外地に作られた凱旋門(2)



沙河の凱旋門


gaisenmon66



 明治37年(1904年)夏、日本とロシアは遼陽付近で交戦し、日本は遼陽の占領に成功します。その後、ロシアが奉天から大兵力を南下させたことで、明治37年10月、中間地点の沙河で戦いが起きました。しかし、冬の訪れとともに膠着状態が続くことになります。



 そうしたなか、明治38年1月1日、旅順のロシア軍が降伏しました。



 すると、沙河の前哨陣営の日本軍は、すでに旅順が陥落して、城をあけわたしたロシア兵が続々と日本に送られている状況を敵に知らせてやるのも「武士の情」であろうと、なんとも不思議な行動に出ます。



 以下、石版画「沙河陣営ニ於テ紙鳶ヲ飛揚シテ旅順陥落ヲ敵ニ報スル之光景」(明治38年2月「日露戦争大捷記念画」第58号、博画館刊)に書かれた内容をまとめておくと、



《大きな紙鳶(たこ)をつくり、これに乃木(希典)将軍とステッセル将軍とが握手している絵を描き、それに一通の書簡をそえて、視察の代議士一行が見物する前で紙凧をあげ、敵陣の方向へ送った。



 ロシア兵は、一斉射撃でこれを撃ったので、糸がきれて落ち、いい結果を得られなかった。そこでその夜、日本兵の大胆な者が、夜陰に乗じてこの紙鳶を敵陣近くまで運んでおいたところ、うまく敵の手に渡ったとみえて、この紙鳶の行方がわからなくなったという。



 たしかに敵方がこの紙凧と書簡とを得たのならば、ロシア兵の士気が落ちることは明らかである》



 なお、この石版画では、ロシア軍の降伏を1月4日と誤記しています。



凧の拡大図(ロシア語らしきものも見える)


gaisenmon67