幻の「富士山麓」開発計画
登山鉄道から河口湖干拓まで

富士山(1930年頃)
富士山(1930年頃)


 富士山の麓にある「本栖湖」には、こんな伝説が残されています。
「その昔、あまんじゃくという大男がいて、一晩で日本一高い山を作ろうと、せっせと土を掘ってはモッコで運び出した。しかし、東の空が白んで来たので、最後のモッコの土をあけて逃げ去った。そのときできた山が富士山で、最後のモッコの山は大室山、土を掘った跡へ水が溜まったのが今の本栖湖だという」

 富士山の北麓にある富士五湖は、西から本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖となっていますが、河口湖や山中湖の発展に比べると、本栖湖、精進湖、西湖の観光地化は進んでいません。

 当然ですが、富士山の麓には広大な土地が広がっています。しかし、火山性の土地は農業に向くものではないので、昔から、なんとかこの大地を開発したいと考える人がたくさんいました。今回は、そんな富士山麓の「幻の開発史」をまとめます。

富士山と大室山
富士山と大室山(1930年頃)


 富士山周辺の鉄道計画はいろいろありますが、かなり初期のものが、御殿場から甲府を経て、長野県の松本まで鉄道を敷く計画です。長野の生糸を横浜に送るために計画されました。これが、甲州財閥の祖といわれる若尾逸平が中心になった「甲信鉄道」で、1886年(明治19年)に計画が立ち上がります。しかし、かなり無謀な工事だったことから、計画は停滞。その後、中央本線の敷設で、計画は流れました。

甲信鉄道
甲信鉄道


 富士山の北辺を走る中央本線が甲府まで延伸されたのは、1903年のことでした。甲府と、すでに開通していた東海道線を南北に結ぶ電車が身延線です。身延線は、1913年(大正2年)、富士身延鉄道として開業し、1928(昭和3年)に甲府駅までたどり着きました。
 
 この段階でも、電車で富士山に向かうのは不便でした。北に中央線、南に東海道線、西に身延線、東に旧東海道線(御殿場線)があれど、どの駅も富士山から非常に距離が離れているからです。

 そこで、堀内良平が創業したのが、富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)です。中央線の大月から富士吉田(現在の富士山駅)まで存在していた馬車鉄道を整理し、1929年、鉄道開通。1950年には富士吉田から河口湖まで線路が伸びました。こうして、富士五湖へのアクセスは格段に向上したのです。

富士山麓電気鉄道
赤い線が富士山麓電気鉄道の構想路線


 堀内良平は、富士山麓電気鉄道の設立に際して、富士山の北麓を以下のように絶賛しています。

・富士五湖は太古の静寂をしのばせる
・1000年の姿態を競う青木ヶ原の樹海は神秘的壮観
・春はツツジ、馬酔木、しゃくなげ、富士桜などが咲き乱れる山岳の風趣
・夏は高原で船遊び、秋は紅葉、冬はスケート、スキーができる
・東京帝大、慶応、早稲田、一高のグラウンドなど学校関連施設が多い

東大富士演習林
1925年にできた東大富士演習林(現・富士癒しの森研究所)


 そこで、堀内は、アメリカのレーニア山国立公園をモデルに、鉄道を敷き、別荘地やホテルを整備、さらに巨大競技場を作り、大観光地にする計画を立てたのです。堀内は鉄道を、御殿場(当時の東海道線)〜山中湖〜富士吉田〜本栖湖〜下部温泉(身延線)へ結ぶ構想を持っており、実現すれば、富士山をぐるり一周するはずでした。しかし、昭和初期の不況や戦争により実現しませんでした。

富士山麓電気鉄道
富士山麓電気鉄道の路線構想図


 1948年、富士山麓電気鉄道は3つの新しい路線敷設を申請します。

○富士吉田〜御殿場(御殿場線)
○河口湖〜富士宮(東海道線)
○山中湖〜浅川(中央線の高尾駅)

 ですが、終戦からわずか3年後ということもあり、やはり実現することはありませんでした。

富士登山
かつての富士登山


 霊峰・富士山に登りたい人は多いですが、富士登山はかなり大変です。
 そこで、頂上までの鉄道計画も頻繁に立ち上がりました。

 1923年(大正12年)に設立された富士登山鉄道は、富士吉田5合目からの鋼索鉄道(ケーブルカー)敷設を申請しますが、却下されています。

富士登山鉄道のケーブルカー構想
富士登山鉄道のケーブルカー構想(国立公文書館)


 1935年(昭和10年)には、元貴族院議員で貴金属商だった山崎亀吉が、頂上までの地下ケーブルカー構想を立案します。直径16mのトンネルを掘る「モグラ式ケーブルカー」というもので、麓から40分で山頂に到着する計画です。1940年の開催を目指した東京五輪に向けて、5合目と頂上にホテルを作る予定でしたが、やはり許可は下りません。

 村串仁三郎『国立公園成立史の研究』によれば、明治から敗戦まで、少なくとも7回、富士登山鉄道の計画が浮上したとされますが、この流れは戦後も続きます。

 1947年(昭和22年)、5合目まで自動車道路、5合目から山頂までケーブルカーという構想が持ち上がりますが、国立公園を管轄する厚生省(当時)の反応は厳しいものでした。

 1950年、文化財保護法が成立すると、5合目より上の開発は難しくなります。1952年、文部省が富士山全体を天然記念物に指定し、1956年に厚生省が五合目以上を特別保護地区の候補としたことで、5合目以上の開発は非常に困難になりました。

富士山頂
富士山頂


 しかし、1963年、富士急が山頂までの地下ケーブルカー計画を公表します。「富士山地下鋼索鉄道」というもので、最深部は地下35.4メートルになる予定でした。ケーブルカーは5合目から8合目、8合目から山頂までの2路線。山頂までは約12分ほどで到着する見込みでした。この構想は「ハイヒールで日帰り登山」などと宣伝され、大きな話題となりましたが、やはり実現はしていません。

 5合目より上の開発は難しくなったものの、逆に言えば5合目以下は開発が可能です。その結果として、1964年に富士スバルラインが開通します。

 2008年には、富士スバルラインを線路に換え、登山鉄道を走らせる計画が生まれました。道路より鉄道の方が環境への負荷が小さく、世界遺産にふさわしいというのが理由です。スバルラインの入口に富士山麓駅を新設し、道路に沿って線路を敷く計画です。これなら、冬場でも5合目まで観光に行くことが可能です。

富士吉田から見た富士山
須走登山道(1930年頃)


 さて、東京電力の元となった東京電燈は、富士五湖(西湖と河口湖)の水を水力発電に使っていました。これに目をつけたのが日本軽金属で、東京電燈が使っていない本栖湖で発電して、アルミニウム製造用の電力を確保する計画を立てます。

 本栖湖は面積こそ3番目ですが、水深が125mと非常に深く、膨大な水量を誇っています。湖から700mほど先には富士川の支流があることから、ここまで水路を引けば十分な発電が可能なのです。しかし、やはり、こちらも実現しませんでした。

 本栖湖の発電計画には、大きな問題がありました。
 実は、本栖湖、精進湖、西湖の水深は常に一緒なのです。ということは、おそらく湖底で3池はつながっており、下手に本栖湖から疎水を引けば、精進湖、西湖の水も流入し、収拾がつかなくなってしまう可能性があったのです。

 そのこと自体は古くからわかっていましたが、明治時代にはそれを承知で、更に大規模な土木プロジェクトが立案されています。それが河口湖開墾計画です。

河口湖開墾計画
河口湖開墾計画(『地学雑誌』明治29年8月号)


 前述のとおり、富士五湖の一帯は火山灰地なので、農業に向きません。そのうえ、大雨が降ると、池の水が氾濫し、しばしば浸水していました。それが、この地が貧困だった理由です。

 そこで、まず河口湖の水をトンネル経由で富士吉田の新倉に流します。この水は、最終的に相模川に流れていきます。河口湖は完全に乾きますが、その土地は、長年の水のおかげで肥沃なことがわかっています。次いで、西湖から疎水により水を引っ張ってくれば、干拓された河口湖は豊かな農地となるのです。

河口湖のトンネル
河口湖のトンネル(同)


 しかし、この計画も流れてしまいます。やはり、西湖の水を疎水しても、本栖湖・精進湖の水に加え、さらに加えて膨大な湧き水が押し寄せるからです。しかも、流れてきた水は溶岩流「丸尾(まるび)石」に飲まれ、ほとんどが地中に流れて灌漑できないと判断されたからです。

 このように、富士山では、多くのプロジェクトが生まれ、そして消えていったのです。


制作:2020年3月9日


<おまけ>

 富士五湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)の名前をつけたのは、富士山麓電気鉄道(富士急行)の創業者・堀内良平だとされます。堀内は、周辺のバス会社を次々に買収し、さらに富士急ハイランドなどを作り、一帯の観光地化を進めました。
 堀内は、ある日、後藤新平からミネラルウオーター「エビアン」の話を聞き、帝国ホテルで試飲します。このとき、身延鉄道・下部温泉の名水を商品化することを思いつき、それが日本初のミネラルウオーター「日本エビアン」(富士ミネラルウォーター)の発売につながります。1929年(昭和4年)のことでした。

富士急行大月駅
富士急行大月駅
 
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