小学校の誕生

小学校
小学校の図(「画引日本略史便覧」1877)


 江戸時代、寺子屋が担ってきた庶民教育は、明治5年(1872)8月3日の学制公布により、文部省の管轄となります。
 当時の学校制度は、尋常小学校8年間(下等6歳から4年間、上等4年間。1年目が第8級生になります)、中学6年間 (下等3年、上等3年)、大学といった枠組みとなり、小学校が義務教育となっています。
 教える内容は、「学問は身を立るの財本」という考えから、従来の“儒教的な理念”教育を捨て、非常に実学的なものに変わります。具体的に書いておくと、下等小学校で教える科目は

 綴字・習子・単語・会話・読本・修身・書牘・文法・算術・養生法・地学大意・理学大意・体術・唱歌
 
 といったところ。
 上等小学校ではこれに加えて、

 史学大意・幾何学罫画大意・博物学大意・化学大意
 
 場合によっては外国語学の一二・記簿法・画学・天球学ま で教えました。
 ただし内容は翻訳物が多く、非常に分かりづらいものでした。しかも授業料は生徒が負担するため、次第に不評を買うようになります。
 その後、明治12年(1879)の教育令、明治19年(1886)の小学校令など、次々と改善していくことで、今日の学校教育の基礎が出来たわけです。


 それでは、「学制」施行の布告を全文公開しときます。新しい時代を迎えての、若い意気込みが感じられます。


太政官第二百十四号
 人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌(さかん)にして以て其生を遂(とぐ)るゆゑんのものは他なし、身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり而て其身を脩め知を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能はず、是れ学校の設(もうけ)あるゆゑんにして、日用常行言語書算を初め仕官・農・商・百工・技芸及び法律・政治・天文・医療等に至る迄、凡人の営むところの事学あらさるはなし

 人能く其才のあるところに応じ勉励して之に従事し、しかして後、初て生を治め産を興し業を昌にするを得ベしされば、学問は身を立るの財本(ざいほん)ともいふべきものにして、人たるもの誰か学ばずして可ならんや、夫(か)の道路に迷ひ飢餓に陥り家を破り身を喪(うしなふ)の徒の如きは、畢竟(ひつきやう)、不学よりしてかかる過ちを生ずるなり

 従来、学校の設ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども、或は其道を得ざるよりして人其方向を誤り学問は士人(しじん)以上の事とし、農工商及婦女子に至つては之を度外(どぐわい)におき、学問の何者たるを辨(べん)ぜず、又、士人以上の稀に学ぶものも動(やや)もすれば国家の為にすと唱へ身を立るの基(もとゐ)たるを知ずして、或は詞章・記誦の末に趨(はし)り、空理虚談の途に陥り、其論高尚に似たりといへども、之を身に行ひ事に施すこと能ざるもの少からず

 是すなはち沿襲(えんしう)の習弊にして文明普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏・破産・喪家の徒多きゆゑんなり

 是故に人たるものは学ばずんばあるべからず、之を学ぶに宜しく其旨を誤るべからず、之に依て、今般文部省に於て学制を定め、追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき、自今以後、一般の人民(華士族農工商及婦女子)必ず邑(いふ)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す

 人の父兄たるもの、宜しく此意を体認し、其愛育の情を厚くし、其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり(高上の学に至ては其の人の材能に任かすといへども、幼童の子弟は、男女の別なく小学に従事せしめざるものは其父兄の越度たるべき事)

 但、従来、沿襲の弊、学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費及其衣食の用に至る迄多く官に依頼し、之を給するに非ざれば学ざる事と思ひ、一生を自棄するもの少からず、是皆惑へるの甚しきもの也、自今以後、此等の弊を改め、一般の人民他事を抛(なげう)ち、自ら奮(ふるつ)て必ず学に従事せしむべき様心得べき事
 右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事

 明治五年壬申七月
                                                         太政官

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