証言と文献で綴る
「浅間山」と「富士山」の大噴火

浅間山の噴火
天明3年の浅間山の噴火


 かつて日本人は「富士山と琵琶湖は同時にできた」という伝説を信じていました。

《孝霊天皇5年6月、富士山がはじめて姿を現した。江州(近江)の湖が一夜に湧出して、その土が富士山となったのである》(『和漢三才図会』69巻)

 
 土が飛んで富士山になったということは、おそらく火山の爆発でしょうが、第7代の孝霊天皇は実在が疑われており、西暦に直すこともできません。この伝説の出典も定かではなく、そもそも、琵琶湖も富士山もそんなに新しいものではありません。

 日本最古の噴火の記録は『日本書紀』に書かれています。
 天武天皇9年(680)、「飛鳥に灰が降った」とあり、天武13年に「太鼓のような音が東から聞こえた。ある人は『伊豆七島の2カ所で噴火が起き、土地が300丈も増えた。太鼓の音は神が大地を作る音だ』と言っている」とあります。
 そして、天武天皇14年(685)3月、

《是月、灰零於信濃国、草木皆枯焉》

とあり、信濃に火山灰が降り、草木がすべて枯れた、と書かれています。明記されていませんが、一般的にはこれは浅間山の噴火とされています。
(ただし、風向きを考えると焼岳・乗鞍岳・御岳などからの降灰の可能性が高いという説も。浅間山の噴火が明確に記録されるのは1108年が最古)

噴煙を上げる浅間山
噴煙を上げる浅間山(2008年)


 一方の富士山はどうか。
 未確認ながら、482年に噴火があったと『伊豆山縁起』に書かれてるそうですが、通常は781年が最初(『続日本紀』)の記録とされています。

 富士山には、3大噴火と呼ばれるものがあります。延暦19年(800)と貞観6年(864)と宝永4年(1707)に起きたもの。
 延暦19年の噴火は『続日本紀』に、

《3月14日から4月18日まで富士山頂が自ら焼け、昼は煙で真っ暗となり、夜は噴火の光が天を照らした。雷のような音が響き、灰が雨のように降った。ふもとの川は、みな水が紅色に染まった》

 と書かれています。大量の溶岩で地形が変わり、30キロ離れた箱根も砂礫で大きな被害が出ました。このとき、東海道の公道とされた足柄ルートが使用不能となり、翌々年、新たに箱根ルートが開かれました。こうして、今の御殿場が衰退し、三島や小田原が繁栄するようになったのです。

 貞観6年の噴火は、『日本三代実録』に

《岩を焼き、草木を焦がし、土石流が流れ、八代郡の「本栖湖」と「せの海」を埋めてしまった。水は熱湯になり、魚はすべて死んだ。百姓の家は海とともに埋まり、あるいは家は残っても人が消えた。その数は記しようもないほどだ》

 と記録されています。
 この2つはいずれも山梨県側(北側)に噴出したため、湖の形が変わってしまいました。

 富士五湖は、もともと一番西の本栖湖から、一番東の山中湖まで、1つの巨大な三日月型の湖でしたが、それが渇水で、西の石花湖(せのうみ)と東の宇津湖に分かれていました。
 ところが延暦大噴火で、宇津湖が山中湖と宇津湖に分かれ、石花湖が剗海(せのうみ)と本栖湖に分かれました。さらにこのとき川がせき止められ、新たに河口湖が誕生します。
 そして、貞観大噴火で剗海が精進湖と西湖に分断されました。平安時代にはしばらく富士6湖の時代があったんですが、まもなく宇津湖は消え、現在の富士五湖となるのです。
(中野敬次郎による。なお、山中湖は937年にできたなど、諸説あります)
 
○古三日月湖→宇津湖→山中湖
○古三日月湖→宇津湖→(消滅し、忍野八海)
○(堰き止めで誕生)河口湖
○古三日月湖→石花湖→剗海→西湖
○古三日月湖→石花湖→剗海→精進湖
○古三日月湖→石花湖→本栖湖

西湖から見た富士山
西湖から見た富士山
    

 貞観大噴火を受けて、朝廷は甲斐国に対して浅間名神を祀るよう命令しています。「あさま」は火山の古語とされるので、この時代から、富士山と浅間山は似たもの扱いなわけですな。
 ちなみに浅間神社の神は、火の中で出産し、火山の神とされる木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)が多いです。


 さて、平安時代の記録を読むと、常に富士山には煙が上がっていたことがわかります。
 たとえば、柿本人麻呂はこんな歌を詠んでいます。

《ふじのねの たえぬ思ひを するからに 常磐(ときは)に燃る 身とぞ成ぬる》(『柿本集』)


『万葉集』に載っている高橋虫麿(虫麻呂) の長歌「詠不尽山歌」には、

《富士の高嶺は、天雲も、い行きはばかり、飛ぶ鳥も、飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もて消ち
 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも》

 
 とあり、900年頃に書かれた『竹取物語』は、最後を

《不死の薬を焼かせて以来、その山を「富士の山」と名付けたという。その煙はいまだに雲の中へ立ち昇っていると言い伝えられている》

 と結んでいます。続いて1020年の秋、駿河を旅した菅原孝標女は、『更級日記』にこう書いています。こちら原文で引用。

《富士の山はこの国なり。わが生(お)ひ出でし国にては西面(にしおもて)に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さま異なる山の姿の、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積もりたれば、色濃き衣(きぬ)に、白き衵(あこめ=男の服)着たらむやうに見えて、山の頂の少し平らぎたるより、煙(けぶり)は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ》

 その後も、西行法師の『山家集』(12世紀後半)、源実朝の『金槐和歌集』(1213年頃完成)には、富士の煙を詠んだ歌が収録されています。

 ですが、1283年頃に完成した阿仏尼の旅行記『十六夜(いざよい)日記』には、

《富士山の煙は朝夕たしかに見えたのに、いつごろ消えたの、と聞いても、ちゃんと答えられる人はいない。そこで一句。「誰(だ)か方に なびきはててか 富士の嶺(ね)の 煙の末の 見えずなるらむ」》

 とあるので、鎌倉時代の初期に噴火がやんだと推測されています。富士山は1083年に噴火して以後活動が停滞し、そのまま1250年頃、煙も消えたんでしょう。

 鎌倉時代から活力の衰えていた富士山は、江戸時代の中期に再び大爆発を起こします。それが1707年の宝永大噴火です。
 このとき、降灰は80km四方に及び、一帯の農地を荒廃させました。多いところでは6m以上も灰が積もったと言われています。
 当時の江戸の様子はこんな感じです。

《夜に入ると灰はどんどん降ってきて、まるで黒い大きな夕立のようだった。夜どおし振動し、戸も障子も裂け、その恐ろしさは喩えようもない。昼も、空は夜のように暗く、ものの区別もつかない。どの家も明かりを灯し、町の往来も途絶えた。たまたま道を歩く人がいると、砂で目が眩み、けが人も出たという。きっと世の中が滅びるんだと女子供は泣き叫んだが、翌日、富士山の噴火だとわかって人心地ついた。砂は7〜8寸(25cm)、多いところでは1尺以上(35cm)も積もった》(『翁草』3巻による)

 新井白石の『折たく柴の記』にも記録が残されています。こちらは原文で引用しておきます。

《よべ地震(ちふる)ひ、此日の午後(うまのとき)雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。西城(せいじょう)に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ》

 面白いのは、当初白かった灰が、夜になると黒くなったと書かれている点です。白は軽石、黒は岩滓(がんさい=スコリア)という噴出物です。
 この灰は、長い間、江戸の市民を苦しめ、多くが風邪や呼吸器疾患に悩まされました。そしてできた狂歌がこちら。

《これやこの 行くも帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳》


 富士山はこれ以来、大きな噴火をしていませんが、今度は天明3年(1783)旧暦7月、浅間山が大噴火します。

浅間山の噴火
浅間山の噴火を描いた瓦版


 この年、「日本にあるすべての古い神社を拝んで幣(ぬさ)を奉りたい」と旅立った博物学者の菅江真澄は、ちょうどこの噴火に立ち会いました。その旅行日記が残されています。

《7月2日 夕ぐれ近く、ものの音が大きく響いたので、書を読んでいたものもやめて、人々は、何ごとだろうか、また雷かといったが、それらしい空の様子もない。近隣の家の板敷で、臼でもひいているのだろうということに落ち着いた。また尋ねてきた人のいうには、「今の音を聞きましたか、また鳴りました。これは、先日から浅間山が盛んに火をふきあげる音だと、いま通っていった旅人から聞きました」ということだった》(平凡社『菅江真澄遊覧記』より「伊那の中路」)


 地元では、以前から石臼をひくような怪音が断続的にしており、旧暦7月に入って大爆発が続きます。
 5日には昼夜の区別なく火の玉が飛び出し、6日には大鳴動が起き、夜10時になると、山の上はことごとく赤くなり、火玉・火石が雨のように降りだしました。ついに裾野一帯を焼き尽くし、住民は逃げようとしますが、いつ火石に当たって死ぬかわからないので、桶や布団を被って逃げ出しました。しかも、たまたま当時、伝染病が流行しており、病人の避難は壮絶でした。

 7月8日、山は朝4時から異常な大焼けとなり、8時から11時の3時間は、空前絶後の大噴火となりました。南は甲斐、尾張、伊勢、近畿まで、北は北陸、佐渡まで、西は中国地方、東は奥州まで振動が伝わりました。

《7月8日 夜半から例の音が響くので、起きだしてそのほうを眺めやると、昨日よりもまして重なる山々を越え、夏雲の空高くわきあがるように煙がのぼり、描こうとしても筆も及ぶまいと、みな賞でて眺めたが、その付近には小石や大岩を空のかなたまでふきとばし、風につれて四方に降りそそぐので、これに打たれた家は、うつばり(梁)までもこわされたり、埋められたり、逃げだす途中、命を失った人はどれほどか、数も知れないほどだと、やって来る人ごとに話しあった。浅間山の煙は富士とともに賞賛されるのが常だが、このたびの噴火は例のないことだとさわがれた。昼ごろから、いよいよ勢いを増して、雷のごとく、地震のゆさぶるように山や谷に響きわたり、棚の徳利、小鉢などは揺れ落ち、壁は崩れ、戸障子もはずれて、家のかたむく村もあるという。このあたりは高い山里なので、鳴り響く音もひどくはないが、低いところほど、とくに音が高く響いたであろう》(『菅江真澄遊覧記』)

 このとき、巨大な火砕流が発生し、嬬恋村の鎌原地域と長野原町の一部が壊滅。吾妻川がいったんせき止められたものの、土砂ダムはすぐに決壊し、そのまま大洪水となって流域の村を飲み込んでいきました。利根川と江戸川には大量の死体が浮かびました。この噴火による死者は約1500人とされています。
 
 余談ながら、ほぼ壊滅した鎌原村では、全村民650人中、生き残ったのは93人。全員がまとまって避難村を作りますが、夫婦は10組20人しかおらず、他は皆、抽選で夫婦になることが決まりました。それで新たに22組の夫婦が生まれたんですが、爺さんと乙女、婆さんと青年など妙な組み合わせも多く、まるで喜劇のような悲劇だったと記録されています。

 なお、この噴火以降、日本は飢饉が続き、暗黒の時代となります。そのときの落首がこちら。

《浅間しや 富士より高き 米相場 火の降る江戸に 砂の降るとは》

 噴火おそるべし、ですな。

制作:2013年4月9日


<おまけ>
 明治時代の噴火は磐梯山が一番有名です。しかし、明治21年(1888)なので、ほとんど写真が残っていません。おそらく、日本で初めて噴火災害の写真がきちんと撮られたのが、大正3年(1914)の桜島噴火です。そこで、当時の桜島の写真をいくつか掲載しときます。

桜島の噴火
桜島の噴火の様子

桜島の噴火
火山弾で破壊された家

桜島の噴火
火山灰が積もった家
© 探検コム メール