「船絵馬」の世界

船絵馬
左から徳悦丸、神悦丸、永楽丸(1878年)


 船の科学館には、いろんな船の模型が大量に並んでるんですが、これはその中のひとつ「朱印船」です。

船絵馬 船絵馬
朱印船の模型と元絵


 どうして400年前の船の形がわかるかというと、模型の奥に見えるような絵が残ってるからですね。この絵は、「奉掛」(かけたてまつる、ほうかい)と書いてあることから、寺社に奉納されたものだとわかります。正確には、寛永11年(1634)、長崎代官・末次平蔵が所有する船の船頭が、長崎の清水寺に奉納した絵馬です。
 実は朱印船の画像はきわめて少なく、長崎と京都の清水寺に奉納されたものがほぼ唯一の資料です。

 こうした船が描かれた絵馬を「船絵馬」と呼んでいます。

 もともと絵馬は、雨乞いや豊作祈願の際、生きた馬を奉納したことから始まりました。しかし、

《神馬を牽(ひき)奉る事及さる者、木にて馬を造(つくり)献す、造馬も及さるものは馬を画(えがき)て奉るなり、今、世俗(ひと)、馬にあらで種々の絵を図して献上事になりぬ》(『神道名目類聚抄』巻3)

 ということで、貧乏人は馬の絵を描いた板を奉納しました。それがいつの間にか、馬以外の絵も奉納されていきました。

船絵馬
『神道名目類聚抄』より


 現在確認されている最古の船絵馬は、寛永3年(1626年)、アユタヤ日本人町の頭領だった山田長政が、故郷・駿府の浅間神社に奉納した戦艦図絵馬だと思われます(断定は出来ないけど)。
 ただし、これは焼失しており、写しが残っています。

船絵馬
山田長政の船絵馬。左上に「暹邏国住居」と見える

船絵馬
 上の絵馬を元にイラスト化したもの。艦首に2門の主砲が

 
 船絵馬を奉納する文化は、北海道と大阪を日本海側で結ぶ北前船の繁栄とともに拡大し、その後、200年ほど存続、明治15年(1882)ごろに終焉しました。

船絵馬
北前船「両徳丸」の模型(船の科学館)。この輸送船の形を弁才船といいます


船絵馬
北斎が描いた弁才船は不正確?(『上総の海路』visipixより転載)


 日本海側の各地に船絵馬が残ってるんですが、なかでも質・量ともに圧倒的なのが、新潟県胎内市の荒川神社です。かつて大きな港だった荒川河口にある神社で、ここから85点もの船絵馬が見つかりました。1970年に国の重要民俗文化財に指定されています。
 そんなわけで、その大量の船絵馬を見に行ってみたよ。

船絵馬
桃崎浜の荒川神社。屋根が顔みたいで珍しい


船絵馬
金箔を貼った豪華な船絵馬
(天保13年、左から八幡丸、不動丸、永宝丸)


船絵馬
天保12年、観音丸


 次の2点はこの観音丸の一部分を拡大したもの。後ろで扇子持って応援してる男がいますが、当たり前だけど、普段はこんな格好してないよ。
 なお、格好はともかく、人数や装備などはかなり正確に描かれていると言われます。

船絵馬
船尾部分拡大

船絵馬
船首部分拡大


 船首部分には4本爪の碇が見えますな。
 1997年、荒川の工事現場から、実際に当時の碇が見つかっています。

船絵馬
長さ2m、重さ106kg「四爪型」の碇


 初期にはかなり不正確で稚拙な作品も多かったようですが、やがて大阪を中心に船絵馬専門業者が誕生します。
 有名なところでは吉本善京、杉本勢舟などで、ほかに吉川芦光、絵馬籐(えまとう)などなど。

船絵馬 船絵馬
天保14年奉納、左から観音丸、八幡丸、福市丸。右端に「吉本善興景映筆」とある


 全国に「船絵馬」が流行すると、数艘ではなく、何艘もの船を描いた絵馬も登場します。 たとえば下は「広海家所有船図」(石川県加賀市の瀬越白山神社に奉納)で、実際はもう2艘が左に描かれ、全部で10艘描かれています。

船絵馬
ふみカード「北前船」



 全国から殺到した注文をさばくため、1849年、吉本派の3代善京は下絵を版画化し、量産態勢を取りました。これで大きくコストダウンが実現し、船絵馬はより低所得層にまで広がっていきます。
 しかしながら、それは絵図の画一化をもたらしました。
 たとえば下の2枚。碇の数といい、太陽といい、絵柄がほとんど一緒ですな。

船絵馬
奉納年未詳、福市丸

船絵馬
弘化3年、八幡丸


 ちなみに、この2枚で明らかに違うのは帆に描かれた黒い線の模様。これは「帆印」といって、船を遠くから見分けられるように描いたものです。

 いずれにせよ、絵柄の画一化とともに、徐々に船絵馬の人気は落ちていきました。

 では、画一化が悪いのかというと、それがそうでもないのですな。
 実は杉本派は大量生産を拒否し、あくまでも肉筆で商売していました。ところが、高価格の上、質が担保できず、結局、消えてしまったのです。大量生産への評価は、すでに江戸時代から高かったわけです。

 
 さて、北前船は、北の海産物を都会に運び、都会の生活物資を北に運ぶのが主な役割ですが、特に塩は瀬戸内海から全国に運ばれました。ところが、この絵馬が奉納された荒川港からも塩が出荷されていました。
 その塩は海水ではなく、山の中から掘り出されました。なぜ山に塩があるのか?

 実はこれ、日本では珍しい岩塩なんですよ。海水が1カ所にたまって蒸発すると塩の層ができます。それが褶曲して塩のドームが出来ると、その空洞には石油が溜まりやすい。それで、かつて胎内市の黒川から大量の石油が出たわけです。
 もちろん、北前船の時代に石油を使うことはほとんどありませんでしたが、もし日本海で石油を運んでたら面白かったですな。


船絵馬
手前は明和5年(1768)制作の北前船の模型。祭礼時の“シャギリ船”として使用


制作:2011年6月13日


<おまけ>

 塩が出た場所は現在の胎内市塩谷ですが、これは1331年、土地の境界争いで海老名忠顕が出した和与状(和解状)に「塩が出る塩谷・塩沢村」という記述があることから判明しました。
 平安時代以降、土地の使用が進むと、境界争い(「堺相論」といいます)が激化します。通常は両者の中間点で決着させました。これを「折衷の儀」といいます。しかし、だんだん武力で実力行使する人間が増えていき、この流れが治安悪化につながるということで、秀吉は1588年に「刀狩り」を行うのです。
 秀吉は刀狩令と同時に海賊禁止令も出すんですが、つまるところ、流通の整備と治安維持は、まさにこのとき始まったわけです。それから50年ほどして、ようやく船絵馬が登場するのです。
 
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