教育目的の凱旋門




西尾小学校の「凱旋門」校門
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 愛知県西尾市では、日露戦争の凱旋門が、教育目的として西尾小学校の校門として立てられました。




 もともと西尾町では、日清戦争が始まると同時に、国民総参加の意味合いから「恤兵(じゅっぺい)義会」が設立されています。「恤兵」とは、軍人に対して金品や物を送って慰労することです。この「恤兵義会」も、有志者の義援金で町出身者の軍人を支援し、「後顧の憂(うれい)なからしむるを目的として」(「恤兵義会概則」)組織されました。



 会長は町長が務め、活動内容としては、《従軍者家族を慰問し、生活困難な家庭には扶助料を贈り、従軍者に対しては慰問状を発送し、戦傷病者に対しては見舞いを、死亡者に対しては墓碑建設費を遺族に贈るなど》多岐にわたりました(『西尾市史4(近代)』による)。



 日露戦争が始まると、「恤兵義会」に代わって「尚武会」が結成され、応召餞別の規定、歓送迎などが活動内容に加わりました。



 では、西尾町では帰還兵はどのように歓迎されたのか。



(1)尚武会役員が隣町の岡崎停車場へ出迎える。


(2)各戸は国旗を掲げ、関係者のいる地域では球燈をつるす。


(3)凱旋者は伊文神社および御剱八幡宮(みつるぎはちまんぐう)に参拝し、終了後、町役場に参集。


(4)尚武会長が歓迎の辞を述べ、酒肴を饗する。



 となっています。



 1905年、日露戦争の戦勝記念として凱旋門を建設することになりました。高い石柱が2本立てられ、先端に戦利品の砲弾がとりつけられました。右柱には「神武輝千歳」、左柱には「皇風被八紘」という皇軍を象徴する文字が刻まれています。文字は、旧藩主松平乗承(まつだいら のりつぐ)が篆書体で書いたものです。



 凱旋門は、当初、伊文神社脇の主要駅である天王門駅そばに建設される予定でしたが、児童の教育に資するため、西尾尋常高等小学校(西尾小学校)の校門として建てられました。この凱旋門は、敗戦の前年、1944年12月7日の東南海地震で倒壊し、撤去されています。



 なお、西尾市では、神社から陸軍大臣に宛てた「明治三十七八年戦役戦利品御下付願」がいくつか残されており、砲弾や軍刀などの戦利品払い下げが申請されたことがわかります。これらの下付品は、神社など多く人が集まるところに凱旋記念として展示されました。