写真とフィルムの誕生

1920年代のフィルム工場
1920年代のフィルム工場


 世界の写真産業を牽引してきたコダックが、2012年1月、経営破綻しました。
 コダックは、1976年には、アメリカで発売されたカメラの85%、フィルムの90%を販売するほどの独占企業でした。しかし、デジタルカメラの普及についていけず、業態変換できないまま「連邦破産法11条」の適用を裁判所に申請したのです。
 そんなわけで、写真フィルムの誕生です。


 世界初の写真は、1824年にフランスのニセフォール・ニエプスが開発したヘリオグラフィですが、これは感光剤にアスファルトを使っていて、撮影に8時間もかかりました。

版画を撮影した世界最古の写真
版画を撮影した世界最古の写真
(ニエプス、1825年、ウィキペディアより)

世界最古とされてきたニエプスの写真
これまで世界最古とされてきたニエプスの写真
(ニエプス、1826-27年、ウィキペディアより)



 写真が実用化したのは、1839年、フランスのダゲールが完成させたダゲレオタイプからです。銅版の上に銀メッキを塗った板を感光させることから、銀板写真と呼ばれます。
 正確には、

 ①銀メッキした銅版を磨き、ヨウ素にさらして感光性にする (ヨウ化銀の膜を形成)
 ②カメラの中で露光し、水銀蒸気によって像を可視化する(水銀アマルガムを形成)
 ③食塩水(後にチオ硫酸ナトリウム)で定着させ、水で洗い、乾燥させる

 で、現在は感光剤に臭化銀などを使いますが、基本原理は昔も今も一緒です。

ダゲールが撮影したダゲレオタイプの写真
ダゲールが撮影したダゲレオタイプの写真
(ダゲール、1838-39年、ウィキペディアより)


 ダゲレオタイプは感光時間が10〜30分ほどかかったため、人物写真は撮りにくかったものの、風景写真はかなり美しく撮影できました。ただし、銀板を直接感光させるため、焼き増しができないのが問題でした。
 また、この年、アルフォンス・ジルー商会が発売したダゲレオタイプのカメラが、世界初の一般向けカメラということになります。 

ダゲレオタイプのカメラ 
ジルー商会が発売したダゲレオタイプのカメラ(1839)
 
 なお、ダゲールの特許をフランス政府が買い上げ、公開したことから、写真は広く普及していくことになりました。

島津斉彬のダゲレオタイプ写真
市来四郎が撮影した島津斉彬のダゲレオタイプ写真
(1857年、ウィキペディアより)


 実はダゲレオタイプ発明以前に、イギリスのタルボットがカロタイプを発明しています(ただし特許取得は1841年)。これが、史上初のネガ-ポジ写真で、1分ほどで撮影可能。ダゲレオタイプに 比べ画質は劣るものの、複製が可能になりました。

タルボット世界最古の紙焼き写真
タルボットが別荘から撮影した世界最古の紙焼き写真
(1835年、ウィキペディアより)


 1851年、イギリスのフレデリック・スコット・アーチャーがコロジオン法を開発します。湿板と呼ばれ、露光時間が5〜15秒と短くてすみ、複製も可能だったことで、ダゲレオタイプを駆逐しました。
 湿板はガラス板を使うんですが、板が濡れたままの状態で撮影し、すぐに現像する必要があるので、当時の写真家は撮影のたびに大荷物を背負って、テント暗室のなかで現像していました。

カメラマンカメラマン
1876年のカメラマン

坂本龍馬
有名な坂本龍馬の写真は湿板写真


 1871年、イギリスのリチャード・リーチ・マドックスが、乾燥したまま使え、いつでも現像できる乾板写真を発明します。これは臭化銀をゼラチンに混ぜた感光乳剤をガラス板に塗ったもので、ついに動きのあるものが撮影可能になりました。乾板は1878年には工業生産されるようになり、あっという間に湿板を駆逐します。

コダックの乾板
コダックの乾板


 こうした状況下、コダックは1880年(明治13年)、ジョージ・イーストマンによって乾板メーカーとして創業されました。
 では、乾板工場に行ってみましょう。

乳剤細分機乳剤濾過器
左が乳剤(感光剤)の細分機、右が乳剤濾過器

ガラス板洗浄機
ガラス板洗浄機

フィルム乳剤をガラス板に塗布する機械
乳剤をガラス板に塗布する機械

フィルム原板
原板の乾燥


 コダックは1885年には紙をベースにした世界初のロールフィルムを開発し、エジソンと協力し、映画フィルムの基礎を作ります。このとき規格化された35mmフィルムが、現在でも基本となっています。

 画期的だったのは、1888年に登場したコダック初のカメラです。これは100枚撮影可能なロールフィルムが内蔵されていて、撮影後はコダックに送り返すと、10ドルでプリントと一緒に新しいフィルムを装填したカメラが戻ってくるというシステム。当時の宣伝文句は「あなたはボタンを押すだけ。あとはコダックにお任せ」(You press the button,we do the rest.)でした。
 このカメラが、庶民にまで写真を普及させるきっかけとなりました。

コダックの広告
コダックの広告(ウィキペディアより)


 1889年、コダックはセルロイドを使った写真フィルムを開発します。セルロイドはニトロセルロースと樟脳などから作られる世界初の合成樹脂で、アニメに使う「セル画」の語源になったものです。
 この発明で映画が長足の進歩を遂げるんですが、問題は燃えやすいことでした。映写機の熱で発火することも多く、その後、アセチルセルロースを使った不燃性のフィルムが誕生します。


 写真が日本に伝わったのは早く、幕末には下岡蓮杖、上野彦馬の2大職業カメラマンが営業していました。
 乾板写真が入ってきたのは1883年(明治16年)で、江崎礼二が隅田川で行われた水雷発火試験で爆発の瞬間を撮影したのが最初だとされています。
 さらに、1889年には「最近、乾板で写真をやってみようという人が増えた」として、工科大学のバルトンや小川一真が中心になって、日本初のカメラ同好会・日本写真学会が設立されています。ここでコダックのカメラが使われた可能性もありますな。


水雷爆発
水雷爆発の瞬間
(小学館『明治時代館』より転載)


 その後、コダックは1895年に小型カメラ「ポケットコダック」を5ドルで、1900年に「ブローニー」という格安カメラを1ドルで発売し、写真を一気に普及させました。1912年の「ヴェストポケットコダック」は世界最初の大量生産カメラとされています。

ポケットコダックヴェストポケットコダック
「ポケットコダック」(1896)と「ヴェストポケットコダック」(1912)


 1903年(明治36年)には、小西本店(後のコニカ)が日本初の市販カメラ「チェリー手堤用暗函」を発売しますが、当時はまだ日本の技術力ではカメラは作れませんでした。日本初の国産カメラは、1929年、日独写真機商店(後のミノルタ)が発売した「ニフカレッテ」です。

チェリー手堤用暗函
チェリー手堤用暗函(1903)

 では、フィルムはいつ作れるようになったのか?
 国産初の乾板は東洋乾板が1921年(大正10年)にようやく完成させます。
 国産ロールフィルムは、1928年、旭日写真工業が「菊フヰルム」を、翌1929年に小西六本店が「さくらフヰルム」を、1931年に大日本セルロイドが「大日本フヰルム」を発売しています。
 そして、1934年、大日本セルロイドが分社化して富士写真フイルムが誕生。すぐに東洋乾板を吸収合併し、まもなく国産初の映画用ポジフィルムが完成、翌1935年に写真フィルムも完成するのでした(もちろん白黒)。

 ところが、国産の白黒写真フィルムができた年には、コダックが世界初のカラーフィルム「コダクローム」を発売しているんですな。彼我の技術力の差は大きかったんですね。
 そして、1940年になって、ようやく小西六が国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」を発売するのでした。

コダックの工場
1920年代のコダックの工場


 時代は飛んで、1975年には、コダックは世界で初めてデジタルカメラを開発しています。
 世界を写したい……そんな人々の願望を、コダックはひたすら実現してきたのですな。おそるべき会社です。


制作:2012年1月22日


<おまけ>
 同じフィルムメーカーの富士フイルムは、現在、液晶テレビの偏光層保護フィルムなどに注力しています。また、フィルムに使うゼラチンの均質化技術は人間の肌にも応用できるそうで、医療や化粧品などにも参入しています。
 また、コニカミノルタはすでにフィルム、カメラ事業から完全撤退し、光ディスク用レンズや計測機器、印刷の分野で実績をあげています。圧倒的な独占企業だったからこそ、コダックは業態転換に失敗したんでしょうね。
活動写真の撮影
活動写真の撮影も簡単(1920年代)。コダックは映画フィルムでも圧勝
 
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