110年前の「日本初飛行」
日本で初めて空を飛んだ徳川好敏の告白

徳川好敏による日本初の飛行
徳川好敏による日本初の飛行(1910年12月19日)



 日本で最初に動力飛行機が飛んだのは、1910年(明治43年)12月14日のことです。この日、日本陸軍の日野熊蔵大尉が乗ったドイツ製単葉機「ハンス・グラーデ」は代々木練兵場の滑走路を駆け出し、ふわりと空を飛びました。当時の様子は、時事新報(12月15日)に次のように報じられています。

《ちょうど2時頃になって、風もようやく穏やかになったので、グラデー式は天幕(テント)の中から引き出されて滑走飛揚の地点に両翼を張った。

 そして日野大尉は地上滑走の試験にかかった。観衆はにわかにどよめいた。かくて推進器回転は次第に猛烈になって、北方に向かって滑走した。その疾(はや)いことは全速の自転車も及ばないほどで、2〜3丁のところより左方に回転して停止したが、左翼の支柱を破損したとかで、すぐに天幕内に入れ修繕をした。
 
  3時頃になって、再びグラデー式は滑走場に引き出された。ちょうど風も吹かなかったので、大尉はこの機を逸しては飛揚の時なしと、ひらりと坐乗して、直ちに滑走を始めた。北方または西方にとくるりと場内を滑走し、万一の警戒のため2台の自転車が尾行して砂塵を揚げて疾走したが、大尉の操縦は実に巧妙なもので、前後左右の回転はあたかも手足を使うがごとくであった。

 4時になると風はますます凪いだので、約40〜50間も滑走したところで後輪が浮き上がったかと見る間に、大鵬(おおとり)の羽うつがごとく次第次第に地上を離れ、約13〜14メートルも飛揚したが、直ちにまたフワリフワリと舞い下ったときは、広い練兵場も破れるばかりの喝采であった》

 しかし、報道によって誤差があり、空を飛んだとも、大きなジャンプをしただけとも言われ、どのような飛行だったのかよくわかりません。

日野大尉が乗ったグラーデ式
日野大尉が乗ったグラーデ式



 現在、「日本人初飛行の日」は12月19日です。つまり、日野大尉の記録は抹消されたことになります。そして、初飛行の栄誉を担ったのは、陸軍の徳川好敏大尉です。12月19日、まず徳川が飛行に成功し、その後、日野も成功します。当時、発明家として知られた日野の方がはるかに有名人でしたが、結果として、歴史に残ったのは徳川になりました。

 なぜ日野の記録が抹消されたのかは諸説あります。
●そもそも飛行と言えるレベルではない
●徳川家の血を引く人物に栄誉を与えたかった
●協調性がなく借金トラブルを抱えていた日野が嫌われていた
 などです。実際、この後、日野は福岡に左遷されています。

 徳川と日野は、1910年、操縦技術を習得するため、フランスのアンリー・ファルマン飛行学校にそろって派遣され、飛行機の買い付けなどもおこなっています。もしかしたら、2人の間になんらかの確執があったのかもしれません。ともあれ、日野が左遷される一方、徳川は新設された航空兵科を育て、その功労により男爵になっています。

日野大尉が開発した日野式飛行機
日野大尉が開発した日野式飛行機



 さて、歴史的な大殊勲をあげた徳川ですが、その肉声はほとんど伝えられていません。しかし、『科学知識』(1933年12月号)に、長文のインタビューが掲載されていました。

 そこで、以下、その内容を転載しておきます。はたして、日本初の飛行はどのようにおこなわれたのか。面白いことに、インタビューでは日野のことが一言も触れられていません。やはり、日野の存在は陸軍にとってタブーだったことがわかります。
(なお、以下の文章は、基本的に原文のままですが、一部を読みやすく改変しています)

ライト兄弟が乗った飛行機
ライト兄弟が乗った飛行機



 自分が臨時軍用気球研究会の命を受けて渡欧したころは、欧州の飛行機もまだ試験期を脱せず、ただ飛ぶだけが問題であった。もちろん武装などはまったくなく、当時一番進歩していたフランスの軍用機でも、偵察者を同乗させて偵察飛行をするくらいがせいぜいであった。

 飛行機といっても、まことに危ないもので、速力も高度も時間も、今とは比較にならぬわずかなものであったが、それでも文化の先端であり、驚異の的であった。

 その頃、自分が練習してみたフランスのファルマン飛行学校などは、いわば寺小屋で、どうにか空中を単独で飛行ができれば、それで飛行免状をくれたものだった。

徳川好敏がフランスで残したノート
徳川がフランスで残したノート(所沢航空発祥記念館)



 自分が最初に習ったのは、アンリー・ファルマン式の複葉機で、翼は大きな障子と選ぶところなく、小骨の太さも1.5センチと2.5センチくらいの長方形の弱い木材で、これに片面だけ布を張り、張線は亜鉛引きの鉄線を用いてあった。

 発動機はノーム50馬力回転式で、木製の推進器がついていた。構造も薄弱で、今のガッチリした、それでどこか軽快な姿をしている軍用機などとは比べものにならない。操縦者は前方の木板製の椅子へ腰掛けていて、風に吹きさらしであった。

 エンジンは後部についていた。飛行すると翼は今にも折れそうに膨らみ上がる。上翼の後に垂れているエルロン(補助翼)は、左右の連結はなく、飛行中、風の抵抗によってほぼ翼面と水平になるので、傾斜した場合はその一方を引いて安定をはかるのであった。

 明治43年(1910年)12月に、自分はフランスから持ち帰ったこのアンリー・ファルマン飛行機を組立てて、代々木練兵場でわが国最初の飛行を試みたのである。

アンリー・ファルマン式
アンリー・ファルマン式



 第1日の14日には、どうしても発動機の調子が悪くて、うまく回転をしないので、その調査に一日を費やした。いろいろ調べた結果、発動機のマグネットが、フランスから船で来る間に湿気を帯びてしまい、火花が飛ばなくなっていたことがわかった。
 
 しかし、代わりの部分品などはないので、致し方なく蓄電池を積み込んでマグネットの代用をさせ、やっと調子よく回転するやうにした。その翌15日は滑走をやって調子を試した。

 かくて19日になった。

 19日は風も穏やかで、発動機の牽引力も170キロを示してくれたから、これなら大丈夫と、午前6時35分から滑走を始めた。5回ばかりはまったく滑走だったが、6回目には1メートルの高さに浮び、7〜8回目には2メートル、9回目には3メートルと、だんだん調子がわかってきたので、午前7時55分、予定のごとく離陸して、代々木原を左まわりに大きく円を描きながら飛んだ。

 高さは70メートルもあったろうか、2回まわって4分間に3000メートルの距離を飛んだわけだ。新聞では大々的に「日本最初の飛行」と書いてくれた。飛んだとは言えぬくらいだが、とにかくわが航空史の第1ページだ。

 翌明治44年3月には、所沢飛行場が開かれ、飛行将校の養成を始めた。飛行場の設備といってもなにもなく、畑の中の広場にすぎなかった。

所沢飛行場でライト式に乗る日野大尉
所沢飛行場でライト式に乗る日野大尉



 自分はアンリー・ファルマン式のほかに、新着のブレリオ単葉を操縦して飛行を教えた。当時、ブレリオ機はフランスから海峡を横断して、イギリスへ飛んだので有名になり、世界的優秀機と言われた。トンボのような型の単葉であるだけに、いかにも飛べそうに考えられ、世間の受けもよかった。

 翼はリボンワイヤーで固定し、エルロンの代わりに撓翼(ちょうよく)と称して、翼をたわめて安定をとるようになっており、発動機は機首につけ、胴体は座席のところだけ布で覆われていたが、尾部は骨格が露出していた。降着裝置はオートバイのような車輪を、スプリングで吊した構造になっていた。

ブレリオ単葉機
ブレリオ単葉機



 このブレリオ機は、フランス滞在中には一度も手がけたことがなく、所沢で荷を解いて初めて見参した始末だったが、飛行機に変わりはあるまい、きっと飛ばせてみせると、固い信念の下に引き受けたのだ。ずいぶん骨を折って組み立て、秩序的に飛行練習をやり、やっと一人で飛べるようになった。忘れもしない4月6日のことだ。

 現東大教授の岩本周平君が、当時気球隊づき技師をしておられたので、初めて同乗飛行をした。13日には、伊藤中尉を乗せて1時間9分に79キロ600メートルを飛んだ。その年の6月には最初の野外飛行として、所沢・川越の往復飛行をやったが、タンクにガソリンを送るのが思うようにいかず、致し方なく川越の南の麦畑に不時着陸をしたところが、転覆して自分も伊藤中尉も擦過傷を負った。大したことでもなかったのに、新聞の方では飛行機墜落の号外を出して、世間を騒がしてしまった。

 自分達が教官で、指導した有為の将校は大勢であったが、残念なことには、初期の人達は貴い犠牲になってしまった。 故人になった岡樽之助、武田次郎、木村鈴四郎、徳田金一郎、坂元守吉の諸君などは、いずれも第1期生で、各兵科選択の優秀な青年将校であった。

 自分は飛行機修業にフランスに滞在したが、教わったのは操縦だけで、飛行機や発動機の組立分解は、一切秘密にして見せてもくれなかったから、日本へ帰ってきて荷を解いて、組み立てや分解となるととんと不案内で、技師を相手に手探り のような調子でやったものだ。

 破損しても替わりの部分品はないのだから、鉄工場で似寄りの品を作らせて間に合わせた。

 12月の代々木の飛行でも、滑走中にフランスからつけてきたプロペラを凹地に突き入れて折ってしまった。よんどころなく、民間飛行家の奈良原三次(ならはらさんじ)男爵からノーム発動機についていた鉄製のプロペラを借用して飛んだ。こんな無理な間に合わせも、たびたびやったものだ。

 その後はブレリオ・ファルマンの他に、自分達が設計した研究会式を使用した。それは新聞などでは徳川式と言っていた が、ファルマンと同じくらいの性能のもので、機体はなるべく国産材料を用いたから、 航空工業の先鞭とも言えよう。

徳川式(研究会式)
徳川式(研究会式)



 その後、飛行機の研究も進み操縦にも慣れてきたので、帝都訪問や横浜訪問などがおこなわれ、飛行家も新聞では鳥人と言われるほどになった。次いで難関とされた函嶺越え(箱根の峠越え)も無事に成功し、飛び石づたいではあるが、名古屋を経て大阪への距離を敢行するに至った。所沢を出発するとその先には飛行場がなく、名古屋でも大阪でも練兵場へ着陸した。

 わが陸軍の飛行機が空を飛ぶようになってわずか4年目の大正3年(1914年)には、日独戦が始まった。飛行隊にも動員が下り、自分も出征した。その頃の陸軍機はモーリス・ファルマン式複葉と、ニューポール式単葉であった。前者は俗に丁髷(ちょんまげ)飛行機などと言われ、機の前方に昇降舵がついていた。発動機はルノー70馬力で速力も遅く、偵察任務がせいぜいであった。

モーリス・ファルマン式複葉機
モーリス・ファルマン式複葉機



 敵はルンプラー・タウベを、たった1台持っていただけだからよかったが、あれが西部戦場であったら、わが飛行隊は殊勲どころか、ひとたまりもなくやられてしまったろう。

 なんにしても制空権を獲得することが、戦勝の第一要件で、敵に空を侵されたら地上作戦は破れてしまう。戦闘・偵察・爆撃いずれにしても、優秀な空中戦士によってはじめて制空の実はあがるので、高射砲隊のみを頼りにしていてはとても敵機駆逐はおぼつかない。

 わが航空界の現況は、学問や技術の上では欧米に比して遜色はない。設計・材料・製作など純日本の立派な飛行機が出来ているが、航空普及の程度になると、環境の相違もあるが欧米に遠く及ばないのが残念だ。皆様の発奮を望んでやまない。


 
 インタビューは以上です。

 現在、所沢飛行場は航空公園になっており、所沢航空発祥記念館が設置されています。ここに、徳川が搭乗したアンリー・ファルマン式の飛行機(実物)が期間限定で展示されています。同機は敗戦後、アメリカに接収されましたが、1960年に返還されました。さっそく見てきましたが、こんな飛行機で空を飛ぶの、実際にはかなり恐怖だったでしょうね。

アンリー・ファルマン式の飛行機
アンリー・ファルマン式の飛行機(所沢航空発祥記念館)


制作:2021年9月19日

<おまけ>

 文中に出てくる奈良原三次は、1911年5月に自作の複葉機で飛行に成功し、翌年、日本で初めての民間飛行場を千葉県の稲毛海岸に開設したパイオニアです。

奈良原式「鳳号」
川崎競馬場で飛ぶ奈良原式「鳳号」


 また、徳川らとほぼ同時期にフランスにいた滋野清武は、1912年1月、フランスで日本人初の万国飛行免状を取得しています。1912年、陸軍で飛行を教える教官となりますが、やはり徳川と軋轢があり、再び渡仏してフランス陸軍航空隊でエースパイロットになるのでした。

 さらに、伊賀氏広は、1911年、国産第1号となる「伊賀式滑空機」を制作。後に日本航空協会を創設しています。


伊賀式単葉飛行機
伊賀式単葉飛行機
 
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