「皇居前広場」の誕生
幻の内堀通り「地下化」計画

皇太子ご成婚奉祝
皇居外苑に6色の光が(1924年、皇太子ご成婚奉祝)


 かつて東京には数多くの銅像がありましたが、戦時中の金属供出などを経て、かなり減ってしまいました。
 現在、東京の3大銅像は、靖国神社の大村益次郎像(1894年)、上野公園の西郷隆盛像(1898年)、そして、皇居外苑(皇居前広場)にある楠木正成像(楠公像)です。

 楠木正成像は、1897年(明治30年)、別子銅山の創業200年を記念し、住友家から献上されました。
 この銅像は皇居外苑の端っこにあるのですが、実は皇居外苑は非常に広大な公園です。一体、なんでこれだけ広い場所が東京のど真ん中に残っているのか?

 今回は、皇居外苑の誕生と、幻の地下道路についてまとめます。

楠木正成像
楠木正成像


 徳川家康が秀吉の命令で江戸に来たとき、今の東京駅の八重洲口そばまで海が来ていました。『落穂集追加』には、《八重洲の河岸には漁師の家が立ち並び、肴(さかな)はこの漁師たちから買う》と書かれています。

 家康は、すぐさま江戸城の建造に乗り出します。ちょうど江戸城そばに小高い場所があり、そこを均し、さらに堀を作ったことで大量の土砂が生まれました。この土が八重洲や日比谷の埋め立てに使われました。

 この小高かった場所は「西の御丸下」と呼ばれ、これが後の皇居外苑となります。

 西の御丸下には、江戸時代、松平家や内藤家といった諸大名の大邸宅が並んでいました。明治になるとほとんどが接収され、元老院、外務省、陸軍施設、さらに皇居を造営するための施設が置かれるようになりました。

明治20年の皇居外苑
明治20年の皇居外苑(『公園緑地』昭和15年1月号)


 1888年(明治21年)、皇居が完成し、「宮城」と改称されました。同時にほとんどの建物が撤去され、宮城前広場が誕生します。1898、東京が開かれて30年を祝う「奠都(てんと)30年祭」が宮城前広場で開催されました。明治政府は、天皇を中心に国民を統合するための装置として、広大なイベントスペースを用意したのです。

奠都30年祭の会場
奠都30年祭の会場

奠都30年祭の余興
奠都30年祭の余興(大名行列)


 1904年(明治37年)、日露戦争が勃発。連戦連勝が伝えられるなか、人々は宮城外苑に集まって提灯行列でお祝い しました。特に九連城陥落を祝った際は、多くの人が広場に殺到し、死傷者が出る事態になりました。ふだんから宮城に集まる参拝者も増加の一途をたどっており、東京市は宮内省の意を汲んで、外苑内の道路拡張に乗り出します。

 東京市は、日比谷公園の隣りにある拓務省(現在の法務省近く)から桔梗門方面への道路を拡幅し、これを「凱旋道路」と名づけました。凱旋道路の入口が「祝田橋」です。同時に桔梗門から東京駅までと、二重橋から馬場先門に向かう道路も整備しました。

宮城前広場に展示された日露戦争の戦利品カノン砲
宮城前広場に展示された日露戦争の戦利品カノン砲


 その後、1916年からは、陸軍始観兵式が宮城前広場で開かれるようになります。1924年には、皇太子(後の昭和天皇)の成婚奉祝会、1925年には消防出初式、1926年には建国祭が始まり、人々は、なにか祝祭があると広場に集まるようになるのです。

皇太子ご成婚奉祝
皇太子のご成婚奉祝会


 凱旋道路は、あくまで宮城参拝者向けの歩道でした。
 しかし、第一次世界大戦が終結したころから自動車が増え、付近の交通量は激増していきます。そこに関東大震災(1923年)が起き、東京市は凱旋道路を舗装し、自動車中心の道路に整備しました。これが現在の「内堀通り」です。

 いまも東京駅の丸の内中央口を出ると、幅広の道路がはるか向こうまで続いているのがわかります。これが「行幸通り」で、丸ビルと新丸ビルの間を抜けてのんびり皇居前広場に向かうと、歩行者は突如、内堀通りによって歩みが止まってしまうほど交通量が多い道路です。

 これは、内堀通りができたときからの問題でした。1934年(昭和9年)と1935年におこなわれた交通量調査によれば、凱旋道路は1日に2万5000台の車が通り、拓務省前にいたっては4万台を超える混雑ぶりでした。このままでは大渋滞が続くだけでなく、宮城参拝者の危険も高まるばかりです。
 
 考えられる対策としては2つありました。外苑内に迂回道路を作るか、地下道を作るかです。しかし、迂回道路を作ると、外苑の公園としての面積が減ってしまいます。そこで、地下道化が選ばれるのです。

皇居外苑内の迂回道路イメージ
宮城外苑内の迂回道路イメージ(『道路』昭和14年11月号)


 1940年(昭和15年)、紀元2600年(神武天皇誕生から2600年)を記念して、東京市が「宮城外苑整備事業」を公表します。具体的には、道路改修に加え、広場のさらなる整備、石畳の敷設、造園・植林、照明や給水器の設置です。あとは、明治天皇が東京に来て最初に通った和田倉門の復元も大きな要素でした。

和田倉門の復元イメージ
和田倉門の復元イメージ


 このとき、付帯事業に入ったのが地下道の築造です。
 東京市が発行した『宮城外苑整備事業概要』には、

《自動車と自転車の交通が、宮城外苑の尊厳と風致を損なうだけでなく、宮城参拝者に多大な脅威を与えている。しかしながら、外苑内を自動車・自転車ともに通行禁止にするのは到底不可能で、地下道を造って解決するしかない》といった内容が書かれています。

皇居外苑整備イメージ
皇居外苑整備イメージ


 新造される道路は、日比谷公園の西南にループ連絡道を作り、そこから地下に入り、大手門の先で地上に出て、大手町交差点までの1870メートル。そのうち地下道は1020メートルです。地下道は幅6メートルの自動車道が2本、その両側にそれぞれ幅0.5メートルの巡視通路、さらにその外側に3メートルの自転車道を1本ずつ設置し、幅員19メートルとなる設計です。

大手門そばのロータリー
大手門そばのロータリー


 宮城外苑整備事業の予算は319万3000円、地下道造営予算は950万円でした。資金の一部は寄付に頼り、また労働力も「肇国奉公隊」を組織してボランティアにお願いする計画です。

 すでに欧米では長大な地下道路が存在していましたが、日本では関門トンネルの計画があるくらい。実現すれば日本初の地下道路となるものでした。しかし、経験がない大工事だけに、問題は山積しています。たとえばトンネルの断面は円形がいいのか四角がいいのか。どれだけの幅員にすれば交通量の増大に対応できるのか、凱旋道路の下にある下水をどうしたらいいのか……。

地下道イメージ『宮城外苑整備事業概要』
地下道イメージ(『宮城外苑整備事業概要』)


 そんななか、最も大きな問題となったのが換気でした。当時の自動車は、燃料の不完全燃焼がしばしば起こりました。それは文字どおり有毒ガスとなります。当時の自動車が排出するガスは、水素、一酸化窒素、炭酸ガス、メタンガス、一酸化炭素などです。特に一酸化炭素は窒息性のため、とにかく中和できるだけの換気が必要でした。

 当時、アメリカ・イェール大学で、空気中における一酸化炭素の含有量と人体への影響に関する研究が行われていました。それによると、

○含有率0.1% 30分なら人体に影響なし
○含有率0.04% 60分なら人体に影響なし
○含有率0.01% ほぼ影響なし

 というデータがわかっていました。
 当初、建築家たちは4車線で100メートルおきに換気穴を作ると想定し、予備も含め120個の送風機が必要だと試算しています。日立製の送風機を使用した場合、1年間に3万円もの電気代がかかることがわかりました。

凱旋道路(内堀通り祝田橋交差点)
凱旋道路(内堀通り祝田橋交差点)

 もともと公園があることから、土地代はほとんどかかりませんが、トンネルの工事費はかなり大きくなりました。掘削代、土代、鉄筋代が工事のほとんどを占めることになりましたが、意外にコストがかかるのが「防空施設代」です。

 戦争中ということもあり、この地下道は防空壕の意味合いを兼ねることになったからです。
 こちらはドイツの報告から、爆弾に対する構造物の「侵徹度」が判明しています。

○10kg爆弾→土3、レンガ0.75、鉄筋コンクリート0.25
○50kg爆弾→土5、レンガ1.5、鉄筋コンクリート0.70
○300kg爆弾→土12、レンガ4、鉄筋コンクリート1.4

 といった具合。そのため、1.5メートルの厚さの鉄筋コンクリートで道路を覆い、300kg爆弾に耐えられる強度を確保しました。さらに防毒壁として50メートルごとにシャッターと地上への出口を設ける計画にしたことで、予算が膨れ上がったのです。

 結局、宮城外苑整備事業は、戦局の悪化と財政難から、1943年に休止となりました。日本初となるはずだった大規模地下道も、結局、実現することはありませんでした。

制作:2020年9月7日


<おまけ>

 敗戦後、アメリカは戦勝国の存在を誇示するため、宮城前広場で何度となくパレードを行いました。
 1946年、GHQは民主化の一環として第17回メーデー開催を許可。参加者が膨れ上がったことから初めて皇居前広場で開催されました。
 1950年、皇居前広場におけるデモ参加者らの逮捕事件が起き、政府は翌年、メーデーでの皇居外苑の使用を不許可とします。国家への忠誠を育てる装置だった皇居前広場は、戦後しばらく、政府と国民の対立の舞台となるのでした。

第17回メーデー
第17回メーデー
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