記録は、崇神天皇5年で、「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」とあります。欽明天皇28年(西暦567年)には「郡国、大水により飢え、人がお互いに食べあった」と、いきなり食人の記録が書かれています。
1181年(養和元年)には、京都で4万2300人が亡くなった「養和の飢饉」がありました。鴨長明の『方丈記』には《築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり》とあって、市中に遺体があふれ異臭を放っていたことがわかります。
トリに食われる
1230年から数年間続いたのが、「寛喜の飢饉」です。極端な寒冷気候で、全国的な大凶作に。『吾妻鏡』には、《今年世上飢饉。百姓多以欲餓死》(寛喜3年3月19日)とあり、幕府は出挙米を拠出して救済に乗り出します。このとき、妻子や自分自身を「売却」する者が続出。幕府は当初これを認めませんでしたが、1239年、「飢饉の際の人身売買は有効」としました。
1460〜1461年(寛正元年〜2年)には、風水害や疫病で「人民の3分の2が死んだ」(『興福寺略年代記』)飢饉もありました。
江戸初期には「寛永の飢饉」(1640年〜)が起こります。この飢饉により、土地を売る農民が続出、1643年、幕府は「田畑永代売買禁止令」を制定します。
いわゆる近世の3大飢饉とされるのが「享保の飢饉」(1732年〜)、「天明の飢饉」(1782年〜)、「天保の飢饉」(1833年〜)です。死者は享保100万人、天明110万人、天保30万人といわれます。ちょうど50年おきに起きていることから、「飢饉50年周期説」が唱えられるようになりました。
享保の飢饉は、西日本をイナゴが襲ったことで起きました。このとき、伊予国・松山の作兵衛という農民が、父と長男が死んでもなお、麦の種を食べず、自分も餓死してしまいました。翌年、周囲の村はこの麦の種をまき、飢饉を切り抜けました。松山藩主は、後に作兵衛の功に対し米5俵を与え、追善供養を命じます。さらに40年後に、藩主は供養祭に毎年米1俵を与えるようになりました(『凶荒誌』ほか)。
作兵衛の死
また、同じく松山では、餓死で死んだ遺体の首に100両かかっていたことが話題になりました。それだけのお金があっても、食べ物を買うことができなかったのです(『農喩』ほか)。
ちなみに、享保の飢饉は江戸でも大きな被害を出し、その死者供養のため、隅田川の花火大会が始まったとされています。
100両あっても餓死
天明の飢饉は、冷害の後に噴火した岩木山と浅間山の火山灰によって発生しました。東北の南部地方は特にひどく、犬は1匹500文、猫は1匹300文で売買されました。獣肉もなくなると、奥州の村々では、食べ物を求めて各地を放浪しはじめる人が増え、しかしほとんどが空腹と疲労で行き倒れ、鳥や獣に食われたとされます(『民間備荒録』ほか)。
人間を食べた野犬は、その味を覚え、人間を襲うようになりました。しかし、人間を食った犬は、ことごとく人間に食べられました(当時は肉食禁止です)。
獣肉を食い尽くす
別の村では、金持ちにもかかわらず、食料の蓄えがなく飢えていた農家がありました。立ち寄った坊さんに男の子1人を預けたところ、一家は全滅したものの、少年は助かりました。農家は旅費200両を渡すも、坊さんは受け取らなかったと記録されています(『饑年要録』ほか)。
坊さんに救われた少年
このときは九州でも飢饉が広がっていました。
穀物はもとより、琉球芋、大根なども食い尽くし、葛・金槌・スミラというえぐみのある根っこまで食べました。医者である橘南谿がある村に行くと、人があまりに少なく、その理由を聞くと、老婆が「みな8里(32km)先の山奥にスミラを掘りに行っている」と答えます。往復60km以上歩いて、ようやくマズイ根っこを手に入れることができたのです(『続西遊記』)。
橘南谿と老婆
天明の飢饉では、食人の記録もかなり遺されています。青森県豊田村では、16才の少年が餓死した母と妹の死体を20日間かけて食べ、その後、15才の少年を殺害して食べました。山崎村(宮城県?)では、ある女が少年の死体を2人がかりで4日で食い尽くし、ついで1人の死体を自分だけで食べたとあります。この村では、父親が生きたまま子供の股に食いついていたとの話も残っています(『日本災異志』ほか)。
参考までに、江戸時代後期の旅行家・菅江真澄の旅行記も引用しておきます。
《なおも助かろうとして、生きている馬をとらえ、くびに綱をつけて屋の梁にひきむすび、脇差、あるいは小刀を馬の腹にさして裂き殺し、したたる血をとって、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。荒馬の殺し方も、のちには馬の耳に煮えたった湯を注ぎ入れて殺したり、また、頭から繩でくくって呼吸ができずに死なせるといったありさまでした。(中略)
そのようなものも食いつくしますと、自分の生んだ子、あるいは弱っている兄弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人々を、まだ息の絶えないのに脇差で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食った者はつかまって処刑されました。人肉を食ったものの眼は狼などのようにぎらぎらと光り、馬を食った人はすべて顔色が黒く、いまも生きのびて、多く村々にいます》(『菅江真澄遊覧記』天明5年8月10日)
父親の太股に噛みつく子供
天保の飢饉は、洪水や冷害による大凶作で、やはり東北では被害が大きくなりました。このときは、1文で米7粒しか買えなかっただの、小判でおにぎり3個買ったが、売った人間は死に、買った人間は生き残ったなどのエピソードが遺されています。また、乳児が母のおっぱいや父の太股を噛みきり、困ってその子供を海に捨てた、などの話もあります。
乳房噛みきり
この飢饉では全国で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、大坂では大塩平八郎の乱が起こりました。
「米穀高値に付 困窮之人多く」と書かれた大塩平八郎の施米文
明治18年、愛知県令(知事)だった勝間田稔の命令で、享保、天保、天明の3大飢饉の惨状を描いた『凶荒図録』が刊行されました。小田切春江が編集、木村金秋が挿絵を描いています。この本は「飢餓に備えよ」という啓蒙的な内容ですが、これまでのさまざまな飢餓話がイラスト化されているのが特徴です(今回は画像の多くを『凶荒図録』から転載しています)。
それまで『民間備荒録』などわずかしかなかった飢餓の絵が、この本によって大量に流布することになりました。飢餓話は、後世に出た本で次々にコピーされ繰り返し「ネタ」として使われていきますが、特にこの『凶荒図録』によって、飢餓の代表的な話が固まったといえます。
放浪者たち(『凶荒図録』)
本の冒頭は、二宮金次郎(尊徳)が飢饉の前兆に気づくエピソードから始まっています。天保の飢饉の前年夏、金次郎が栃木県二宮町(真岡市)でナスを食べたところ、その味が秋ナスのようでした。
《是(これ)、陽発(ようき)の気薄くして、陰気、既に盛んなり。何を以てか米穀熟するを得ん。予(あらか)じめ非常に備えざれば、百姓飢渇に及ばんとす》
金次郎は米不足を予測し、農民にヒエをまくよう勧めました。こうして、周囲が飢饉に襲われても食料不足に苦しまなかったのです。
二宮金次郎
『凶荒図録』の最後は、古橋暉皃(てるのり)が農民を集めて飢饉への準備を促したエピソードが書かれています。天保の飢饉を経験した老人を招き、「塩不足で、塩気のあるむしろを刻んで煎って食べた」という話を聞かせたのです。だからこそ、飢饉に備えよ、というところで完結しています。古橋は、日露戦争で米を備蓄したことでも知られます。
古橋暉皃
明治になって、大規模な飢饉は減りました。それは、交通の便の改善や、多様な品種の栽培が可能になったこと、農業技術の進歩などが大きな要因です。それでも、東北を中心に何度か飢饉が起きました。
そして、昭和に入った1930年から1934年にかけて、東北で大規模な飢饉が発生します。昭和東北大凶作とよばれるもので、女性の身売りが頻発します。これが世界恐慌などと相まって、戦争への契機となりました。食べる物がなければ、人は平気で道を踏み外すのです。
警官と村長に身売り相談
制作:2017年8月8日
<おまけ>
古橋暉皃は、2014年、安倍晋三首相が所信表明演説で取り上げたことから脚光を浴びました。ちなみに安倍首相は「地方創生のモデルケース」として紹介しています。以下、首相官邸のサイトから引用です。
《「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」
三河の稲橋村に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。
「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ。」
そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました。》
土のチリを吹いて食べた旅人(天保の飢饉、右に死体)