富士山頂
驚異の画像ワールドへようこそ!
富士山頂へ行ってみた!
「日本最高峰富士山剣ケ峰 三七七六米」の碑がそびえ立つ頂上
富士山は7月1日の山開き以降、毎年2ヶ月で20〜30万人が登ると言われています。いまでは頂上で携帯電話も使えるようになり、どう見ても秘境ではないですが……それでも頂上までたどり着くのは容易ではありません。
ちなみに2004年8月18日には民主党の菅直人が富士山の登頂をしています。以下、菅直人の日記より転載。
《今日午前11時過ぎ、生まれてはじめて富士山の山頂に立った。昨日昼過ぎ、須走り口から登り始め、7合目の太陽館で一泊。今日6時過ぎから登り始め11時過ぎに登頂。昨日は雨、今日は強風と悪天候であったが、山中湖の周辺は良く見えた。頂上では残念ながら人が吹き飛ばされるようなすごい風で、お鉢まわり(山頂を一周すること)はできなかった。泊めてもらった7合目の太陽館ではうまい豚汁がお変わりし放題で、4杯も食べた》
7合目の豚汁というのは、登山者にはけっこう有名なんですが、オレはここに泊まったことはないので食ったことがありません。残念だが。
それはそうと、菅直人がやりたかったお鉢まわりですが、実はこれって予想外に大変なんだな。
苦悶のお鉢まわり
上の画像は戦前に富士山頂郵便局が発行した絵葉書です。この荒々しさを見ると、ちょっとやる気が失せるでしょ?
写真で見るとこんな感じ。
頂上にある巨大火口「お鉢」と旧富士山測候所
左の写真の円内にあるのが富士山測候所だから、その巨大さが分かると思います。
さて、この富士山測候所がかぶっている帽子みたいのが富士山レーダーです。1999年11月1日にその役割を終え、現存していませんが、この富士山レーダーの建設は非常に困難なプロジェクトでした。NHKの『プロジェクトX』第1回でも取り上げられたので、知ってる人も多いでしょうけれど。
というわけで、今回はこの富士山レーダーについて書いときます。
富士山頂で最初に気象観測が行われたのは明治13年(1880)年8月。明治28年(1895)には、野中至が山頂の剣が峰に私設の観測所を設立しています。
昭和7年には中央気象台臨時富士山頂観測所が設置され、通年観測が始まりました。
野中至の私設観測所
昭和34年(1959)、伊勢湾台風で5000人以上が死亡。この惨事を受け、富士山頂に気象レーダーを設置することになりました。予算が通過し、着工したのは昭和38年5月。
このレーダードームは、風速100mに耐えるよう、アルミ合金で作られていました。直径9m、高さ7mの巨大な“鳥籠”で、骨組みだけで重さ620kgもありました。
山頂まではヘリコプターで一気に運ぶしかありませんでしたが、このプロジェクトの総責任者である気象庁の藤原寛人測器課課長の『富士山頂』という本によれば、
《(ヘリの)シコルスキーS62は下界附近においては600キログラムを運ぶことの能力はあった。だが、空気の密度の薄い富士山頂においては、揚力が減殺され、スーパーチャージ型エンジンをフルに働かせても、420キログラムが限度であった。……あらゆる重量軽減をほどこしても、尚制限重量を80キログラムオーバーしていた》
この状態ではホバリング(空中停止)は不可能なので、エスケープ(置き逃げ)することになりますが、
《置き逃げといっても、どこでもいいから置いて逃げるエスケープではなく、鳥籠の置き場所には1センチの狂いもあってはならなかった》
という厳しいものでした。
昭和39年(1964)8月15日、レーダードームの空輸が行われますが、運悪く山頂は無風状態。これでは揚力が得られないため、かえって危険度が高まるのです。ですが、最悪の条件下、奇跡的にエスケープに成功、ようやく富士山に気象レーダーが誕生したのでした。
総責任者の藤原寛人は、昭和41年に退官し、作家生活に入りました。筆名は新田次郎。『強力伝』(第34回直木賞受賞)や『八甲田山死の彷徨』『孤高の人』などの山岳小説で有名ですね。
更新:2005年5月15日
<おまけ>
頂上には浅間神社があるので、参拝しましょう。
これが富士浅間神社
ちなみに富士山の頂上(8合目以上)は、現在浅間神社の所有になっています。従来は国有地で、神社に無償貸与してたんですが、1957年に神社側が行政訴訟をおこし、1974年、最高裁で国が負けました。こうして123万坪という巨大な土地が神社のものになり、富士山頂は日本国民のものではなくなってしまったのでした。
浅間神社奥の院からの日の出(戦前)
広告