新橋の凱旋門



東郷平八郎、新橋駅へ凱旋
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 新橋の「戦役紀年陸海軍歓迎凱旋門」は、東京市参事会が議決して建造したもので、新橋停車場前の広場から新橋方面へ曲がる角、「旅館つる家」の前にありました。


 角に位置しているため、新橋停車場に対しても新橋に対しても斜めになりました。



 間口は58尺、奥行きは26尺、軒の高さ42尺。地面から最頂部までの高さは60尺なので、18m以上ある巨大な門です。


 柱は地中に6尺埋め込まれ、木造で漆喰塗り。完成後1年ほどは保存するため、比較的堅固な作りとなっています。


 表面には、銃剣などの飾りがつけられ、その上に月桂樹の紋様が。門の最上部には、陸軍を意味する砲身と海軍を意味する碇(いかり)の装飾物が載っており、さらに陸海軍の軍旗、国旗など5本の旗が飾られました。


 正面には「凱旋門」と書かれ、凱旋の当日は門の中央で軍旗を交叉させています。


 イルミネーションにも対応しており、上部にロウソク100本分(100燭光)の電球、内部と側面は50燭光、月桂樹の上に16燭光の電球が付けられていました。

 
 1905年10月13日に着工し、22日に完成。なお、設計は警視庁の技師・福岡常次郎で、施工は清水組。予算は4000円でした。


東郷平八郎の新橋凱旋
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 さて、東郷平八郎ら海軍の凱旋は、新橋が中心となりました。


 一行を乗せて横浜を出た列車は、1905年10月22日午前10時30分、新橋駅に到着。


 東郷がプラットホームを出で駅の玄関にたどり着くと、待っていた群衆から大きな万歳の声が沸き起こります。以下、『時事新報』(10月23日)の記事を掲載しておきます。


《待ち構えたる広場の幾万の大衆は酔えるがごとく狂するがごとく万歳を絶叫し、あるいは抃舞(べんぶ=喜びのあまり手を打って踊ること)し、帽を打ち振り、手巾(ハンカチ)を打ち振りたるこのときの盛観、そもこれを何に喩(たと)えん。


 天は震い、地も憾(うご)きて、満空の彩旗、一時へんぺんとして空に舞えり。


 川を隔てたる京橋区の側にては、博品館が海陸軍旗、花傘等にて美々しく飾り付けたるをはじめとし、その他の家々はことごとく紅白の幔幕(まんまく)を張り、丸屋町角の陸運社より土橋なる写真店江木塔(注・塔のある江木写真館)上に向けたるをはじめ、幾筋となく綱を引き渡して万国旗をかけ連ね、電気鉄道にても土橋際に大竿をたてて各国旗を飾り付けて歓迎の意を表し、対岸なる通路もまた軒並みに紅白の幔幕を張り、難波橋上には大国旗を交叉して彩旗をかけ連ねたり。


 かくて歓迎人は早朝より早や続々と通路に押し寄せ来たり、新橋橋上のごときは両側とも通行の自由ならざるまでに人をもって充満し、その他対岸の京橋側はいうまでもなく通路も人垣を築きて、その雑沓いうべくもあらず》


 上の記事では凱旋門について触れられていませんが、続いて満洲軍総司令部の凱旋ではどうか。


満洲軍総司令部の凱旋
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 こちらは12月7日午前10時39分に広島から新橋に到着。


 雨の中、道は泥濘となっていましたが、新橋停車場の近辺は「すみよりすみまで一杯の人の山」。


《儀仗兵は式のごとく喇叭(ラッパ)を吹奏し、銃を捧げて敬礼を行い、市中各種の楽隊は一斉に奏楽し、一度やみたる万歳の声はこのときをもって再び起こり、しばし鳴りもやまず、その間は大山大将、児玉大将をはじめ一行一同はいずれも皆、馬車の速力を緩(ゆる)うして徐々凱旋門を出て、順次宮城(=皇居)指して赴けり》(『陸軍凱旋写真帳』)


 とあります。