
歌人の佐佐木信綱は、日清戦争の勝利に際し「支那征伐の歌」(博文館、1894)を作っています。この歌は、『日章旗の歌』『進軍の歌』『義勇兵の歌』『我日本の歌』に続き、『凱旋門の歌』の5部構成となっています。
『凱旋門の歌』は、
で始まる長い歌で、いわゆる豊島沖海戦の勝利から長々と歌っていくものです。
この歌の最後の部分を引用しておきます。なお、遊就館とは靖国神社の軍事博物館のことです。
朝日の光にきらめける 金鵄の勲章身に負(お)びて
天地にとどろく歓迎の 拍手の内(うち)に帰らなむ
汝がとりて帰りこむ 船はつながん横須賀に
汝がとりて帰りこむ 武器は飾らん遊就館
我国民は類なき 勝利を得つつ帰りこむ
勲功あらはし帰りこむ 汝兵士を迎へむと
あるは新橋の橋のべに あるは上野の岡のべに
きづきぞたてむ汝らが 名誉を残す凱旋門
きづきぞたてむ汝らが 名誉を残す凱旋門》
歌詞中に新橋と上野の凱旋門が登場しますが、この歌の発表時点(1894年8月)では、おそらく存在していません。
日清戦争の凱旋門が、実際に新橋にできたのは1895年5月です。日清戦争の終結を受けて、明治天皇が帰京した折りに作られました。
当日、5月30日の様子は以下の通り。
《新橋停車場内は、大小の柱ことごとく緑葉をもって包み、点綴(てんてつ=結びつける)するに石竹の花をもってし、その天井四壁には国旗をくまなくかけ連ね、紅白または紫白の幔幕を張り、10時(より)後の汽車を止め、場外の広場に公衆の入るを禁じ、新橋口・蓬莱橋口および露月町口ともみな縄張をなして警官これを守り……(中略)
広庭の内(なか)はいと静かにして、東京市が設けたる「奉迎聖駕」の大緑門(=大アーチ)は交差せる大国旗を支えて巍然(ぎぜん)として立てり……(中略)
御料の(=天皇の)馬車は、まず停車場外の大緑門を入りて、左に折れ、幸橋へと向かう。沿路の衆声、万歳を歓呼し、声は天地を動かさんばかりなり》(『風俗画報』96号/1895年7月25日号)